第8話 山内涼音
笠岡くんから「初めてライブハウスで演奏するから来てほしい」と誘われて夜の七時、私は言われたライブハウスまできた。ガラス張りの扉の向こうには古着屋の店員みたいな人が受付をしている。あまり人が出入りする様子もなく入りずらい。私は無駄にライブハウスの周りの道を一周して、コンビニの前で少し時間を潰してから行く事にした。こういうの苦手なんだよなって思う。ライブハウスの雰囲気はお洒落で好きだけど、なんせ一人なんだもん。
そうして緊張しながらライブハウスの扉を開けると受付の人たちは談笑していて、私が入ってきた事にすら気づいていない。カウンターの真前まで行くとようやく私の存在に気がついて「取り置きはしてますか?」と聞いてくる。笠岡くんで取り置きしていることと、私の名前を伝えると取り置きリストの中の私の名前にチェックをつけていた。笠岡くんはチケットを五枚売らなきゃいけないノルマがあるって言っていたけど、他に誰を誘ったのかは分からない。
受付の人から入場チケットとワンドリンクチケットを受け取り、その場でドリンクのメニュー表を手渡された。ドリンクは何にすればいいんだろう。色々と探してみるけど小難しい名前ばっかりでどんな味かも想像できない。シンプルなコーラはなかった。仕方ないからクラフトコーラとやらを注文してみた。氷まみれのクラフトコーラは見た目と香りは普通のコーラと変わらない。でも飲んでみると変な味がする。お酒じゃないのにお酒みたい。あんまり美味しくなかった。ライブが終わるまでに全部飲み切れるだろうか。
地下のホール会場に入ると一気にスマホの電波は弱くなる。まだ開演まで時間があるからか、客は私と他に一人。端っこの壁に寄っかかって、電波も悪いから意味もなく写真をスクロールして時間を潰した。次第に二、三人のグループ客が何組か入ってきて、分厚い二重の扉で密閉されたホール会場に話し声が充満する。音楽を聴こうにも再生できないほどに電波が悪く、ただ居心地の悪い空間で笠岡くんの出番を待っている。
聞いたことのない洋楽が流れ始めて、大きなミラーボールがくるくると回っている。スタッフの人がステージ上でゴソゴソ準備をし出して、トップバッターの笠岡くんのギターがセッティングされた。なんかプロみたいでカッコいい。でも私はてっきり二人で出るものだと勘違いしていた。だから度々放送室で練習してたんだろうなって思ってたけど、そうじゃなかったみたい。見渡しても相野さんの姿は無いし、ここに呼んですら無いのかもしれない。
クラフトコーラをちびちび口に含んでいたら、舞台袖からプシューという音がした。ドライアイスの煙みたいな白いのが専用の機械から発射されてステージ上は足首あたりまで雪が積もったように白い煙が溜まっている。次第に洋楽は流れなくなり、照明も落とされて、ミラーボールだけが健在で回り続ける。
「それでは開演します。」
どこかしらのマイクに乗せられて開演が伝えられた数十秒後に、いよいよ笠岡くんが出てきた。彼の演奏している所を見るのは勿論初めて、制服じゃ無い姿を見ることすらも久しぶりだ。
「アイラです。今日はよろしくお願いします。」
アイラ??名前のカサオカハルと一文字も被っていない。どこからその三文字を引っ張ってきて並べたんだろう。まあこういうものには別に対した意味はないのかな。彼はギターを肩に掛けて横に置いてあるパソコンをいじった。ギター以外のサウンドはパソコンからスピーカーを通して流れるみたいだ。笠岡くんはつくづくバンドを組みたいって言ってた。パソコンからの音源だとアドリブが全く効かないから嫌なんだって。まるでアニメのキャラと付き合ってるみたいな虚しさがあると彼特有の笑い方をしながら言ってた。
アイラ、途轍もなく格好よかった。正直私は見くびってた、いやそれどころじゃない。チケットの値段とか、クラフトコーラの不味さとかそんなどうでもいい考え事全てが浄化されたような気分だ。やっぱりステージ立って演奏していたのは笠岡くんではなくアイラだった。教室であまりクラスメイトに心を開かないこととか、人を信用しないとことか、マイナスな側面として映される彼の要素は全てアイラの為にあったんだと思う。アイラとして輝くために笠岡くんは生きていたんだ。私は彼が去っていくその後ろ姿に感嘆した。音楽のノウハウなんてこれっぽっちもわからないけれど、感情だけは一人前に動かされた。
