第36章「灯をつなぐ音会(おとかい)の準備」

 秋の風が、ほんのり金木犀の香りを運んでくる日曜の夕方。

 潮守高校の中庭は、明日から始まる文化祭に向けて騒がしくも活気に満ちていた。

 赤茶色のレンガが敷き詰められた広場の中央に、仮設ステージが組まれている。

 鉄骨の土台に木材を渡し、背後には白い幕。照明はまだ仮設状態で、スピーカーの配線が足元を這っていた。

「えっと……この電源タップ、ブレーカーに直結でいいんだよな?」

 電源ボックスを覗き込みながら、大知が汗をぬぐった。Tシャツの背中は、作業でじっとり濡れている。

「ステージ照明と音響系は別回路で分けてる。雷が来ても、こっちは落ちないようにしてある」

 そう言って、横でしゃがみこんでいた慧がケーブルを丁寧に束ねていく。

「こっちのモニターケーブル、浮いてるよ。ガムテじゃなくて、布テープ使った方が安全」

「サンキュー慧、頼れるなぁ……って、もう慣れてきてるよな、こういうの」

 慧は照れたように、眼鏡を押し上げるだけだった。

 

 一方、有紀とモリーはステージ袖で、譜面台の配置と演奏者の立ち位置を確認していた。

「ハープとブラスの音がぶつからないようにしたい。横並びより、少し段差つけて奥行き作ろうか」

「Then I’ll move slightly to the back, no problem. That way, your trumpet can lead.」

「ありがと、モリー。……なんか、すっごく安心する。音のこと、こんなに考えてくれるなんて」

 モリーはうっすら笑い、譜面を指差した。

「You care about your sound too. It shows.」

 その言葉に、有紀はふと、緊張の芯がほどけるような気がした。

 

 ステージの一角では、愛未が仮設幕にライブ名「灯をつなぐ音会(おとかい)」とペイント中。

 濃い青の下地に、白いブラシで「灯」の一文字を描いた。

「この一文字に、全部込めるって感じだよね。……って、雄大、見てる?」

 少し離れた木陰に立っていた雄大は、手にした工具箱をゆっくり地面に下ろして答えた。

「ああ。……つないでるって、思った。ほんとに」

 空は茜色に染まり、校舎の窓が反射して光っている。

 仮設ステージの影がゆっくり伸びて、灯台へと続く坂の方角をさしていた。




 

 夕方五時をまわり、作業はいよいよ佳境に差し掛かっていた。

 校舎裏の倉庫から、追加のイスや譜面台、リールコードを運び込む。

 その重さに少しうめき声を上げながらも、郁也はにこやかだった。

「ほらほら~、男手フル稼働っしょ。史也も片腕だけど、まだまだやれんだろ?」

 左腕をギプスで固定した史也は、「お前が余計な口きかずに担げば二倍速だよ」と返す。

 それでも、ふと笑みが浮かぶあたり、二人の関係はやはりバランスが取れていた。

「史也、そこもう少し奥。斜めに積んだ方が倒れにくい」

 鮎美がチェックシートを片手に声をかけると、史也が片眉を上げて首肯した。

「了解。言われたとおりにやるのも、なんか久々だな」

「そう? 私の記憶じゃ、いつも私の確認通りだったけど」

 二人のやり取りは、どこか静かなリズムで交わされ、現場に落ち着きをもたらす。

 中庭のざわめきの中、こうした些細なやり取りもまた、「準備」という名の灯の一部だった。

 

 一方、有紀はひとりでトランペットを手に、ステージの中心に立っていた。

 夕陽が彼女のシルエットをオレンジ色に縁取り、金属のベルが微かに光っていた。

「……本番で、うまく吹けるかな」

 小さくつぶやいたその声は、風に乗ってどこかへ消えた。

 音楽室での演奏とは違い、屋外は音が逃げていく。だからこそ、芯のある音を届けなければならない。

 けれど——有紀の手は、少しだけ震えていた。

 

