第5話:賞味期限切れの祈り

 それは突然のことだった。

 

 タクミが最後に眠ったアパート――その斜向かいにある古い木造住宅から、深夜2時、火の手が上がった。

 

 「火事だ!!」「誰か119番を!」

 

 タクミは、浅い眠りの中で煙の匂いに気づいた。

 咳き込みながら窓を開けたとき、目に飛び込んできたのは、赤く揺れる光と、誰かの悲鳴だった。

 

 「子どもが、まだ中にいるって……!」

 

 

 身体が動いた。

 

 考えるよりも先に。

 

 これは任務ではなかった。誰かに命じられたことでも、評価されることでもなかった。

 ただ、ひとつの命が、焼かれて消える音を――彼はもう、聞きたくなかった。


________________________________________

 

 住宅の玄関はすでに炎に包まれていた。

 火の粉と煙に視界を奪われながら、タクミは窓を蹴破って中へ滑り込む。

 

 部屋の中には、怯えた小さな女の子がいた。

 声にならない声で泣き叫び、部屋の隅で縮こまっている。

 

 「大丈夫だ。もう問題ない」

 

 その声は、かつて世界を救った英雄が、最後に使った“魔法”だった。

 

 少女を抱き上げる。煙が肺を焼く。意識が遠のく。

 火の音が、まるで過去の戦場のように耳を打つ。

 

 出口を見つけたのは、偶然だった。

 壁が崩れ、隙間から外の光が差し込んだ。

 少女をそこへ押し出すと、彼女は誰かの手に引き上げられた。

 

 

 「……よかった」

 

 タクミは、微笑んだ。

 その直後、天井が崩れ落ちた。

 

________________________________________

 

 翌朝。

 

 ニュース番組が短く報じた。

 

 > 「昨夜未明、練馬区で木造住宅が火災により全焼しました。

   一人の男性が子供を救出し、自らは焼死したとみられています」

 > 「男性の身元は、住民登録が確認されておらず“年齢不詳の無職男性”とされています。

   通報者の証言では、“危険を省みず子供を助けに入った”とのことです」

 

 ワイドショーはそれ以上踏み込まなかった。

 英雄譚は、画面の下に流れる“ニュース速報”の一行でしかなかった。

 

 誰も彼の名前を知らない。

 誰も、彼の過去を尋ねない。


________________________________________

 

 かつて、異世界で“英雄”と呼ばれた男がいた。

 魔王を倒し、神に抗い、人を救った。

 

 そして今、彼はこの世界で、“名もない男”として、たったひとつの命を救った。

 

 誰もその名を記録しない。

 誰もその行動を知らない。

 

 でも、確かに彼は“生きた”。

 

 英雄の記憶は、コンビニで腐った。

 けれどその祈りは――誰かの心の中で、生き続ける。

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英雄の記憶はコンビニで腐る 永守 @nagamori358

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