また舞台袖から白い煙が発射されている。そして新雪がアイラの足跡を埋めて消すようにステージ上は一度リセットされてまっさらになった。氷だけが残ったプラスチックのコップを分別もされないゴミ箱に捨てて、私は二重の扉を開けてホール会場から飛び出した。
すごく小さなライブハウスなのでホール会場を出てすぐ左の扉の先に出演者全員の楽屋がある。関係者以外立ち入り禁止と書いてあるので当然私は入ることができないのだが扉が半開きになっていて、寝そべったギターとかが見えている。興奮冷めやらないうちにどうにかアイラに言葉を伝えたくて、その扉の隙間から探した。人の気配を感じない楽屋にカサカサと物音がして、そこにいるってことが分かった。
「ねえね。」
私は扉の隙間に首を突っ込んで、ギターのコードを八の字巻きにするアイラに話しかけた。
「入っちゃダメだよ、ここは。」
「頭しか入ってないよ。」
「頭もダメだよ。」
そうやって笑いながら楽屋から出てきてくれた人はアイラではなく笠岡くんだった。ステージ上と全く同じ格好なのに、絶対同じじゃない、違う人だ。
「ねえもう本当にすごかった。感激よ私。」
「僕も一番だった気がする、今までで。」
「そうだよね、オーラがあったもん。」
笠岡くんにこうして私の言葉を伝えて、そしてステージに立った時、アイラになって私の興奮を思い出してほしいと思った。
「ちょっと外出ようよ。」
笠岡くんがそう言ったので、二人で階段を上がった。段々と地上の生ぬるい空気を感じながら私は階段を上がる背中に話しかけた。
「何がすごいのかって、私素人だからわかんないけど、とにかくグッときた。ステージが笠岡くんの輝ける場所だなって思ったね。」
「僕、輝ける場所狭いよね。」
「いやいや、そういうことでもないけどさ。」
狭いもなにも、人一倍輝ける場所があるだけで私は物凄く羨ましく思う。笠岡くんの場合はこれからどんどん広くなるだろうし。
「とにかくアイラかっこいいってこと。」
「ありがとう。」
階段を上がり切って、街灯の少ない道路で、笠岡くんと向き合ってそう伝えることができた。来た時よりも空気はさっぱりとしていて爽やかだった。
「でも私、笠岡くんは彼女とライブに出るかと思ってたよ。」
「え?」
「だから度々放送室で練習してるのかなって思って。」
「彼女って?」
「え?いや相野さん。」
辺りは暗くて笠岡くんの表情がはっきりとは見えないけど首を傾げているのはわかる。
「いや別に付き合ってないよ。」
「そ、そうなの?」
「うん。」
私はギターを背負った相野さんから直接、「笠岡くんと付き合えた」と聞いた。仮に教えてもらえなかったとしても仕草や表情でなんとなく理解することができたとさえ思う。相野さんの笑顔、幸福感の塊みたいな風船に針が刺されて、私の頭上で、今もはや砕け散った。
「でも二人で帰ったりしてるでしょ?遊んだりも。」
「うん。まあそれは。」
「じゃあ付き合ってるってことじゃないの?」
彼の妙に乾いた表情を見ていたら相野さんが急に不憫に思えてしまう。
「でも別に好きって言われてないから。」
「いや、え、それはさ。」
それは相野さんが恥ずかしがって言えてないだけだ。笠岡くんははっきりとした言葉がないと人を信用しない。それを冷たい人だと思う人もいるだろうけど、逆に言えばはっきりとした言葉が伴えば少々裏切られても、笠岡くんはその人を信じ続ける。
「笠岡くんは好きじゃないの?相野さんのこと。」
「うん、好きではないかな。人と演奏できる機会がないから大切ではあるけどね。」
パソコンから音源を流して、自分一人で弾くことが二次元のキャラと付き合ってるという意味になるなら、一緒に弾けることは三次元の人間と付き合えてるってことじゃないのって少し思う。
「そうなんだ、付き合ってるもんだと思ってた。」
「少なくとも今はまだ付き合っていない。」
相野さんの気持ちを考えると幼馴染として「それ冷たいよ」って笠岡くんに言っておきたかったけど、ライブを見終わった今、そんな冷たさすらもアイラの為にあるのかって変に納得しちゃって言えなかった。
「逆に山内と泰輝は付き合ってなさそうなのに、付き合ってるんだね。」