「ねぇ」

 その肩に、ぽんと手が置かれる。

 振り向けば、そこにいたのは雄大だった。手には小さなコード巻きと工具。

 でも、彼の視線は、トランペットではなく、有紀の目をじっと見ていた。

「大丈夫。……この風も、潮の匂いも、灯台も。全部、有紀の味方だよ」

 一瞬、有紀の目が潤んだ。

「……ありがとう。でも、私……自分の音が、誰かに届くかどうか、不安で……」

「届くよ」

 雄大は即答した。

「だって、俺にはもう届いてる。……あの日、あの倉庫で、有紀が息を吹いたときから」

 有紀は、しばらく何も言えなかった。喉が詰まりそうになって、ようやくこぼれたのは微笑みだった。

「……ずるいな、それ。緊張してるのに、なんか泣きそうになった」

「それは、俺も。……ずっと、ずるいくらい、見てたから」

 その視線に、有紀は真っ直ぐ応えた。

 照明チェックのテストで、一斉にステージのスポットが灯る。

 二人の影が重なり、中庭に長く伸びていく。

 




 

「よし、メイン電源チェック、完了!」

 大知の声が中庭に響いた。ケーブルが這う足元を見回し、安全の確認も入念に終える。

「トリプル接地もOK。ブレーカー容量にも余裕ある。あとは……えーと、慧、サブのアンプの接続どこまで終わってた?」

「あと1本、ピンが合わなかったのがあってね。端子交換しちゃう」

 慧は落ち着いた声で答え、手元の小さな箱から交換部品を取り出した。

 その仕草は迷いがなく、彼の「安定を求める」性格が、こうした場面で最も頼もしく見える瞬間でもあった。

「わたし、何か手伝えることある?」

 朱音が訊くと、慧はふっと笑った。

「今は気持ちだけもらっとく。あとで音量バランス見るとき、君の耳が必要になるかもしれないから」

「へぇ、嬉しい。そういうの、信頼っていうんだよ?」

 朱音がちょっと意地悪そうに笑うと、慧は少しだけ頬を赤らめた。

 その様子を愛未が見つけて、「なんか青春してんねぇ〜」と冷やかしの声を飛ばす。

「アンタも準備手伝って!」

 朱音の怒鳴りに、愛未はぴょんと飛び退きつつ、冗談交じりにスマホを構えた。

「ステージ前のこの瞬間、バッチリ記録するってば! あっ、マクシー! モリー! こっち向いて!」

 

 カメラを向けられて、マクシミリアーノがすぐにポーズをとる。

「この帽子、ちょっと曲がってない? オーケー、パーフェクト!」

 一方、モリーはというと、ハープの調律をしながら、静かに微笑むだけだった。

 彼女は派手なアピールはしないけれど、その存在がステージに「特別感」を加えていた。

「この学校で、こんな風に音と灯りを合わせて何かをするのって、なんか、いいね」

 彼女の一言に、誰もが無意識に手を止めた。

 夕陽が完全に沈む前の一瞬、金と紅の光が空とステージを染める。

 潮守高校中庭に立つ、生徒たちひとりひとりの顔が、なにかを背負ったように輝いて見えた。

 




 

「マイクの立ち位置、ここでいいかな?」

 有紀が譜面台を横にずらしながら訊くと、モリーが優しく頷いた。

「ステージの反響が心配なら、もう半歩下がると音が広がるよ。ハープはここから支えるから」

「うん……ありがとう、モリー」

 有紀は深呼吸をひとつして、ステージ中央に立った。

 仮設とは思えないほど丁寧に組まれた板の上。昨日までは夢だった舞台が、今ここにある。

 その中心に、自分が立っているという実感が、足裏から静かに伝わってくる。

 

