第7話

 マリーが何か持って来てくれるのを部屋で待とうと思い、いそいそ二階へ向かう。

 その途中、壁にかけられている肖像画が目に付いた。

 歴代の当主を描いているのだろう。かなり古そうな肖像画もある。

 年代は違っても大体似た容貌をしていて、そのどれもがエレノアに似ていた。エレノアを男にしたらこんな感じになるんだろうなっていう。

 エレノアが男だったら、レイヴンズクロフト家の当主として立派にやっていた気がする。

 なるほどなあ…とDNAに感心しながら、部屋に戻り、間もなくするとマリーがかごを携えてやって来た。

 持って来てくれたのはカピカピサンドウィッチではなかったが、岩みたいな見かけのパンだった。

「……」

 いや。見かけが岩でも味は美味しいのでは。

 そう期待して齧り付いたところ。

「っ…」

 見かけ通り、歯が欠けそうな硬さだった。だが、どんなに硬くても食べ物なんだから。これを食べるしかないのだ。

 ふんぬうと奮闘しながら岩パンを食べる私を、マリーは呆れ気味に見ながら、「奥様」と呼びかける。

「明日になっても記憶が戻らないようならば、医師に診て貰ってはいかがですか?」

 マリーがそう言いたくなるのも分かるけど、これは病気じゃない。医者にはどうにも出来ないんだと思うんだよね。

 それに。

「診て貰うのってただですか?」

「いえ」

 診察料はいるし、薬代も必要となる。そう聞いて、私はパンを咥えたまま首を横に振った。

 そんなお金があるなら、食べ物に使いたい。

「マリーには心配をかけて悪いけど、しばらく様子を見ます。何かの弾みで戻れるかもしれないし」

「戻れる?」

「あ、記憶が戻るってことです」

 慌ててごまかすと、マリーは不審な目を向けて来たが、何も言わなかった。小さく息を吐き、明日の予定を伝えてくる。

「明日はブラック様がいらっしゃいますので…」

「ブラック?」

「骨董商の…」

 誰なのか分からない私に説明しかけたマリーは、途中で言葉を止めた。思い悩むような表情を浮かべ、自分が一人で会うと言い出す。

「奥様は急病ということにしておきますから…」

「待って下さい。骨董商って…ただの骨董商じゃないんですか?」

 マリーの表情からして、何か曰くがあるのだと思われる。尋ねられたマリーはしばし考えた後、重い口を開いた。

「レイヴンズクロフト家にお金がないという話はしましたね」

 聞いた。ベアトリスの食事が質素なのはそのせいで、元凶は王都で放蕩している旦那のせいだとも。

 頷く私にマリーは続ける。

「収入だけで賄いきれない支払いなどの為に、奥様はお金を借りているのです。その相手がブラック様です」

「借金取りがやって来るってこと?」

 マリーは無言で頷く。その顔は硬かった。

 そうか。だって、イザベラに無心されて、自分の宝飾品とかを質店へ入れに行かなきゃいけないような状況なのだ。

 そりゃ、借金もあるよね。

「幾らくらい?」

 と、聞いてから、ここの通貨感覚が分かっていないのを思い出した。ベアトリスがお腹に隠していた金貨にはクラウンという単位が書かれていて、全部で五十八クラウンくらいあったはずだ。

