第3話 イヤホンと笑い声
頭の中には「?」すら浮かんでこなかった。
放りっぱなしになった俺の耳に届くのは、雨粒の弾ける音。
ふと視線を感じ、ビニール傘越しに周りを見渡す。少しぼやけて見える人々の目線全てと目が合った。そしてすぐさま全員俺と目を逸らす。全員揃いも揃って「こいつなにしてんだ」って目をしていた。そりゃそうだ、土砂降りの中ずっと突っ立ってるやつなんて、不審に思われたって仕方がない。
ここで突っ立ってたってどんどん変に思われるだけだ。どこか、人目のつかない場所へ行かなければ。もう一度、『ゲオスミン』を聴かなければ。
謎の使命感に駆られ、俺はやっと歩き出す。靴を濡らさないよう気をつけながら、それでも最大限必死に歩いた。
もう一度ちゃんと聴きたい。はやく、はやく。
無意識のうちに歩幅が大きくなっていく。それでも、地面がぺちゃぺちゃと音を鳴らす頻度は変わらない。数分間も雨を踏み続けた末、ついにその足は止まる。
「...よしここなら」
独り言を漏らした俺の前に佇むのは、人気のない路地裏。あまりの薄暗さに、思わず足が止まりそうになるが、全てを押し殺し第一歩を踏み込む。
不気味だ。まるで異世界にでも迷いこんだような、そんな気分に襲われる。
雨音は途端に小さくなり、じゃりじゃりと土を踏む足音が耳を独占している。そこでやっと、ビニール傘の上で弾けていた雨粒が限りなく少なくなっていることに気づく。軽く雨粒を吹き飛ばし、ビニール傘を閉じる。
少し歩いた先で、座るのに丁度良さそうな階段を見つけた。念の為濡れていない事を確認し、腰を下ろす。視線の先には、人ふたり程度なら通り抜けられそうな細い道があった。その奥では、雨が先程より更に勢いをつけ、力強く降り注いでいるのが見える。
「はぁ」
小さくため息を漏らしながら、ポケットからイヤホンを取り出す。流れるようにそれを耳に挿し、スマホに映る『ゲオスミン』の文字を眺める。さっきの『ゲオスミン』は何かのバグで、本当の『ゲオスミン』は全く違う曲だったりしないかな。そんなことを考えてしまう。しかし、文字を眺め、好き勝手妄想したところで、曲は聴けない。もう一度ため息をつき、再生ボタンを押す。
流れてきたのは、やはり先程と同じ騒音、『ゲオスミン』だった。ただ一つ、イヤホンを無視して、スマホから流れていることを除いて。
耳を壊す程の騒音が、スマホから大音量で流れる。騒音は路地裏で響き、反復する。しかし俺はそれにすぐ気づけなかった。
違和感を抱いたのは約20秒後。相変わらずうるさくて仕方がない曲だが、気のせいか、少し音が遠くで聞こえた気がした。軽い気持ちでイヤホンを外してみると、それが気のせいではないことに気づく。冷や汗がじわりと背を濡らす。
「ちょっとまてまて」
エサ目掛けて伸びるカメレオンの舌にも負けない勢いで指を伸ばし、再生ボタンを再び押す。『ゲオスミン』は止まり、路地裏は静まり返る。
「まじかまじか」
慌てた手つきでイヤホンを接続し直す。もしかして壊れたか...?そんな雨に濡れていないはずなのに、頼む、ただ接続が切れただけであってくれ。恐る恐るイヤホンを耳に挿すと、
ポポンッ
とポップな音が鳴った。まるで、冷や汗でびっしょりの間抜けな俺を嘲笑うかのように、それはそれは可愛らしい音で。
「なんだよ...」
俺はため息をつく。今日だけで何回ついたのだろうか。
まあ、路地裏だし誰も近くにはいなかっただろう。人通りの多い場所じゃなかったのは、不幸中の幸いか。
やっと落ち着きを取り戻し、眉毛を濡らす雨水を人差し指で拭う。冷や汗が、ゆっくりと消えていく。
「っぷ、あはははッ」
背後から突如響く、どこか聞き覚えがあるような、ないような、乾いたような、湿ったような笑い声。
その声は、俺を再び冷や汗まみれにする。こんな人気のない路地裏に、まさか人がいるなんて。すかさずイヤホンを耳から外し、冷や汗を振り落とす勢いで振り返る。階段の先に、やや下目遣いになりながら笑う女性がいた。片手で口を隠しながら、まだ笑っている。
視界がぐわぐわとする。よりにもよって絶対に人には聞かれてはいけない曲を、大音量で聞かれてしまった。笑ってくれているけど、申し訳ない。恥ずかしい。なんと謝れば良いのだろうか。
「あの!すんませ...」
俺の雑な謝罪をかき消すかのように、彼女は口を開く。謝罪の言葉は、瞬く間に路地裏の薄暗い空気と、女性の不思議なオーラに食い殺される。
「ねぇ、その曲、『ゲオスミン』...だよね」
彼女の口から放たれたその言葉は、あまりにも予想外で、その一瞬、まるで時が止まったかのように、辺りは静まり返る。
怪しげな雰囲気の女性は、一段、また一段とゆっくり階段を降りてくる。俺はただそれを大人しく目で追っていた。
頭の中には「?」すら浮かんでこなかった。
雨上がりのぺトリコール みずかき @mizukakitaro
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