第2話

「は〜、また学校か〜。今日くらいは鬼代も校門に立ってないで、どっか行っててほしい〜……」

朝の通学路。ひまりは気だるげに制服のスカートをひらひらさせながら、まるで足に重りでもついているかのようにトボトボと歩いていた。

「毎日毎日そのテンションで、よく学校来れてるよね〜。ある意味すごいと思うわ」

すぐ隣を歩くまどかが、半分あきれたように笑う。

「いやさ、ウチだって毎朝この制服着るたびに“今日もがんばれそう💖”って思うの。でも鬼代がいる校門見えるとさ、なんか急に現実っていうか……アイデンティティばらばらにされる感じっていうか……」

「なにそれ(笑)」

まどかが肩を揺らして笑いながら前を見ると、校門前のいつもの定位置に――神代先生の姿が、なかった。

「えっ、あれ? 今日いないじゃん、神代先生」

「え!? マジで!? ラッキーすぎる〜〜!!」

ひまりは一気に目を見開き、まるで世界が一気にキラキラしはじめたような表情を見せた。

「でもホント珍しいよね。あの先生が朝いないなんて」

「ま、ウチにとってはご褒美DAYってことで🌞💓」

その瞬間だった。

二人の横を、ゆっくりと、まるで浮遊するように歩く女生徒がひとり。ボソボソと、誰かに語りかけるような小声で何かをつぶやいていた。

「……あ、鏡野さん……」

まどかがそっと声をかけると、その少女――鏡野みことは前髪越しに顔をこちらに向ける。目が合ったような、合わなかったような曖昧な瞬間。彼女は口を動かしたが、声はほとんど聞こえない。

「おはよう……って言ったのかな……」

そのままみことは一礼も会釈もせず、ふらりと昇降口のほうへと歩き去っていった。

「……今の誰? あんな子、いたっけ?」

「同じクラスの鏡野さん。たしか……ちょっと話しかけづらい雰囲気あるけど、悪い人じゃないと思うんだよね、多分……」

そう言いながらまどかは、苦笑しつつ少しだけ思い出すように続けた。

「前にね、私が鶏小屋の掃除当番だった日があって……。そのとき、鏡野さんが自分の当番じゃないのに先に来てて、鶏たちのお世話してたの。なんか、たまたまじゃなくて、毎日そうしてる感じだった」

「ふ〜ん……なんか意外。周りに興味なさそうなのに」

「うん。でも、そういうところもあるんだなって思って」

ひまりは特に深く考えてはいなかったが、まどかの“悪い人じゃないと思う”という言葉には、なんとなく納得がいった。

その時だった。

前方に人だかりができていることに気づく。

「え、なになに? なんかあったの〜?」

ひまりは持ち前の好奇心で、すっと人の隙間をぬって前へと進む。

目に飛び込んできたのは――

荒らされた花壇だった。

いつも整然と咲いているラベンダーの列が、無残に掘り返され、茎は折れ、土はえぐられ、まるで何かに踏み荒らされたようにボロボロになっている。

「……誰が、こんなことを……」

思わず口にしたひまりの声に重なるように、低くて鋭い声が響く。

「――お前ら、何をしている。教室に戻れ!」

現れたのは、いつの間にか校内にいた神代先生だった。

集まった生徒たちを鋭い目で睨みつけ、冷たく命じる。

その視線が、ほんの一瞬、鏡野みことの姿を捉えたように見えたのは――気のせいだったのだろうか。

その瞬間、ひまりの肩がぐいっと引かれた。

「何してる。教室、行くぞ」

 声に振り向くと、そこには芹沢直哉が立っていた。整った顔に、どこか不機嫌そうな眉。けれどその手はしっかり、ひまりの肩を守るように添えられている。

「直哉くん、おはよう〜」

 まどかがふわりと笑って言うと、ひまりの耳元で小さく囁くように続けた。

「それじゃ私は隣のクラスだし、先に行くね〜」

 そう言って校舎へと向かっていくまどかの背中を見送りながら、ひまりは気怠そうに口を開いた。

「なおたろじゃ〜ん。どうしたの、珍しく先に声かけてきて〜? うちともう話さないって言ってなかったっけ?」

 芹沢直哉。

 ひまりの幼馴染で、名門・白鷺ヶ丘学園でも常に成績トップ。生真面目で理屈っぽく、何かとひまりと衝突することが多いけれど——そのたびに「もう絶交だ」と言いながら、結局はこうしてまた、彼のほうから歩み寄ってくる。いつものことだ。

「あれは入学式のときの話だろ。……ったく、ああもう、思い出したくもない……」

 直哉は頭を押さえ、自分の髪をぐしゃぐしゃにかき乱した。

「もう忘れることにしてた。……それより、授業始まるぞ」

 人だかりの中心にいたひまりの手を、直哉は無言で掴む。そのまま強引すぎず、けれど確実なリードで彼女を連れ出していく。ひまりはその手の力に導かれ、彼の背中を目印に群れを抜け出した。

「なおたろってさ、また身長伸びてない? なんか、もう180センチ超えてない?」

「184だ」

 即答する直哉に、ひまりは目をぱちくりさせる。

「すごっ! 中学生の時は同じくらいだったのにね〜」

「……いつの話してんだよ」

 ぶっきらぼうな返しに見えて、どこか照れが混じるのが彼らしい。

 芹沢直哉は、完璧な優等生だと誰もが言う。事実、入学以来、彼の成績は一度も全校一位から落ちたことがない。ただ——彼がたった一度、模試の順位で一位を逃したことがある。それが、この白鷺ヶ丘の入試本番。あのときの一位は、ほかならぬ南陽葵だった。