「え?笠岡くん知ってたの?」
付き合い始めたのはつい二週間前くらいからで、私は誰一人にも言ってないから泰輝くんが言ったのか。
「泰輝が言ってた。」
「話したの?泰輝くんと。」
「あ、いやごめん。泰輝が言ってるのを聞いた。」
「ああ、そう言うことか。」
笠岡くんと泰輝くんはせっかく同じクラスになったのに、ちっとも会話している姿を見ない。むしろ気まずささえ感じ取れる。小学校からの仲とは到底思えないなって、私は側から見てて残念に思う。何があったのかは知らないけど、確実に何かがあったはず。付き合いが長すぎて逆に話しずらいとかそのくらいのレベルではもはや無くなっている。
ライブハウスの周りの道を二人で歩いて、さっき私が時間を潰していたコンビニまで来た。そして私がちょうど腰掛けていた店前のU字ポールに今度は笠岡くんが腰掛ける。店内ではさっきとは別の店員さんがレジを打っていて、思ったよりも時間が過ぎているんだと思った。
「山内。」
「ん?」
「今日は来てくれて本当にありがとう。」
「こちらこそ、ありがとう。」
笠岡くんは私のことを「やまうち」と呼ぶ。本当は「やまのうち」だってことは勿論知った上でだけど、小学生の頃、山と内の間に不思議な「の」が入ることなんて知らずに呼んだその名前のまま今に至る。私は自分の名前を間違えられているのになぜか嬉しく、もはや「やまうち」でも「やまのうち」でもどっちでもいいと思っている。
「これからライブハウス戻る?」
「どうしようかな、笠岡くん誰か他に呼んだの?私が知ってる人あそこに居るなら戻ろうかな。」
「誘おうとしたけど、結局山内だけしか呼べなかった。」
相野さんはそもそも誘われてすらなかったということか。
「じゃあチケットのノルマ分は自腹?」
「そう。大赤字。」
あんなにいいライブをしたのに、赤字なんて笠岡くんは不器用だ。私にお金の余裕があったら迷わず全て買い取ってたと思う。
「次ライブやるとき言ってね。私がいろんな人誘うから。赤字にはさせないからね。」
「本当?ありがとう。」
次のライブでは絶対に相野さんも呼んであげよう。余計なお世話かもしれないけれど、どちらにせよ相野さんは早めに笠岡くんの気持ちを知った方がいい。このままお互いの認識の差異に気づかずに進んだら、後々でえらいことになる気がする。
私は結局そのコンビニで笠岡くんと別れた。一人で駅に向かいふと、笠岡くんには彼女がいないんだと思う。私に彼氏がいなかったら好きになってたなと勝手に一人でドキドキしながら、人と付き合ってたった二週間でこんな感情を抱く私は危ないなって思った。いや、やっぱり笠岡くんのことは好きになんてならないか、だって私はアイラに魅了されたんだから。それが誤魔化しのための錯覚にならないように願って、うろ覚えのアイラの曲を口ずさみながら私は歩いた。
一方、学校ではクラス全員の話題を掻っ攫う出来事が起きている。それは理科の安部先生がいなくなったことだ。夏休みの直前にあらゆる書類やら何やらから安部先生の名前は無くなり、ただただ存在が抹消された。私たちはその理由とか安部先生の行き先を一度も明かされることはなかった。数人の女子たちは耐えきれずに担任の黒田先生に問い詰めていた。「安部先生はどこに行ったんですか?」「どうしていなくなったんですか?」「また帰ってくるんですか?」と数人分の増大な圧を受けながら黒田先生は「詳しいことは言えません。それほど重大なことではありません。」と濁した。こんないなくなり方をして重要じゃない訳がないと思う。でも先生はきっと、幸いにもあと数日で夏休みが始まるから、たった四十日間で生徒たちの脳内から自然と消え去るだろうと思ったんだろう。そんな都合がいいはずがないんだ。嫌われた中年教師ならまだしも。
そして結局、黒田先生は泣いた。必死にバレバレな嘘で誤魔化して、とうとう八方塞がりになった子供のようだった。泣いているということは何かしら後ろめたい状況があるってことを白状しているようなものだ。クラスメイトはそんな姿を見て明らかにバカにした。でもそんなことも気にせず、恥じることさえなく、黒田先生は教壇に穢れた雫を垂らし続けていた。私もこの人は幼稚だと思った。先生が泣いたからって救われる人はこのクラスのどこにもいない、だから誰も許さない。
