第26章「七夕に灯る願い」

 7月7日、金曜日の夜。

 潮守の海に、いつもより柔らかい風が吹いていた。

 灯台のふもとには、細く切った竹と、無数の短冊が結びつけられ、やさしく風に揺れている。

「これ……きっと、全部で百枚はあるよね」

 有紀が目を細めて見上げた竹には、願い事の書かれた短冊がきらめいていた。

“灯台がきれいになりますように”

“水泳で全国に行けますように”

“受験がうまくいきますように”

“好きな人が幸せでありますように”

 それぞれの想いが、七夕の星空の下でひそやかに息づいていた。

「灯台がこうして人を集める場所になるなんて、ちょっと感動するね」

 鮎美が言った。

 隣では愛未がスマホを構え、ライトを落としながら全体の雰囲気を撮影している。

「ライブ配信はせんの? 愛未」

「しないよ。今日はね、記録だけ。

 だって……これ、“誰かに見せたい”ってより、“私たちで覚えておきたい”夜でしょ?」

 その言葉に、朱音も頷く。

「灯台の灯がね、少しだけ強くなってるように見える」

「気のせいじゃないよ、きっと」

 慧の言葉に、郁也が冗談めかして肩をすくめた。

「ま、そういうロマンがあってもいい夜ってことで」

 そんな笑いの中でも、雄大の目はひときわ真剣だった。

 彼の手には、白地に青いペンで書かれた一枚の短冊。

「あの光が、誰かの心を照らせますように」

 それを竹に結びつけると、彼は一歩下がって見上げた。

「ねぇ、雄大くん。何て書いたの?」

 有紀がそっと声をかける。

 彼はちょっとだけ視線を逸らして、笑った。

「秘密……でも、君にも、関係あるかも」

「えっ……?」

 不意に照れくさくなって、視線をそらす有紀。

 けれどその時、風が二人の短冊をくっつけたように揺らした。

 隣に吊るされた有紀の短冊には、こうあった。

「私の大切な人が、迷わずに進めますように」

 ふたりの間に風が吹き、短冊同士がそっと寄り添った。

 気づかぬふりをしたまま、けれど胸の奥で、何かが確かに触れ合っていた。




 夜の海風に、笹の葉がそよぐ。

 灯台の上では、麻里奈が懐中電灯で灯りの点検を終えて降りてきた。

「点灯、完了。順調。今日は、灯台もご機嫌みたい」

「よし、そろそろ始めようか」

 鮎美の号令で、手元の紙が配られた。

 それぞれの手にあるのは、自分で書いた願いとは別の――“誰か”の短冊。

「今年は、少しだけ変わったことをやってみるんだってさ」

 朱音が説明する。

「自分じゃなく、誰かの願いを読む。そして心の中で、その人の願いが叶うように祈る。それだけ」

「……なんか、素敵だね」

 モリーがぽつりと言い、有紀がうなずく。

「静かに、あたたかい……そんな感じ」

 皆が思い思いに他人の願いに目を落とす。

“弟が無事に中学に上がれますように”

“お母さんの笑顔が増えますように”

“好きな人に、自分の気持ちが届きますように”

 ふと、有紀が読んでいた短冊に、見覚えのある筆跡があった。

「潮守の夜に、もう一度だけ、灯がともりますように」

 心が跳ねた。

 それはたぶん、雄大のものだった。

 彼女はそっと、手のひらでその短冊を包みこんだ。

 言葉にできない感情が、胸の中にじわじわと広がっていく。

 そのとき、愛未が手を叩いた。

「ねえ、そろそろ、点灯の時間!」

 誰かがカウントを始める。

 十、九、八――

 有紀の隣で、雄大が立っていた。

 彼は小さくうなずき、スイッチの近くに歩み寄る。

 三、二、一――

「灯よ、照らしてくれ!」

 雄大の声に合わせ、灯台の白い灯がふっと灯る。

 その光は、竹に結ばれた無数の願いを、やさしく包み込んだ。

 歓声ではなく、ため息のような静かな感嘆が、夜空に染みわたる。

「なんで、涙出てくるんだろ……」

 有紀が、そっと呟いた。

 それはきっと、

 誰かの願いが、誰かの想いによって照らされたから。

 一つひとつの祈りが、ここに集まり、

 光になって、夜の海へ溶けていった。

 彼らはまだ、それぞれの気持ちを言葉にできていない。

 けれど、ほんの少し、灯に照らされて前に進めた――

 そんな七夕の夜だった。

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