第16話
私がアメリカ人だったら「オーマイガー」と百回くらい言ってたと思う。
オーマイガー。
テオドアも東京からやって来た佐野治朗だったのか!
私も佐野治朗テオドアも衝撃を受け過ぎて、無言で頷き合っていると、作業場の扉が開いてジャックが顔を覗かせた。
「ネッド、呼んで来ましたけど」
佐野治朗テオドアは私…両角笑子ベアトリスを帰らせる為にネッドを呼びに行かせていた。
しかし、お互いの正体が判明した今、帰るわけにはいかない。佐野治朗テオドアはジャックに予定変更を告げた。
「ちょっと話したいことが出来たから、待ってて貰ってくれ」
呼んで来いと言った癖に待ってくれと言う佐野治朗テオドアに、ジャックは怪訝な顔をしたけれど、頷いて扉を閉めた。
二人になると大きく息を吐き、その場にしゃがみ込む。
私も驚いたけど、佐野治朗テオドアの衝撃の方が大きく、貧血とか起こしてそうだったので、座らないかと提案した。
作業場内を見回し、見つけた木の椅子を持って来て、佐野治朗テオドアに勧める。
「ありがとうございます…」
「驚くのも無理ないわよ。私もびっくりしたわー」
「僕…本当に…困ってて…」
椅子に座った佐野治朗テオドアは俯いて泣いているようだった。
エレノアは兄の様子がおかしくなったのは一年くらい前だと言っていた。
ということは、佐野治朗テオドアは一年もの間、この世界で一人頑張っていたのだ。
そりゃ、涙も出るよね。
「なんだかよく分からないんだけど、取り敢えず、私のこと、話すね」
両角笑子という名前は伝えたので、他の情報を伝える。五十二歳のパートタイマー。三人の子供は全員独立して、夫と二人暮らしで猫を飼っている。
ママ友とサイゼリヤで飲んで帰ろうとした途中で交通事故に遭い、気がついたらベアトリスになっていたのだという私の話を聞いている内に、佐野治朗テオドアは落ち着きを取り戻したようだった。
私が「交通事故」と言ったのに深く頷いて同意する。
「交通事故に遭ったのは僕も同じです。転生ものの王道ですよね」
「そうなの?」
うんうんと頷く佐野治朗テオドアは転生について詳しいようだった。
それもそのはず。
「申し遅れました。僕は佐野治朗と言いまして、ヴァナール製薬の研究所で研究員をしていました。年齢は二十九歳、独身。一人暮らしで、静岡出身です。両親と兄、姉がいます」
「へえ。佐野くん、静岡なんだ。いいところよね」
二十九歳だという佐野治朗テオドアはうちの理佐子と変わらない年齢だ。佐野くんと呼んでも差し支えないだろう。
向こうも恐らくお母さんと年齢が近い私を「両角さん」と呼んだ。
「両角さんはいつこの世界へ?」
「一昨日。どうしてベアトリスになったのかとか全然分からなくて、困っちゃって、記憶をなくしたことにしてごまかしてるの」
「そうですか。僕も色々とごまかしていましたが、ぼろが出そうだったので、この離れへ引きこもったんです」
「エレノアは一年くらい前に急に性格が変わったとか言ってたけど、一年も経つの?」
「はい…」
佐野くんは重々しく頷き、私も思わず沈黙した。
てことは、私もこのまま一年とか経っても、元の世界に戻れない可能性があるってこと…だよね?
なんか…どうしたらいいか分からなくて、考えることを放置してたけど。厳しい現実に言葉のない私に、佐野くんはこれまでに考えて来た自分の説を話し始めた。
「転生ものというジャンルには幾つかのテンプレートがあります。チート転生系、悪役令嬢転生系、現代知識無双系、復讐転生系、タイムリープ転生系、逆転生系…」
「そんなにあるの!?」
次々と並べられ、驚いて声を上げた。佐野くんは「まだありますよ」と平然と言うが、多種類過ぎて覚えられないし、それをペラペラ話す佐野くんに感心してしまう。
製薬会社の研究員とか言ってたし、理系オタクというやつなんだろう。
うちの長男に似てる…。
「お母さんには分からないよ」っていつも説明とかしてくれなかったけど、実はこんな風なのかも。
いや、きっとそうだ。
佐野くんも電車とか好きだった?…なんて聞いてみたくなる好奇心を抑え、話に耳を傾ける。
「僕には二〇二四年までのデータしかありませんが、市場的には飽和状態でしたから、さほど変わっていないかと思います。僕の場合、現代知識無双系かと思いましたが、製薬会社の研究員だったとは言え、実際の実験設備もないここでは出来ることに限界があります。それに薬学の知識を生かせるような状況にもならないんです。ならば、どのパターンに当てはまるのか。まず、チート転生系などの魔法系は除外出来ます。この世界には魔法はありません。悪役令嬢でもないので除外します。ここはゲーム世界でもないようですし。世界自体が違っているので逆転生系でもありません。復讐系も違います。僕は就職したばかりで仕事や私生活に行き詰まっていたわけではないので」
「私も!ようやく末っ子が独立して、夫と二人でのんびりライフを楽しめると思ってたところだったのよ」
復讐なんて考えたこともないし、ここの暮らしは大変そうだから、早く元の世界に戻りたい。
真面目な顔で訴える私に、佐野くんは「ですよね」と同意する。
「僕の目的も元の世界に戻ることです。その為に『どうしたら元の世界に戻れるのか』を考えました。転生ものでは転生者が元の世界に戻るパターンが幾つかあります。たとえば、勇者として召喚されたような場合は、何かしらのクエストを攻略した後、戻れたりします。ここがファンタジー系の世界であれば、戻れるアイテムを探す旅に出るのもありでしょう。しかし、魔法や勇者は存在しないんです。死に戻りという方法もありますが…」
「死に戻りって?」
「この世界で死ぬことで、元の世界に戻るという方法です」
「死んだら戻れるの!?」
「死んでみないと分かりません」
ええー。それはちょっと危険じゃない?