おかげでしぶとく延命されていた笠岡くんと江田くんの話題はゼロとなったが、まさに先生の精神状態と同じように不安定になっていくクラスは居心地の良い空間ではなかった。意見箱は安部先生に関する訴えが殴り書きされた紙切れが大量に投函されて溢れそうだった。でも学級委員はそれを回収しようともしない。みんな見て見ぬ振りだ。教師が泣いてしまえば威厳なんてものが無くなり、この不安定さに拍車がかかる予感がしてしまった。
学級委員の芳岡さんは時折、一日中落ち着かないクラスを憂う様子を見せて、学級委員らしい台詞を教室に届かせようとする。でもそれはとにかく弱々しくて数メートル先でかき消されてしまう。私は知っている、彼女がどれだけ人見知りかを。ずっと無理してる、本当は学級委員なんて向いていないことを理解しているんだろう。あなたが何かをしてこうなった訳じゃないんだから、担任が放棄した責任をあなたが受け取る義務なんてない。
そういえばこの芳岡さん自身も陸上部の江田くんと別れたらしい。でもいつかそうなるだろうなと思いながら、私は二人を見てた。趣味の一環として陸上部の人たちの大会を見に行った時偶然、江田くんを応援しにきた芳岡さんと遭遇した。混戦模様を演じる江田くんを眺める目はまるで所有物に対する視線のようだった。その時私は「競馬場にいる人みたい」と言ったけど実際にはもっとモノとして見てた。江田くんが最下位にでもなっていたら、芳岡さんはきっと恥ずかしくて、私の顔すらも見れなかったんじゃないかな。だってあの人にとって江田くんは第二の自分そのものなんだから。
彼女は人見知りだけど一度話せば心を開くみたいで、大会の後も度々芳岡さんは私の元にやってきた。そして決まって「江田くんが最近元気になってきた。」って別に求めてもいない報告をしてくる。私がそれに大した反応を示さなくても、もっと言えばうんざりしていることをあからさまに顔に出しても、全く気にしない鈍感な脳みその持ち主だった。常にふわふわしていて他人の声が耳に届かない領域まで浮遊しているような人だ、自分では地に足ついているつもりなんだろうけど。
そして私に本当に伝えたかったことは「江田くんが最近元気になってきた。」ことではなく、「私が最近江田くんを元気にした。」と言うことだったんだろうと思う。自分が彼を支えていることが嬉しくて、誇らしくて、江田くんよりも人の支えになれる人間性を持った自分自身のことが大好きだったんだろう。だから向いていない学級委員なんて役割を担いたがる。芳岡さんはそんな人にずっと憧れていた、でもそれは無理をしていた。だからもう耐えられなかった。芳岡さん、きっとそう言うことでしょう。
江田くんに関してはまあ論外だ。暴力を振るうような人間が他人と永続的な関係を築ける訳がないと最初からそう思っていた。勿論こんな本心をぶつけるはずもなく、私は江田くんに悪いイメージを持っていないクラスメイトを演じた。芳岡さんは切なくて苦しいだろうけど、「殴られる前に別れることができてよかったね。」ってもしも私にデリカシーの一欠片も無かったら、彼女の肩を叩きながら言っていたと思う。
何だかこの教室にいると私まで陰湿な人間に染まってしまいそうだ。クラスの規律がこれほどまでに乱れてしまった原因は本当に安部先生がいなくなった事に限るのでしょうか。担任でもない、強いて言えば少し女子人気があるだけの理科教師がいなくなった、ただそれだけなのに。泣いてしまうのは黒田先生だけで済むのでしょうか。いや他にも泣くのを必死で堪えている人がいる予感がするのはきっと私だけじゃないはずです。
こんな状況だから私に彼氏がいて本当によかったなとつくづく思う。泰輝くんは付き合ってみると良い意味で少年のような人だと分かった。私よりも勉強はできて品もあったりするけど、川を見たら着替えなんてなくてもジャボジャボ入っていくし、駄菓子屋を見かけても吸い込まれるように入っていくし。小学生の夏休みをもう一度遊ぶように、高二の夏の日々を過ごしている。