 それがどれくらいの価値になるのかは分からない。

「十万クラウンを超えているかと」

「…」

 すぐに反応しない無言の私が、それも忘れてしまっているのに気づき、マリーは付け加えた。

「私が頂いております給金はトーマスについで多いのですが、一月五十クラウンでございます」

 ということは。一年で六百クラウン。十年で六千クラウン…。

「多くない!?」

 遅れて驚いた私にマリーは真剣な表情で頷く。

「最初に借りたのは一万クラウンにも届かない金額だったのです。しかし、金利が高く…あっという間に膨れ上がっていき…奥様は頭を悩ませておいでなのです」

 うわあ。高利貸しってやつじゃん。

 借りちゃダメな相手に借りちゃったんじゃないの。ベアトリス。

「返せるの…?」

 旦那は放蕩癖があり、まともに働いてもいないらしいのに。ベアトリスにあてはあるんだろうか。恐る恐る尋ねると、マリーは首を横に振った。

「分かりません。今は毎月、用意出来たお金をお渡ししているのですが…ブラック様から全額を返すように求められたら…どうなるのか」

 マリーにも想像がつかないのだという。

 うん。たぶん、ベアトリスも分かってないね。

 そっかあ。

 自分の借金じゃないけど、胃がきゅっと痛くなる。お腹は空いてるけど。

 でも、そんな多額の借金がある相手を、マリー一人にに任せるのは可哀想だ。使用人なんだし。私も一緒に会うからと言い、岩パンに齧り付く。

 そんな私を、マリーは微かに笑みを浮かべて見た。ベアトリスへの親愛が滲んだような表情に思え、マリーが彼女を大切に思っているのが分かる。

 二人で色々苦労してるんだもんね。

「…そうだ。奥様」

 はっと思い出したように、マリーはかごに手を入れて、白い陶器製のボトルと小さなグラスを取り出した。

「これを飲まれるとよく眠れると仰っていたでしょう。今夜はゆっくりお休み下さい」

「なんですか?」

「蜂蜜酒(ミード)でございます」

「!」

 蜂蜜酒って聞いたことある。飲んだことはないけど、現代でも存在していたはずだ。

 お酒!ここにもあるんだ!

「ありがとう!」

 満面の笑みを浮かべて礼を言う私を、マリーはちょっと怪訝そうに見たけど、何も言わずに下がって行った。

 一人になると鼻息荒く、瓶の蓋を開けてグラスに注ぐ。

 黄色…いや、黄金色に輝くとろりとした液体は、ハーブとスパイスが混じったような香りがした。遠くに花の香りも。

 一口飲んで、目を見開く。

「!!」

 なにこれ。

 美味しいんだけど!?

 想定外の美味しさに声も出なかった。

 蜂蜜酒だから甘いのかなと思ったけど、変に甘ったるくはないし、仄かな酸味もあってすっきりしている。

 濃厚なのに後味は悪くない。アルコール度数は…ワインとか日本酒より少し低い感じかな。ビールよりは高いと思う。

 これまで口にしたのがパサパササンドウィッチ、うっすいスープ、岩パンだったから、アルコールならなんでもいいやくらいの気持ちだったけど、いきなりレベル高くないか。

 つまみはないけど、幾らでも飲めそうだ。

「美味しい~」

 岩パンを囓りながら飲んでいたら、マリーが持って来てくれた瓶なんてあっという間になくなってしまった。

 まだ飲みたいなと思ったけど、空きっ腹に飲んだものだから、結構酔ってしまった。

「ふう~」

 満足。

 これはよく寝られそう。

 そう思うのと同時くらいにソファで寝落ちした。


 夢の中で、私はまだ幼かった子供たちと一緒にいた。

 一番大変だった時期だ。

 智久を背中におぶって、隆宏を保育園へ送り、理佐子を小学校に行かせ…という、目まぐるしかった時期。

 「早くしなさい」が私の口癖だった。

 あの頃はとにかく余裕がなくて、ちょっとくらいゆっくりさせてよと思ってたけど。

 実は一番充実してたのかもなあ。

「…く…さま…おくさ…ま…」

「…ん…」

「奥様!」

 痺れを切らしたような声が聞こえ、はっと目が覚める。

 慌てて起き上がると、目の前に呆れ顔のマリーが立っていた。

「こんなところでお休みになったんですか?」

「あー……」

 ええと。

 なんだっけ。

 そうだ。

 ベアトリスだ。

「…ご…めんなさい。なんか…眠くなっちゃって…」

「瓶が空に…!?まさか、これを全部飲まれたのですか?」

「美味しくて」

 飲み過ぎたみたいだと苦笑する私を、マリーは信じられないという顔付きで見る。

 あー。

 寝て起きたら、元の世界に戻ってないかなと淡い期待を抱いていたんだが。

 まだベアトリスなのか。

 ていうか。本当にどうなってるんだろう。

 月曜の朝になってるんだったら、まずいな。仕事…どうしよう。

 仕事…。

「……」

 両角笑子のスケジュールを考えていた私は、ふいに気がついた。

 あの時、事故に遭った衝撃でこの異世界に飛ばされたのだとしたら、私が死んでる可能性もないか?

