第2話

「奥様っ!ベアトリス様っ!」

「…っ!」

 耳元で誰かに叫ばれてビクッとなった。あんまりにも大きな声だったから、耳がキーンとしている。

 なに?なに?どういうこと?

 慌てて飛び起きると、目の前に外人のおばさんがいた。おばさんにおばさんって言われるのも気の毒だが、しっかりとしたおばさんだ。

 えーと。

「お気づきになられましたか?大丈夫でございますか?お怪我は?どこか傷めてはおられませんか?」

「…いや…」

 痛くはない…と言おうとして、自分の声が違っているのに気がついた。

 それに…おばさんが話しているの、日本語じゃないよね。なのに、分かるのは何故…。

「大丈夫…です」

 更に、私、話せるの何故…?

「……」

 それに…。

「!!」

 ありとあらゆることが違っていて、立ち上がって自分の姿を見る。

 なに、このドレス。

 それより。

 私……痩せてない?

「…!?」

 自分のウエストに両手を当ててみて驚愕する。両手の指が触れるくらい、ウエストが細い。

 こんなの、私じゃないっ!

「ま、待って待って待って…」

「奥様…?」

 何がどうなっているのか把握出来ず、混乱する私を、おばさんが不審そうに見る。

「本当に…大丈夫でございますか?ベアトリス様」

 さっきもその名で呼んでいたってことは…私の名前は「ベアトリス」ってことなのか。

 ってことは…。

 いや、まさかな。

 ふっと笑って首を振ってみる。

「あり得ないからぁっ!!」

「ベアトリス様っ!!」

 ブンブン激しく首を振って、なんとか夢から目覚めようとするのに、全然目が覚めない。

 ただ、頭がくらくらする。

 うう。おばさんには辛い…。

 そう思ってから、さほど辛くないことに気がついた。

 まるで十歳くらい若返ったみたい。

「……」

 いや。

 違う。

 若返ったんじゃない。

 これ…。

 転生してないか?


 現代日本に生きていたら厭でも「転生」という文字を目にする。

 小説や漫画、アニメに端を発した電車の広告、街中の広告…。私みたいなおばさんでも毎日のように見聞きしていた。

 ただ、私は小説も漫画もアニメも読んだり見たりしないので、それがどういうものなのかという具体的な知識はない。

 けど、そうじゃないかなって思うのは、自分が全く違う人間になっているからだ。

 ベアトリスという名前の、ほっそい女性だ。

 猫を助けようとして道に飛び出した記憶はある。

 ああいう交通事故で異世界に飛ばされたりするんじゃなかったっけ。

 やだな。

 困ったぞ。

 腕組みをして考え込んでいると、おばさんが心配そうに声をかけて来た。

「奥様。とにかく、一度、お屋敷へ戻りましょう」

 お屋敷…とは?質問しようとしたのだが、おばさんは私の腕をしっかり掴んで、有無を言わせない強引さで近くに停まっていた馬車に乗せた。

 馬車。馬車だよ。

 馬車に乗るのなんて初めてで、ちょっとわくわくしたのもつかの間、ガタガタと揺れるものだから、舌を噛みそうでおばさんと話せなかった。

 仕方なく、開いている窓から外を眺める。

「……」

 さっきいた場所はちょっとした町のようだったけれど、馬車は郊外を目指しているようで、次第に建物が少なくなっていく。

 服装といい、馬車といい、街並みといい、まるで中世のヨーロッパみたいだ。

 あれか。転生じゃなくて、タイムリープ的な?

「……」

 でも、そうだったら私自身は変わっていないはずだ。日本のおばさんが中世ヨーロッパにいるのだったらともかく…。

 白くて、細くて、長い指。洗い物なんかしたことなさそうなこの手は、絶対に私の手じゃない。

「あの」

 石畳の道が途切れ、揺れがマシになったので、向かい側に座っているおばさんに話しかけている。

 おばさんは眉間に皺を寄せて私を見る。私の様子がおかしいのに気づいているのだろう。

 おかしいと思われても仕方がない。

 本当におかしいんだから。

「ここは…どこですか?」

「……」

「イギリスとか…フランスとか…その辺りなんでしょうか?」

 中世ヨーロッパという当たりをつけていたので、そう聞いてみたら、おばさんは眉間の皺を深くした。

「イギリス…?何を仰っているのですか?」

「じゃ…ええと。スペイン?」

「本当に大丈夫ですか?」

 大丈夫じゃない。もう素直にそう認めようと思い、首を振った。

 ブルブル首を横に振る私を見て、おばさんは絶望した顔付きになる。

「おいたわしや…。やはり、さっきの事故で頭をぶたれたのですね…」

「事故…」

 大丈夫かと何度も確認していたのはそのせいだったのか。

 ならば、頭をぶって全部忘れたことにすれば教えて貰えるかもと思いつく。

「そう…なんです。なんか、頭がぼんやりしてて…。私の名前は…ベアトリスであってますか?」

「お名前さえも…?」

 忘れてしまったのかと、おばさんはショックを受けたようだった。

 いやいや。私の方がショックなんですけど?