「ユウダイくん、アンタの譜面ここ!」

 背後から愛未が走ってきて、トランペットパートの譜面を掲げる。

「あ、ごめん、ありがとう」

 雄大は楽器ケースを開けて、マウスピースを装着する。

 水泳部の肩を回す動きと同じように、無意識に身体のバランスを整えながら。

「なんか……不思議だな。音楽って、いつも“準備運動”から始まるんだな」

 ぽつりと呟くと、有紀がふふっと笑った。

「当たり前だよ。心も身体も、ちゃんとチューニングしないと、音が揃わないんだから」

 その一言に、雄大は少し目を細めた。

 ──本当に、君はすごいな。

 そう思ったが、口には出さなかった。

 まだ、言葉にすると崩れてしまいそうな、なにかがあった。

 

 そして音響チェックの合図と共に、リハーサルが始まった。

 有紀が吹くトランペットの一音目は、ほんの少し震えていた。

 けれど、モリーのハープがそのあとを柔らかく包み、会場にいる全員の鼓動がそっとそろっていくような感覚があった。

 




 

 ステージのすぐ脇、音響機材のケーブルが縦横に伸びているその場所で、慧がしゃがみ込んでいた。

「青が入力、赤が出力、黄色は……電源じゃなかったよな」

 一つひとつ指差しながら確認していくその姿に、大知が隣から声をかけた。

「慧、あとは俺がやるよ。お前、日直だったろ? 中庭の設営終わったら体育館の照明チェックに回ってくれって先生言ってた」

「でも……」

「任せろって。お前の“確認癖”、俺が引き継いどくから」

 そう言ってにやりと笑う大知の顔に、慧は一瞬たじろいだが、すぐに肩の力を抜いて頷いた。

「……頼んだ。もし赤と青間違えたら、火花出るかもしれないから気をつけて」

「まじかよ! 慎重にやる!」

 笑い合う二人の後ろを、風が抜けた。秋の空気が乾いていて、それでも遠くで蝉が、まだひと声だけ鳴いていた。

 

「鮎美ー! 進行表、もう一部もらっていい?」

 朱音が手を振りながら駆け寄ってくる。

 鮎美はパイプ椅子に腰かけたまま、ファイルの中から二枚目の進行表を抜き取って差し出した。

「ステージ進行、15分ごとのタイムブロックで動かすから。セッティング時間を少し長めにとってるの、前回の反省ね」

「了解。あたしも集計テントの設営行ってくる!」

 朱音が走り去ったあと、鮎美は視線を遠くにやった。

 校舎と灯台を繋ぐ中庭、その先にある遠い青の気配を、目で探すように。

 

 思い返せば、この数ヶ月。

 最初の工程表を引いたあの夜から、いくつもの計画がずれ、修正され、また練り直されてきた。

 でも、今日だけは違う。

 この瞬間は、誰かの予定通りではなく、みんなの「ここまできた」という実感そのものだった。

 




 

「モリー、マイクテストいける?」

 音楽室からトランペットケースを抱えて戻ってきた有紀が、ステージ脇に立つモリーに声をかけた。

 モリーはイヤモニを片手に、そっと首を縦に振る。

「静かなときにしか鳴らせない音があるって、昨日も言ったよね?」

「うん、覚えてる。でも、今日は――少し賑やかな静けさ、かも」

 モリーは微笑んで、ステージ中央に進み出た。

 彼女の足元には、朱色と焦げ茶の絨毯が敷かれ、小さな椅子とハープの台が置かれている。

 立ち止まった彼女は、深く息を吸って、弦に指を添えた。

 ――ポロロン……

 透明な音が、日が傾きはじめた中庭を滑っていく。

 次の瞬間、有紀がそっと口元にマイクを寄せ、トランペットのピストンを押した。

 ハープとトランペット。

 対照的な音色が、重なり合い、波紋のように広がっていった。

 

 スピーカーから少し遅れて返ってきた音を聴いて、慧が親指を立てた。

「音、クリア。リバーブも調整できてる」

 鮎美が手元の進行表にチェックを入れる。

「じゃあ、これで本番いけるね」

 

 その時、有紀の耳元に、モリーの小さな声が届いた。

「明日、灯がちゃんとともりますように」

 有紀は一瞬、目を見開いた。

「え……」

「灯台って、ね。海の国でも、空の国でも、たぶん、同じ意味を持ってる」

 モリーはそっとハープのフレームに手を置き、優しく撫でるように言った。

「それは、“帰ってくるための印”よ」

 