眉を顰める私に、佐野くんもリスクが大きすぎるので、その方法は考えなかったと言った。
「最終的には試してみるしかないのかもしれませんが、その前に他の方法はないか探りました。転生者が元の世界に戻る際、多くの場合で共通しているのは『使命を果たす』というファクターです。僕はテオドアとして転生した理由は何か。テオドアが抱えていた問題を解決すればいいのではないか。そうすれば使命を果たしたことになるのではないか」
「なるほど…」
ということは、私もベアトリスが抱えていた問題を…?
「……」
いや。多過ぎそうじゃない?
ベアトリスになってから数日の間に見聞きして来た問題を考え、途方に暮れた気分になる。
ま、主に借金なんだけど。
そう考えて、そう言えば、佐野くんもそんなこと言ってなかったかと首を捻った。
テオドアだと思って長男として…とか説教した私に、ベアトリスの頭が緩いせいで借金が膨らんだとか、それをなとかしようとしてるとかなんとか。
「テオドアにはどういう問題があったのか、色々と調べたところ、レイヴンズクロフト家の借金問題に行き着いたんです」
「やっぱり!?」
私も!
ベアトリスの場合、調べなくてもすぐに直面したんだけど。
「テオドアは母親…両角さんが転生しているベアトリスですが…をとても大切に思っていたらしいんです」
「そうなの?」
「二人は血が繋がっていませんが、綺麗で優しいベアトリスを慕っていたようです」
そうだったのか。
中身が佐野くんになっているテオドアに邪険にされたものだから、仲が悪かったのかと思ってしまっていた。
そして、佐野くんがベアトリスに対し、つっけんどんにしたのは、理由があった。
「本来のテオドアは温厚で優しい青年だったらしいんですが」
「エレノアもそう言ってたわ」
「その分、なんていうか…無能なんですね」
「ああ…」
うん。そっか。そんな気がするよ。
「長男だとか侯爵家の跡取りだとか、そういうことを考えるのは苦手で、全部母親任せだったようです。しかし、その母親も同じように無能…無能って、言葉がよくないですね」
「いいよ。その通りだと思うし」
ベアトリスが借金している相手から証文も貰っていないと聞いた時、大丈夫?って呑気な私でさえ思ってしまったのだ。
フォローする私に、テオドアである佐野くんは小さく笑って、頷いた。
「本来であれば、この家の当主…レイヴンズクロフト侯爵がなんとかすべきなんでしょうが、その侯爵がそもそも無能で…」
「なんかあれでしょ。首都の方で女囲って暮らしてるって聞いたよ」
「カレドリアですね。僕も聞きました。借金の発端は侯爵の放蕩にあるんですよね。女性問題だけじゃなく、賭博癖もあるとか」
「どうしようもないよね」
「僕がテオドアに転生してから、侯爵は一度もここへ姿を現してはいませんので、顔を見たこともありませんが、ベアトリスが呼び戻して話し合うべきだと考え、強く勧めたことがあるんです。しかし、ベアトリスは困った顔をして、自分が節約すると言い出しました。そんな程度で何とかなる額じゃないのに、です」
「そっかあ」
佐野くんが憤っている相手が自分だというのが、なんとも複雑である。でも、佐野くんがベアトリスに冷たく接したのに納得は出来た。
ベアトリスが使用人と同じ食事を食べていたのも、佐野くんに言われて節約していたからなんだろう。
佐野くんの言う通り、ベアトリス一人の食事を質素にしたところで、解決出来る問題じゃないのにね。
でも、ベアトリス自身、お嬢様育ちで、どうしたらいいのか分からなかったのかもしれない。
佐野くんもそこのところは理解しているようだった。
「ベアトリスと侯爵は十歳くらい歳が離れていて、何も言えないらしいんです。そこで僕はテオドアとして侯爵に手紙を書きましたが、返事はありませんでした。どういうつもりなのか全く分かりませんけど、執事や使用人は侯爵には何を言っても無駄だと諦めているようです。ですが、このままではたとえ侯爵家といえ、財政的に破綻します。調べたところ、この世界では貴族の家柄というのは売買が可能らしいので…」
「このままだと家柄を売るしかなくなるってこと?」
「でしょうね」
それは…困るんじゃないか。そんなことしたら、ここから出て行かなきゃいけなくなるだろうし、ベアトリスに行く当てはあるんだろうか。
ベアトリスの実家は公爵家で、お嬢様だったと聞いたが…。出戻りとか出来るのかな?