 夢なんじゃないかっていう希望はまだ持ってるし…もうちょっとしたら起きるかなとも思ってはいるんだけど。

 へへ…と小さく笑う私に、おばさんは大きく溜め息を吐いてから、情報をくれた。

「あなた様はベアトリス・レイヴンズクロフト。レイヴンズクロフト侯爵の妻でございます」

「!!」

 侯爵って…貴族とかだよね。つまり、偉い人の奥さん…ってことか。

「私はマリー・クロムウェル。ベアトリス様が、生家であるモンタリス公爵家よりレイヴンズクロフト家に嫁がれた時に、一緒に付き添って来たメイドでございます」

「ほほう…」

 おばさんの名前はマリーで、私…ベアトリスとは浅からぬ関係だというのが分かった。

 うんうんと興味深く頷く私に、マリーは眉を顰めつつも、ベアトリスの行動について続ける。

「今日はセラフィスの店へお出かけになられ、お戻りになろうとしたところで突然飛び出し、馬車に轢かれたのでございます。跳ね飛ばされて倒れ込んだのを見て、肝を冷やしました。一時は意識がなく、心配しましたが、気がつかれたようだったので大事に至らなかったとほっとしたのですよ。ですが…石畳で頭をぶたれていたのでしょう…」

 おいたわしや…と繰り返し、マリーは大きく溜め息を吐く。

 頭をぶったようだが、痛みはない。触ってみてもたんこぶもなく、へこんでいる様子もない。

 それより…髪が長いのに驚く。しかも、金髪だ。

「……」

 鏡…。鏡ないかな?私、どんな顔なんだろう。

 気になってきて、マリーに鏡持ってない?と聞こうとしたところで、馬車が停まった。

 

 外から扉が開かれ、マリーが先に降りる。貸してくれた手を頼りに馬車から降り立つと、目の前に大豪邸が建っていた。

 おお。絵に描いたような貴族のお屋敷だ。

 灰色っぽい石造りの建物で、左右対象の造りをしている。私が立っているのは正面玄関の前みたいで、左を見ても右を見ても、その先が分からないくらい大きい。部屋数なんか、想像もつかない。

 余りの立派さに圧倒され、上を向いたまま口をあんぐり開けている私を、マリーがそっと注意した。

「奥様。お口が」

「あ…すみません」

 いけないいけない。慌てて口を閉じて詫びると、「お帰りなさいませ」という声が聞こえた。

「……」

 お屋敷の中から出て来たのは結婚式の衣装みたいな服を着た、剥げた…いや、頭髪が寂しい感じになったおじさんだった。

 誰だろう?首を傾げそうになった私に、マリーが背後から耳打ちする。

「執事のトーマスでございますよ」

 ありがとう、マリー。グッジョブ。

「こんにちは。トーマス」

 取り敢えず挨拶を…と思い口にしたのだが、執事のトーマスは怪訝そうな顔で私を見た。

 それで、どうも失敗したらしいと分かり、焦る私をよそに、マリーは冷静にトーマスに伝える。

「奥様は気分が悪く、少しお休みになられるそうです」

「そうでしたか。医師をお呼びした方が?」

「いえ」

 大丈夫だと返し、マリーは私を促してお屋敷の中へ入った。

 外も立派だったが、中ももちろん立派だった。

 正面ホールは高い天井まで吹き抜けになっていて、巨大な円柱がそれを支えていた。壁には何枚もの肖像画がかけられている。歴代の当主を描いたものなんだろう。

 両開きの大きな扉の上部には細長い窓が三層にわたって配置されており、柔らかな白い陽射しが差し込んでいた。

 玄関だけでも十分見応えがある。ほう…と感心する私を、マリーはせっつく。

 ゆっくり眺める余裕はなく、腕を掴んだマリーに引きずられるようにして二階の一室へ連れて行かれた。

 正面玄関からはかなり離れた場所にある部屋は、左右に伸びる棟の左側に位置しており、かなり広かった。3LDKのうちのマンションよりも絶対広い。

 大きな窓からは緑色の芝生が広がる庭が見える。遠くには森が見えるが、その辺りも全部、レイヴンズクロフト家の敷地なんだろう。

 桁違いだ。

 はあ…とまたしても口を開けている私を、マリーは隣の部屋へ連れて行った。

 入ってすぐの部屋は個人の居間みたいな扱いの場所だったらしく、その隣に更に下手があった。天蓋付き(!)のベッドが置かれた寝室だ。

「とにかく、お休みになられて下さい。そうすれば、治るやもしれません」

 マリーは私をベッドに座らせると、祈るような顔付きでそう言った。

 うーん。そうかなあ。

 夢だとしたら…覚めれば元に戻るはずなのだが…。

 腕組みをして考え込む私に、マリーは「寝てて下さいね!」と言い残し、部屋を出て行った。

「……」

 一人になったところで、もう一度、改めて考えてみる。

 夢、ならば。

 何か刺激を与えたら目が覚めるかもと思い、両手で頬を摘まんで引っ張ってみる。

「…っ…いたい…いたい…」

 ただ、痛いだけで、目が覚めそうな気配はない。

 夢じゃなくて…本当に転生とかしてしまっていたのだとしたら…。

「……」

 元に戻る方法はあるんだろうか。

 しまったな。転生するお話とか読んでおくんだった…。

 どうしたらいいかなんて思いつくはずもなく、溜め息が零れる。

「はあ…」

 困ったなあ。

 これ、現実なのかな。

 だとしたら、本当の私はどうなってるんだろう?

 ベアトリスって子が私になってるのかな?

 小太りのおばさんになっちゃって、ショックじゃないだろうか。

「…!」

 そう思って、はっとする。そうだ。鏡、鏡…。

 ベッドの上からひらりと下りて、寝室をぐるりと見回す。こんなに立派な寝室があるのだ。浴室もあるに違いない…という考えは当たり、寝室の奥に続いている扉の先に風呂があった。

 金色の足がついたバスタブ…という、映画みたいな浴槽に感心するよりも。

 鏡だらけの浴室で、私は自分の姿を見て叫んだ。

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