 だとしたら。

「……」

 このまま…ベアトリスのまま、生きていかなきゃいけないのだとしたら。

「…やだ」

 それは厭だ。両角笑子の方がいい。侯爵夫人じゃないし、美人でもないし、小太りだけど、絶対に気楽だ。

 思わず呟いた私に、マリーが不審そうに尋ねる。

「何が厭なのですか?」

「…いえ。何でもありません」

 沈痛な面持ちで首を振り、室内を見回す。すっかり明るくなっていて、かなりの時間寝ていたのだと分かった。

 マリーはもうすぐブラック氏が来るので、着替えるように指示する。

「そのお姿では失礼ですから」

 確かに、風呂も入らず寝てしまったので、髪の毛とかもすごいことになってる気がする。

 浴室で整えてくると言って移動し、鏡を覗くと美人が台無しになっていた。

 悪い。ベアトリス。ちゃんとするね。

 顔を洗って、髪を梳かし、マリーが用意してくれたドレスに着替えを済ませる。

 侯爵夫人として隙のない感じに格好を整えると、マリーに調子はどうかと聞かれる。

 調子って。頭のだよね?

「いえ…まだ…」

 思い出せないのだと答えると、マリーは表情を曇らせた。マリーが何か言おうと、口を開きかけた時、部屋のドアがノックされる。

 マリーが返事をすると、執事のトーマスが入って来た。

「奥様。ブラック様がお越しです」

 来たか。高利貸し。

 しかし、朝食も食べてないのに相手するのはな。

 お腹がならないように気をつけないと。


 トーマスに先導され、マリーと共に一階の応接室へ向かう。

 芝生が広がる緑の庭が見渡せる応接室では、背が高くて痩せた、神経質そうな顔の男と、小柄な白髪の老爺が待っていた。

 肘掛け椅子に座っている老爺がブラック氏なのだろう。私を見ても、立ち上がりもせずに、慇懃に挨拶する。

「おはようございます。レイヴンズクロフト侯爵夫人。朝から押しかけてすまない。これから王都へ発つ予定でね」

「おはようございます。忙しいんですね」

「……」

 私はベアトリスじゃないので、礼儀がどうのなんて言うつもりはないが、たぶんこの世界では貴族に対して敬意を払わなくてはいけないはずだ。

 貴族なんて制度があるくらいなのだ。

 金を貸しているからといって、それを無視する相手なんだから、こっちも立ったままでいいだろうと、挨拶を返した。

 背後にいたトーマスとマリーが息を呑む気配がする。ブラック氏も僅かに目を見張って私を見た。

 悪いわね。

 私、本当はベアトリスじゃないから、あんたに借金してるつもりはないのね。

「マリー」

 マリーは毎月用意出来たお金を渡していると言っていた。マリーはベアトリスの部屋から包みを持って出ていたので、それだろう。

 私の声に頷き、マリーはブラック氏と一緒に来ていた男にそれを手渡した。

 男はその場で包みを開き、中を確認する。

 金貨がいっぱい入っているのかと思ったが、紙幣のようだった。紙幣もあるんだ。

 確認を終えた男から報告を受けたブラック氏は立ち上がり、私をじっと見る。頭のてっぺんからつま先まで、じっくり眺めてから口を開いた。

「今日の奥様はなんだか雰囲気が違いますな」

「そうですか?」

「いつもより毅然としておられる。そういう奥様も悪くないですな。では、また来月」

 ははは…と笑い、ブラック氏は連れの男性を伴って応接室を出て行った。見送る為にトーマスはついて行ったので、扉が閉まると応接室にはマリーと私の二人になった。

「あれには幾ら入ってたんですか?」

「三千クラウンほどかと」

 三千か。借金の総額は十万クラウンらしいから、金利にもなっていないのかもしれない。

「証文とかはあるんですか?現在の借金が幾らになっているのか、正確な金額がわかるようなものとかも」

「それはブラック様がお持ちです」

「えっ。どうして?こっちにはないんですか?」

 高利貸ししか証文持ってないって…いや、借りた側も持ってなきゃいけないはずじゃないのか。

「奥様はよく分からないと仰り、ブラック様にお任せしているのです」

 なんてこと。

 ベアトリス。もしや…頭緩い?

 お嬢様育ちみたいだし、仕方ないんだろうか。

 しかし、だな。

「それはダメですよ。ちゃんと状況を把握しないと。ブラック氏に確認しましょう」

 慌てて後を追いかけ、正面玄関へ急いだが、既にブラック氏とおつきを乗せた馬車は出発してしまっていた。

 王都へ行くと言ってたし、来月までは会えないのか。

 来月、まだ私がベアトリスだったら、聞いてみるか。

 でも…。そんなに長い間、ベアトリスの生活を続けられるかな。

 グーとお腹が鳴る。

 うん。空腹で先に死ぬかもしれない。

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