第10話

 指された指の前で、千璃は開けたままだった口を急いで閉じた。


 そして、誰か、と思い、階下に続く階段のある方に体をひねり、一瞬に渦巻いた数々の考えに思い止まる。


 一日の中で最も寛いでいる、夜食後の自由時間を騒ぎにつぶさせるのは気が引けた。


 すでに充分騒ぎの中心となっている自覚もまた、叫び声を上げるのを阻ませる。


 そもそも自分のような大勢口の舞子のために、警士を動かすなど大それている。くるりと振り向いた千璃は、自分だけでなんとかしなくては、と悲愴な決意に満ちていた。


「怪しくない……ん、でしょ?」


 遼灯はうんと肯く。瞳がおもしろそうな色に輝いた。


「あなた、妖怪?」


 だったら怪しいだろう、と少年は笑い出す。ぺたりと畳に座り込み、


「怪しい奴だったら、なおのこと、自分で怪しいとは言わないだろ。妙に落ち着いている娘だなぁ。俺の人徳かもだけど」


「人徳? 人ね?」

「そこにとびつかないでいただきたい」


 なぜなのか自慢するように胸を張り、また笑いこぼした。


 顔中で笑う楽しそうな様子は、悪いものとは思えなかった。あるのは、決して尋常ではない怪しさを吹き払う、ただ笑顔だ。


「夜半に邪魔して悪い。けどちょっといい?」


 遼灯は大きく手を伸ばし、目ざとく見つけた菓子をつまんだ。


 舞子の分際では祝事以外は出会えない練物を、置いてくれたのは夏庭の温情だろう。

 千璃が見るだけで手をつけずにいたそれを口に入れ、少年は指をなめながら言う。


「千璃が王城に上がるのを躊躇うのって、理由とかあんの? それともちょっとした恐怖ってところ?」


「な――」


 言葉が続かなかった。どうしてそんなことを知っているのだ。この少年。


「新しい場所に行く恐怖、とか。選ばなければこの園に残っていられるんだろ? 旦那がついたとしたって、結局は久蒔の庇護の下だもんな。聞けば結納とやらを済ませたその旦那ってやつにも会ったことなんてないって話だし、恋とか引き裂かれるわけじゃないってなら、そんなところかなって考えた」


 さらに一つを口に放り込み、真っ直ぐに千璃を見る。


「違った?」

「どうして……」


「ちょっと考えたらわかることだ。返事が遅いのはなんなんだ、とね」

「遅……遅かったっ?」


 いつまでと久蒔は期限を切らなかったものの、王への返事ならば早い方がよいのだと、今思い当たる。


 もう三日目の夜。千璃は思わず身を乗り出していた。考え及ばぬほど大きなものに、反してしまったのかもしれない。


「あぁ、いいいい。気にすんな」


 遼灯は首も手も大きく振って、


「面倒くさい。だから召し上げてしまえと言ったのに。選ばせるのってさぁ、ある意味千璃にも残酷だよね。まぁ自分にはもっと酷なんだけどさ。なんだってこんな自虐的な、ってま、わかるんだけどさ、やりたいことは。あぁいや、わっかんねぇか。あいつの考えおかしいからな」


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