第41章「壊れかけた旋律」へ続く

 11月10日(金)夕方。

 潮守高校の音楽室には、沈んだ空気が漂っていた。

 ピアノの上には教本と楽譜が開かれている。

 窓の外では早くも夕暮れの影が差し始めていた。

 有紀は、右手に持ったトランペットを見つめたまま、動けずにいた。

「……はぁ……」

 吐息が静かにこぼれる。何度目のため息か、自分でもわからない。

 譜面台に置かれたソロパートの譜面。最後の八小節。そこが、どうしても揃わなかった。

「いつもは吹けてたのに……なんで、こんな……」

 この日、吹奏楽部では期末演奏テストが行われていた。

 部員全員が一人ずつソロパートを吹き、演奏力の確認と進路指導の参考にされる大事な試験。

 中でも、有紀にとっては「灯台の活動と部活動の両立」が正しかったかを問われる、ひとつの答えでもあった。

 けれど。

「……リズム、ズレてたよね……明らかに……」

 鏡越しに映る自分の顔は、思った以上に青ざめていた。

 予定していた練習時間が取れず、連日の疲れも積もり、焦りがミスを呼び、

 そして失敗が、心のどこかをぽっかりと空けた。

 誰かが音楽室のドアをノックした。

 ――けれど、有紀は反応できなかった。

「……有紀?」

 開いた扉の隙間から、麻里奈の声が静かに届いた。

「……入っていい?」

 その声は、責めるでもなく、かといって優しさで包むでもない。

 ただ、静かにそこにある空気のようだった。

 有紀はうなずいた。無言で。

 麻里奈は、有紀のそばに座ると、何も言わずにしばらくトランペットの音を聞いていた。

 誰かが別室で個人練習しているらしく、音がかすかに流れてくる。

「……みんな、頑張ってるのに……私だけ、足踏みしてるみたい」

 有紀の声は震えていた。

「私、ちゃんと計画立ててたのに……全部うまくやろうと思ったのに……なのに……」

 握っていた譜面がくしゃくしゃになる。

「灯台も、吹奏楽も、どっちも中途半端で……自分がどこに立ってるのか、もうわかんないよ……!」

 堰を切ったように、涙がこぼれた。

 その涙は、感情の高ぶりだけでなく、積み重ねてきた自分の努力や誇りさえも洗い流してしまいそうで――

 止めようとしても、止められなかった。

 その肩に、そっと毛布がかけられた。

「……いいんだよ。泣いても」

 麻里奈が、目を閉じて静かに言った。

「有紀が、灯台を守りたいって思ってるのも、音楽をやめたくないって思ってるのも、ちゃんと伝わってる。

 中途半端なんかじゃないよ」

「でも、失敗したの……! ソロ、あんなに練習してきたのに……」

「だからこそ、泣いていいの。――でもね」

 麻里奈は、涙をふくハンカチを差し出しながら、静かに言葉を続けた。

「『休む勇気』も、立派な計画のうちなんだよ。有紀」

 その言葉は、有紀の胸の奥に、ゆっくりと沁みていった。

 責めず、諭さず、ただ「受け止める」ことに全力を尽くしてくれる麻里奈の優しさが、

 ようやく今の自分を許してくれる気がした。

「……ありがとう、麻里奈ちゃん」

 声にならないほどかすれた言葉を、麻里奈はちゃんと聞き取って、頷いた。

 音楽室の外では、誰かのトランペットが空を貫くような高音を響かせていた。

 ――その音の先に、きっと自分も、また立てる。

 そう思えたのは、誰かがいてくれたからだった。

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