 その言葉に、有紀の胸が、じんわり熱くなった。

 あの日、初めて登った灯台。

 それから毎日、少しずつ重ねてきた想い。

 その全部が、今ここで音になっている。

 




 夕焼けが中庭を朱に染め始めるころ、設営班の動きは一段と慌ただしくなっていた。

 朱音がステージ裏でコードの養生を確認し、大知が最後の通電チェックを終えたところで、「点灯式テスト、いきまーす!」と愛未の声が響く。

 点灯係の慧が合図にうなずき、パネル横のスイッチを押す。

 その瞬間、中庭の中央に据えられたライトスタンドが一斉に灯り、仮設ステージが淡い白光に包まれた。

「うわ……」

 誰ともなく漏れた声に、有紀も顔を上げた。

 光に照らされたステージの縁には、昨年の灯台写真が投影されていた。

 波間に浮かぶようにぽつんと立つその姿は、まるで海そのものの記憶を灯し続けているようだった。

「これ……誰が選んだの?」

 有紀が呟くと、愛未が胸を張って答えた。

「鮎美ちゃんとモリーちゃんと三人で。音に合わせて写真が変わる仕様にしてあるの。ハープのパートで朝焼け、トランペットのソロで真昼、最後は――」

「灯台の灯が、夜の海を照らす」

 モリーが静かに、続きを継いだ。

「……まるで帰り道のようだね」

 有紀はもう一度ステージを見た。

 このステージで、明日、自分は吹くのだ。あの旋律を、あの想いを。

 緊張ではない何かが、心にじんわりと広がっていた。

「ありがとう。みんな……ほんとにすごい」

 

 鮎美が音響担当の青年に向かって手を振る。

「はい、最終リハ終了!明日は朝七時集合、忘れ物禁止!控室と搬入口、今から改めて動線確認します!」

 そのキビキビとした指示に、一同が「了解!」と声を揃える。

 この光の準備が、明日、本物の灯台の灯へとつながる――そんな確信が、有紀の胸を温かくした。




 夜の校庭に残る最後の光が、倉庫の裏から漏れていた。

 音響スタッフが機材を片付ける中、有紀はひとり中庭のベンチに座っていた。

 明日のステージを思い描こうとしても、心は妙に静かだった。

 あの旋律を吹く瞬間、灯台のこと、みんなのこと、雄大のこと――すべてが繋がるような気がして、怖いくらいだった。

「……ここにいたんだ」

 肩越しに声がして振り向くと、そこに雄大がいた。

 手には、ステージの片付けで使った軍手が握られている。まだ砂の匂いが残っていた。

「控室、片付いた。明日、晴れるといいな」

「うん……」

 それだけで沈黙が続いた。けれど、有紀は不安ではなかった。

 灯台の下で、キャンドルを並べたあの日。流星群を見上げて言葉を飲み込んだ夜。

 雄大が隣にいてくれた静かな記憶が、今日もそっと背中を支えていた。

「……なあ、有紀」

「うん?」

「明日、さ。俺、お前の音、ちゃんと聴きたい。演奏が終わったあとも、その音の余韻を……たぶん、一生、覚えてる気がする」

 その言葉が、有紀の胸の奥でやわらかく鳴った。

 言葉にならない思いが、波のように押し寄せてくる。

「ありがとう……それ、すごくうれしい。私も……きっと、聴いてて。君の声」

 ふたりの間に、言葉以上のものが流れていた。

 灯台の光が、まだ見ぬ夜を照らすように。

 そのとき、校舎裏から愛未の叫び声が響いた。

「ねえええ!有紀ー!明日の衣装、試着してたらモリーの靴下が入ってたんだけど!? これ、何かのメッセージ!?」

 一気に現実に引き戻されたふたりは、顔を見合わせて、ふっと笑った。

 灯台に灯る光が、ほんの少し強くなった気がした。

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