そんな彼に「いつ僕を好きになったの?」と聞かれたことがある。突然そんな難しい質問をされて少し戸惑ったけれど私の中には明確な答えがあった。肌寒い春先、まだ泰輝くんと笠岡くんの間に距離が生まれていなかった頃、廊下のロッカーで笠岡くんが泰輝くんのワイシャツの襟を直してあげてた。その時私はさりげなく直してあげた笠岡くんじゃなくて直された泰輝くんが可愛く思えて、私も直してあげたいと思った。その瞬間から少しずつ、冷水の中の氷が溶け切るほどのじんわり感で泰輝くんへの好意が成立した。だから私は泰輝くんの問いに対して正直にそう答えた。すると彼はなぜか泣いてしまいそうな表情で私をぎゅっと抱きしめた。そして私は知った、泰輝くんは物凄く嫉妬深いんだと。私の泰輝くんへの好意の始まりが遡ると笠岡くんのワイシャツの襟を直す指先にあったことがとても嫌だったみたい。そんな些細なこと気にしないでよって、私は思ったけれど彼はそうやって思えない人だった。
でもその嫉妬が更に彼らの壁を造る要因だったと後になって思って私は少し後悔した。小学生の頃、あの二人は限りなく恋人に近い友達だった。恋愛のセオリーなんて何一つ理解できていなかった小学生の私は、二人はきっと好き同士でいずれ恋人として付き合ってしまうのかなと思った。だからそれが寂しくて二人の間に迷わず割って入っていって、そして三人で付き合おうなんて奇天烈な考えで最初は彼らと仲良くなった。性別なんてものを何にも気にせずに今まで何百日も一緒に過ごしてきたから、二人があんな風な関係になってしまうことも、そして私が片方と本当の恋人関係になったことも全く想像し得なかった。
今日の昼休み、久しぶりに芳岡さんが私のもとにやってきて「一緒にお弁当を食べようと」誘ってきたのでそれを了承して二人で中庭のベンチに座った。かろうじで木々の陰になってはいるが、それでも暑いことには変わりないので私たち以外にほとんど人は居ない。わざわざ外に出なくたっていいじゃないと思ったけれど、芳岡さんは多分私に言いたいことがあると、俯き加減の横顔を見ててそんな予感がしたので仕方なしについて行った。
芳岡さんは頂きますも言わずに淡白な弁当箱を開く、そしてあまり美味しくなさそうに白米を頬張った。私には残飯として持ち帰らない為に嫌々体に入れているように見えた。
「私、学級委員なんてやめようかな。」
そして芳岡さんは突然、独り言のように呟く。
「え、どうして?」
「私やっぱり向いてない。学級委員失格。」
うん、確かにあなたは学級委員には向いていない。それは事実だ。でも失格なんてジャッチを下す審判は何処にもいない。少なくとも黒田先生よりは数段マシだ。取り乱して泣くことなんてしていないんだもん。
「そんなこと思う必要ないじゃん。別に相野さんがクラスを乱したわけじゃないんだから。」
「みんなそうやって言うよね。だけどさ。」
「どうしたの?」
「ううん。やっぱりなんでもない。」
芳岡さんは泣き出した。彼女の湿って束になったまつ毛は涙の重さに耐えきれず、そのままこぼれ落ちた。私はそんな姿を冷静になって見ていた。あまりにも唐突なことだったので、同情も共感もする時間がなかったから。
「え?どうして、、?」
「ああだめ。もうごめん。気にしないで。」
「気にしないでって無理だよ。どうして泣くの?」
泣いてしまうのなら、その理由をしっかり示して欲しかった。それほどに涙は他人の心を乱してしまうから。こっちまで不要な罪悪感を抱いてしまう。
「理由はうまく言えないけど、でも大したことじゃない。」
「ああ、そうなんだって納得できないよ。それじゃあ。」
「私のせいでクラスはこうなった。なのに何にもできない。」
「何それ、、よく分からない。」
どれだけ聞いてもこんな曖昧な理由しか答えないんなら、最初から泣くんじゃない。自分の中で収めきれないほど事態が深刻だから涙が溢れているんだ。私の心を勝手に曇らせておいて、その後晴れさせもしない。これじゃあ黒田先生と全く同じ。ああこれが二人目の涙だと芳岡さんの指の隙間が湿っているのを見て思った。
「じゃあ学級委員はやめた方がいい。きっと誰か他の人がやってくれるよ。」
「そうだよね、私じゃもうしんどいよね。」
「うん、そんな無理してやるもんじゃない。」
「やっぱり。うん、ありがとう。」
彼女の瞳は徐々に乾いていった。瞬間的に流れる涙は、やっぱり短時間で止まる。私は随分と厄介な出来事に巻き込まれた気分だ。芳岡さんは私にありったけの感情を渡すことができて満足なようで、潤んだ瞳にすっきりとした顔をしていた。一方私は押し付けられた感情をどうやって処分したらいいかも分からないのに、無責任な話だ。
