第10章「灯台の夜、灯る心」

 5月6日、土曜日。

 潮守の浜辺に夜の気配が降りてくる頃、バザーで得た資金の集計がようやく終わった。

「お疲れさま、これで半分……よくやったよね」

 鮎美が模造紙の進捗表を指差しながら、誰にともなくつぶやく。

 だが、その場にいた誰もが自然と、軽く拍手を交わした。

 灯台補修までの道のりは、まだ長い。けれど、確かに“はじまりの光”が灯ったのだ。

 その後、荷物を片づけて解散となったはずなのに、なぜか雄大と有紀は、同じ道を歩いていた。

 灯台へ向かう坂道。

 街灯が途切れるその先には、今日という日を見守っていた白いシルエットがそびえている。

「……登ってみる?」

 雄大の問いに、有紀は一瞬ためらったが、やがて小さくうなずいた。

「……うん。少しだけ、なら」

 灯台の階段は、石造りで冷たい。

 古い手すりをそっと握りしめながら、一歩ずつ昇っていく。

 途中、灯りのない踊り場で立ち止まると、波音がかすかに聞こえた。

 有紀は息を整えるふりをして、雄大の背を見つめる。

 いつも無口で、だけど揺るがないその背中は、どこか灯台のようだった。

「……今日、ありがとう。焼きそば、本当に美味しかったよ」

「……うん。そっちも、キャンドル、すごかった」

「全部、雄大くんが言ってくれた“並べる”って考え方のおかげかも」

 彼女の声はかすかに震えていた。

 けれど、それは緊張ではなく、安堵に近いものだった。

 最上部へとたどり着いたとき、灯室の扉を開けると、潮の香りがふわりと舞い込んだ。

 海面には、街の灯が遠く瞬いている。

「……きれい」

 有紀が呟く。

 その横顔に、灯室の小さな照明が淡く影を落とす。

 雄大は言葉に詰まった。

 こんな景色の中で、何を言えばいいのか、自分でもわからなかった。

 けれど――沈黙は、必ずしも“何もない”という意味じゃない。

「俺……灯台って、ずっと好きだった」

「うん」

「小さい頃、祖父から聞いたんだ。“灯台の光は、願いを照らす”って」

「……素敵なお話だね」

「その時はただの言い伝えだと思ってた。でも、今は少し違う気がしてて……。願いって、自分の中じゃなくて、誰かの心に届いて初めて“光る”のかもって」

 有紀はその言葉を噛み締めるように聞いていた。

「……わたしね、今日、少しだけ強くなれた気がする」

「うん」

「不安もあるし、自信ないことばっかりだけど……。でも、こうやって誰かと一緒に進めるって知って、すごく心強かったの」

 その「誰か」に、雄大は自分が入っているのか、確信はない。

 けれど、ほんの一歩だけでも、彼女の心に踏み込めた気がして、胸が少し熱くなった。




 灯室には、二人の呼吸音と風の音しかなかった。

 それはまるで、世界が二人きりになるのを許してくれているかのようだった。

「有紀」

 不意に呼ばれて、有紀は顔を上げた。

 雄大の目は、真っ直ぐに彼女を見ていた。

「ありがとう。今日一日、一緒にいてくれて。……なんか、うまく言えないけど……こういう時間、ずっと……探してた気がする」

 言い終わる頃には、雄大の視線は窓の外に逸れていた。

 言葉を選びながら、それでも正直に伝えようとする彼の姿に、有紀はほんの少し微笑んだ。

「……うん。わたしも、同じ気持ちだよ」

「え?」

「こういうのって、ちゃんと名前があるんだね。“一緒にいられる時間が、安心できる”ってこと。……それって、すごく、尊いことだと思う」

 雄大は照れ隠しのように肩をすくめた。

 けれど、その言葉が胸の奥にまっすぐ届いたのを、本人も否定できなかった。

 そのとき、有紀がポケットから小さな紙片を取り出した。

 それはバザーで渡す予定だった“願い短冊”の一枚だった。

「まだ書いてなかったんだ。だから、ここで書く」

 そう言って、有紀は小さく丸まった体勢で、ゆっくりペンを走らせる。

 その筆跡はゆれていて、けれど、丁寧だった。

「……よし、できた」

「何て書いたの?」

「内緒」

「なんで」

「……叶うかどうか、まだちょっと怖いから」

 照れ笑いとともに、その短冊は小さな窓のそばに吊るされた。

 風が吹くたびに、カサカサと音を立てる。

 そして、その隣に、雄大も一枚の短冊をそっと結びつけた。

 彼もまた、文字を隠すように手を握りしめる。

「……この灯が、誰かの願いを照らすなら」

「うん?」

「その中に、君の願いが入ってたら……すごく、嬉しい」

 言い終えたあと、雄大は有紀の顔を直視できなかった。

 けれど、有紀の小さな「ありがとう」の声が、確かに彼の耳に届いていた。

 しばらくの沈黙のあと、二人は階段を下りていった。

 もうすぐ夜が深まる。

 けれど、心には淡くてあたたかい灯が、ずっとともっていた。

 それは、願いではなく、すでに始まりかけた想い。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る