 けれど、代表挨拶を断った彼女の代わりに、直哉は新入生代表として壇上に立った。結果だけを見れば、“彼が一番”だった。

 でも、直哉は知っている。ひまりが本気を出せば、自分よりも上に行ける存在だということを。だからこそ、彼女のマイペースさに苛立つこともある。それでも——言葉にしないまま、いつも隣にいた。


教室に入っても、生徒たちのざわめきは止まなかった。

「さっき見た?」「あれ、やばくない?」「誰がやったの?」

話題は例の花壇のことで持ちきりだった。

ひまりの好奇心も、同じ方向を向いていた。

(たしか……一瞬だけど、まどかと同じクラスの子、みことって子がいたよね? あの雰囲気……絶対、何か知ってる感じだった)

自分でもよくわかっていた。“なんとなく”の勘。それがけっこう当たることも。

「まだ気にしてるのか?」

隣の席から、直哉がひまりを覗き込んで声をかける。

「ちょっとだけ気になることがあってね。後で、確認してみようかな」

「……あんまり首突っ込むなよ。それより、お前、テスト近いの覚えてるよな? また赤点だったら、いよいよ本格的にヤバいぞ」

直哉の声には呆れが滲んでいた。

「うっ……」

ひまりは思わず顔をしかめた。

「そうだった……テスト……。ねえ、なおたろ〜、前みたいにまた教えてくれない?」

いつの間にか甘える声になっている。

「なおたろが“これだけ覚えとけ”って言ったやつ、ホントに出るし。無駄がないというか、なんというか……」

「勉強に“無駄”なんてあるかよ」

ため息をつきながらも、直哉はまんざらでもない様子だった。

「……教えるのはいい。でもまた逃げんなよ」

「うんうん! 絶対逃げない! サンキュー!」

ひまりは嬉しそうに何度も頷きながら、すでにご機嫌だった。

そのとき、教室のドアが開く音がした。

担任の先生が入ってきて、教壇に立つ。

「みんな、静かに」

騒いでいた生徒たちが一斉に口を閉じ、注目する。

「朝のことで、みんな騒ぎたい気持ちはわかるけどな。テストが近いんだ、気を抜かないように。……それから、今日の化学の授業は中止だ。化学室には行かず、ここで受けるように」

「じゃあ、教科書開けて」

先生は何事もなかったように、授業を始めた。

(化学室……何かあったな、間違いない)

ひまりはぼんやりと教科書を開きながら、直感的にそう感じていた。

入学してから、こんな騒ぎは一度もなかった。

だからこそ、よけいに気になる。

(後でちょっと、覗いてみるか)


昼休み。ひまりはそっと教室を抜け出した。

(やっぱ気になるんだよね〜……化学室)

理科棟の奥、化学室の前まで来ると、扉が半分だけ開いていた。中からは、低い話し声とガラスの触れ合う音。

そっと覗き込むと──制服姿の生徒たちが数人、黙々と片付けをしていた。

割れたビーカー、散らばる薬品の瓶。床には焦げたような跡まで残っていて、普通の掃除じゃないとすぐにわかる。

「あ……生徒会の人たち……?」

中には見覚えのある顔もあった。

その中心で、周囲に指示を出していたのは――神楽坂朱音先輩。

(……やっぱキレイ。てかオーラすご……)

どこを取ってもスキのない立ち姿。完璧な制服の着こなし。

一つひとつの仕草が、まるで舞台の演技みたいに洗練されている。

そんな中で、ふと目に留まったのは――

「……空っち?」

三浦 空。無言で棚を整理しながら、どこか心ここにあらずって感じだった。

ひまりはそっと扉の隙間から呼びかける。

「空っち、何してるの? ここで何かあったの?」

空は少しだけ驚いた顔をして、すぐにひまりに気づいた。

「……ひまりちゃん。来ちゃったんだ」

声を潜めて、空は言葉を続ける。

「いくつか薬品が無くなっててさ。人に有害なやつとか、火つけたらヤバいやつまで……本来は鍵がかかってる棚の薬品なんだけど」

「えっ、それって……誰かが持ち出したってこと?」

「かもね。今のとこ、記録にも残ってないし……まあ、詳しいことはまだ言えないけど」

ひまりは思わず眉をひそめた。

空の目は、いつもよりも鋭くて、どこか周囲を警戒しているようだった。

すると――

「何してんだよ、お前」

不意に後ろから声が飛んできた。

振り返ると、腕を組んだなおたろこと、芹沢直哉の姿があった。

「うっ……なおたろ」

「こんなところウロチョロするな……ってか、お前絶対ここ来てると思ったわ」

「え〜だって気になるんだもん〜〜!」

「ほら、行くぞ。テスト勉強するって約束だろ」

ぐいっと腕を引っ張られる。ひまりは慌てて振り返る。

「ちょ、ま、まだ……」

でも、そのときだった。

廊下の向こう、曲がり角のあたりで、ふと人影が揺れた。

長い髪に、前髪が顔にかかるシルエット。

無機質で、何も映さない――それでいてどこか不思議な目。

(……みことちゃん)

一瞬の出来事だった。

ひまりが目を凝らす前に、その影はもう消えていた。

でも、確かに感じた。

あの子は――何かを知ってる。

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