「ほんとごめんね、急に泣いちゃって。」
もっともっと私に謝れ。
「急に泣いちゃったらこっちも怖いよ。」
「うん、もう絶対泣かない。」
「約束よ。」
私は優しいからそう言って笑ってあげると、芳岡さんは弁当に再び手をつけ出した。そうだ今はお昼ご飯を食べる時間なんだったと思い出し、私も自分で今朝作った弁当のおかずを口にした。いつか泰輝くんに作ってあげたくて今練習しているけど、あんまりセンスがないかもしれない。いつまで経っても七十点で上達しないまま現状維持だ。
「あ、ねねね。山内さん。」
「ん?なに?」
自作のおかずの出来具合を十二分に味わっていると、すっかり泣き止んだ芳岡さんは私に変な紙切れを見せてきた。
「これ教室の意見箱に入ってたんだ~。見てよ、あなたのことが好きですって。」
「え、これって、、」
「クラスの誰かしらが私のこと好きってことだよね~、これが今の私の心の支えになってるの。」
「あ、ああそうなんだ。良かったね。」
彼女はその紙を頬に当てて笑う。そしてまるでお守りのように誰かの告白を財布にしまう。彼女はこれで恋人を失った寂しさとか、学級委員としての至らなさを紛らわして泣かないようにしていたのか。私は苦笑いしかできない。だってこの言葉を書いて投函したのは江田くんなんだから。私は自分の席で小さな紙切れに愛の言葉を書き、教室の後ろの意見箱に投函する江田くんの姿を見た。彼女に面と向かって好きとすら言えない。私は妙にダサいことするなと軽蔑していたと思う。
芳岡さんは結局江田くんでしか自分の心を補完できない。彼女は離れたはずの彼の存在を無意識的に、そして否応無しに求めている。まるで呪縛のようだと思った。
「学級委員辞めますって、先生に早めに言っといた方がいいかもなあ。」
「いや、やっぱり学級委員辞めない方がいいかもよ。」
結局芳岡さんは江田くん無しでは満足した生活を過ごせないとしたら、またいつか復縁したりするんだろう。そしたらまた江田くんを支えなくてはいけない。支えられる人間性である為には間違いなく学級委員のままでいた方がいいだろう。
「え、私やっぱ辞めない方がいいかな?」
「うん。芳岡さん自身のためにもやってた方がいいよ。」
それでまた泣き出したとて、私はもう知らない。そして泣き出す三人目は一体誰になろうか。
結局、夜になると芳岡さんからメッセージが数件送られてきた。でも私は内容を確認する気が起きない。今日の一件で疲れてしまってしばらくは芳岡さんと関わりたくない気分だ。でも方の本人は私の目の前で感情をあらわにしたことに対してなんの恥じらいも持っていない、やっぱり彼女は鈍感だ。またふわふわと浮かんでいく。
代わりにサブスクでも聴けるようになったアイラの曲を聴いておく。今日もそれらは私の体の中で溶けていき、心の隙間に入り込んでいくようだった。これが私の心の支えになるのかもしれない。
次の日の朝、教室の隅にはもはや見慣れたギターが二つ立て掛けられていた。最初は邪魔だと思った人もいたかもしれないけれど、今となっては最初からあった物としてもう誰も文句は言わないだろう。
授業が終わり、放課後になると相野さんは子供を迎えに行くようにギターを手に取り、背負う。笠岡くんも少しだけアイラじみた顔をしてギターを片手で持ち上げた。そして放送室へと歩き出す二人と私はすれ違った。あの二人を結んでいるのはギター、たったそれだけだ。でも側から見たらそんなはずないと思うほどに距離が近く恋人のようだった。元来笠岡くんも距離感近い人ではないからそりゃ勘違いもしてしまう。彼にとって一緒に演奏できる存在がどれほど特別かは分からないけど、正直なことをちゃんと言ってあげないと。現実を突きつけられたらそれこそ相野さんも泣いてしまうだろう。だから笠岡くんがいつまで経っても本音を打ち明けないのなら、私が相野さんに言ってやる。
そうやって一人で勝手に決意して階段を下っていく二人を見送った後、教室に戻ると芳岡さんが後ろで意見箱から溢れかえり、既に散らかった紙をまとめて整理していた。一枚一枚の内容に関しては言わずもがな同じだから、彼女はどうやらそれらをそのまま処分するようだ。昨日までは見て見ぬふりをしてたんだから、私との会話でまた学級委員をやる気になったのかもしれない。重ねてトントンと角を合わせると紙切れはかなりの厚さになった。