怪訝な思いで眉を顰める。
「そうなってしまってはテオドアは困るでしょうから、借金を返す方法を考えようと思いました。レイヴンズクロフト家の収入は地代や領地内の民から徴収する税、国境警備に関する補助金、隣国であるノーサリオ王国との貿易関税、敷地内での放牧や養蜂などで得られる収入などがありますが、必要経費を除いた収入のほとんどを借金の返済に回しています」
「それでも全然足りないんだよ。昨日、ブラック氏っていう、高利貸しが取り立ててに来て、三千クラウンくらい払ってたけど、総額で十万クラウンとかあるみたいだから、焼け石に水だよね」
「そうなんです」
ブラック氏の名を聞いた佐野くんは、表情を曇らせて頷いた。佐野くんの調べでは、ベアトリスがブラック氏にお金を借りたのが、今の窮状を生んだようだった。
「どうしてブラック氏から借金したのか、その経緯は分かりませんでしたが…。ちなみに両角さんも分かりませんよね?」
ベアトリスの記憶を読めるのか…って意味なら、無理だ。両角笑子としての記憶はばっちりだけど、ベアトリスの生い立ちなんか、全然分からない。
首を横に振った私に、佐野くんは「ですよね」と肩を落とす。
「僕もテオドアとしての記憶は全くなくて」
「本当にベアトリスとテオドアはどこへ行っちゃったんだろうね?」
「分かりません。意識下の深いところにいるのか…」
「入れ替わってるとかってのは、ない?」
「……」
ベアトリスが両角笑子に。テオドアは佐野治朗に。
その可能性はないかと尋ねると、佐野くんは考え込んでしまった。
「ない…と思いたいんですが、分かりません。可能性がないわけじゃないです」
「だとしたらさ。向こうは向こうで戸惑ってるだろうね」
この世界の暮らしと、現代東京の暮らしは随分違う。
でも、確実なのは。
「戸惑ってはいても…困ってはいなさそうな気がします」
「確かに」
まあ、テオドアの場合は、難しそうな仕事をしている佐野くんとして働くのは大変かもしれないけど、ベアトリスは楽勝だろう。
うちの夫は優しいし、職場の同僚も優しいし、両角笑子になったベアトリスが困っていても、皆、助けてくれそうだ。
いいなあ。
借金もないしなあ。
遠い気分で思っていると、佐野くんが真面目な口調で深刻な現実を伝えて来た。
「ですが…それは、元の世界にいた僕が『死んでいなければ』です」
「……」
あ…。
そうか。
私も佐野くんも交通事故に遭って、その後、気づいたらこの世界にいて違う人間になっていた。
あの交通事故で死んでしまって、その衝撃でこっちに来たのだとしたら。
「…死んでたら…元に戻れない…?」
元の世界の両角笑子が死んでいたら、戻るところがない。
恐ろしい事実に気づき、顔を青くする私に、佐野くんは神妙に「分かりません」と首を振った。
「使命を果たしたことで死ななかったことになるパターンもありますし」
「そう…」
まあ、死んだかどうかも分からないんだから…悲嘆しても仕方がないのだが。
佐野くんも気分を切り替え「とにかく」と話を続ける。
「今はレイヴンズクロフト家の借金をなんとかしようと考えています。テオドアの課題であるそれを解決して何も起きなかったら、その時に対策を考え直します。両角さんがベアトリスとして転生したのも、それが使命であることを裏付けている気がします。ベアトリスにとっても、レイヴンズクロフト家の借金が一番の問題でしょうから」
「そうだと思う」
うんうん…と頷き、私も何かお金になりそうなものはないか探しに来たのだと伝えた。
「養蜂をやってるて聞いたから、蜂蜜が売れないかなと思って。でも、既に何年か先の分まで売ってしまってるってジャックが言ってたわ」
「そうです。この家で金になりそうなものはブラック氏に全て抑えられているんです」
「あくどいね」
昨日、会った小柄な老爺を思い出し、目を細める。どういう契約で借金しているのかも分からないから、証文を貰わなきゃと思ってたんだけど。
「ですが、ブラック氏も知らない『財産』がここにはあるんです」
「財産?」
どういう意味なのか。怪訝な思いで聞くと、佐野くんはついて来て下さいと言って作業場を出た。
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