その時教室に残っていた数人の女子は話し出した。
「安部先生いなくなったの生徒に手を出したかららしいよ。」
物静かな放課後の教室ではコソコソ話は成立しなくて、ほぼ全員の耳に届く。安部先生、生徒に手を出したらしい。これはやっぱりタタごとではなかった。そりゃ黒田先生みたいな人なら泣いてしまうだろう。
「やばぁ。手を出したってどこまで?」
「知らんけどさ、そりゃいなくなるよ。エグいね。」
それを話していた人らは衝撃の事実を雑に教室に残し、私たちに動揺を与えたまんまリュックを背負って教室から出ていく。すっごい心臓がバクバクして私自身が秘密を暴露されたような気持ちになる。最低限教師として敬っていた人が、むしろ私たちよりも低俗な人だったとは。苦しい、怖い、気持ち悪い。最低、最悪、卑俗、成れの果て、変態
私が動揺に苦しめられていた間に、ヒラヒラと何かが風に舞う音が微かに聞こえた。何かと思ってみると芳岡さんの足元にはさっきの紙切れが散乱している。折角揃えていたのに、彼女も動揺して落としてしまったのかと思った。少しの静止の後で芳岡さんはハッとした顔で数十枚の紙切れを拾い始めた。私も手伝ってあげようかと思ったけど、私よりも先に山田さんが手伝い出して、芳岡さんの足元から丁寧に拾っていたので、まあいいかと思い教室を後にした。そういう訳で私は別に見てみぬふりじゃない。
次の日の朝には安部先生の噂がじわじわとクラスに広がり、教室はますます不安定さが増していた。本気で安部先生に失望した人達、そしてただ気色悪がる人達、あとは単なるゴシップ好きの野次馬。色々な人がいたけれど、黒田先生にもう既にこの情報が出回っていることを知られたらまた面倒臭いことになるだろうから、先生が教室に入るとこの話題はみんなしなくなった。どっからこの情報が漏れ出したのかは分からないけれど、オブラートに包んだとしても先生が隠さずに、私たちに話してくれた方が数段マシだったと思った。これから安部先生の噂がクラスいっぱいに広まって、親とかにも話が行くとして、そしたら20代の社会人のくせして黒田先生は再び小学生のように泣いてしまうだろう。だから必死に私たちの脳内から安部先生のことを消し去ろうと、朝のホームルームでもやけに時間を使って無駄話をする黒田先生は正直見てられなかった。
そしてこの日は複雑な気持ちを洗い流せと言わんばかりな、夏休み前最後のプールの授業があった。プールサイドで露出した肌に余計な風が吹き付けて、私の体は細かく震えて歯がカタカタと音を立てた。そんな哀れな私の姿を眺めながらベンチに座る見学者たちには頭から水をかけてやりたい気分だった。泰輝くんは最近、プールがある日は学校を休むようになった。彼すら見ていないんならプールサイドに上がって風を浴びることなく、ずっと水中に潜っていたいと思う。
泰輝くんは小学校の頃からずっと体育は休みがちで、あんまり体が強くないんだと思う。詳しい体の話については一度も聞いたことないけど、夏に汗をかきたがる少年のような彼の性格は体の制約が存在しているから出来上がったんだろうと私は感じている。そして儚さとか、美しさとか、外側からしか見えない彼のそういった魅力は全て体の弱さから生まれているはずだと思う。つまり何が言いたいかって、泰輝くんには何も隠さず、強がらず、ただ笑いながらプールサイドのベンチで座っていてほしいということ。
そして笠岡くんに関しても、小学校の時は頻繁に体育を見学していた。でも今となっては何の問題もなくみんなと一緒に授業に参加している。だけど前に笠岡くんは自分で無理をしていると言っていた。今でも長距離走とかで気を抜くと心拍数がおかしくなって過呼吸みたいになってしまうんだって。言われてみれば体育のふとした時間で笠岡くんは少し痛々しい表情をしている時がある、苦しいんだきっと。私はそこまでして無理する必要ないと思う。むしろ昔みたいに二人でベンチに座って楽しそうにしてくれたらいいのに。今となっては幻のような二人の関係を思い出した。
笠岡くんがプールの水を肌に纏いながら、プールサイドへ上がる。笠岡くんが今も多分無理していることを思い出すと急激に彼の体がヤワなものに見えてしまうし、そのか弱い体を殴った江田くんのことがより一層、嫌いになる。
私は泰輝くんが学校を休むと一人で下校しなくてはいけないこともすごく嫌だ。クラスメイトに一人ぼっちなところを見られたくなくて、わざわざ一つ先の駅まで歩いてそこから電車に乗るほどに嫌で、恥ずかしいというよりもクラスメイトから逃亡しているような気分でいる。だから笠岡くんに「駅まで帰ろうって」言われた時は嬉しかったし救世主に見えた。
「声かけてくれてありがとう。私一人ぼっち本当に無理。」
「昔からそうだもんね。」
笠岡くんと二人で教室を出て、吹奏楽部の演奏が聴こえる廊下を歩いた。泰輝くんにこうして二人で帰っている場面を見られたら、きっと海淵みたいに深い嫉妬をされると思う。でもそれは幸せなこと、私の存在価値を示すものだから。
「ほんと、一人ぼっちの時のクラスメイトの視線が一番キツイすよ。」
「僕はでも大体一人だけどね。」
「え?まあうん。いやそうでもないでしょうよ、、」
確かに笠岡くんが一人でいる所はよく目にするからうまく否定もできずにモゴモゴしちゃった。でも私とはきっと違う、彼は一人になりたくてなっているんだと思う。
「安部先生やばいことになったよね。」
廊下を下り、職員室を見たときにふと思い出して私はそう言った。
「あの人はダメだよ、最初から。」
「そうだったのかな、ダメなところを隠してただけなのかな。」
「山内が知らなかっただけかもね。」
彼の言葉は意外だった。最初から安部先生がこうなることを知ってたみたいなそんな言い方で階段の踊り場から窓の外を眺めていた。
「そうなの?最初からずっと生徒に手を出しそうだったってこと?」
「まあそうだね。いつか居なくなると思ってた。」
「へ、へぇ、、」
何だか笠岡くんの言葉がリアルすぎて少し怖かった。私は今回の件を知るまで安部先生のヤバさを体感したことは一度もなかった。でも彼は安部先生が居なくなるというある種の確信を持っていた。ならばどうして私は一ミリも気が付かなかったんだろうか。
下駄箱に行って、笠岡くんの肩を借りながら靴を履き替えた。彼の肩は思ったよりも華奢だった。「ありがとう」と言うと彼は玄関の扉を開けて私を先に通してくれる。そんな自然な優しさを持っているところが私は昔からすごく好きだ、友達として。
外に出ると夕方とは思えない温度の空気を肌に感じる、そして私の目の前には相野さんが立っていた。でも私のことはちっとも見ていない。少し後ろの笠岡くんのことを嬉しそうに見ていた。
「ねえねえね。、笠岡くん。」
「ん?あ、相野さん。」
そのまま引っ張られるように、相野さんは笠岡くんの近くに寄る。
「笠岡くん今から帰るの?」
「うん。あ、セッション夏休み入る前にやろうね。明後日とかどう?」
「う、うん。そうだね。やろう。」
相野さんは何か言いたげな表情をしたまんま、少しの間笠岡くんを見つめる。きっと私の姿なんて全く視界に入っていないんだろう。
「ん?どうしたの?」
「え。いやえっと、一緒に帰りたいなってちょっと思って。。」
「そっか、でもごめん。またセッションの時に一緒に帰ろ。」
「え、いやいやいいよ。私は全然。」
このままじゃ相野さんに恨まれてしまうような気がしたので、私よりもこの人を選んでくれた方が都合がいいと思って彼にそう言った。そしたら相野さんは「あ、居たのか。」と言わんばかりの表情で私のことを見つめて残念そうな顔をした。それでも笠岡くんは私と二人で帰ろうとする。今日、彼と相野さんはギターを背負っていないという、ただそれだけで、単なるクラスメイトの関係になってしまう。
「ねえね、本当に私一人でもいいよ。」
「いや僕から帰ろって誘ったから。」
そう言うと彼は私を連れ出して校門へ歩き出す。私は途轍もなく不安な気持ちになった。相野さんはきっと彼女である自分よりも優先されるアイツは一体何なんだって思っているはずだ。お願いだからもう少し、あと少しだけでも相野さんの気持ちをわかってあげてほしいと、何も気にしていないような顔で歩く笠岡くんを見て思った。このままじゃ私のせいで相野さんは泣いてしまうだろう。このクラスで三人目に泣き出す人になる。それだけは絶対に嫌だ。私の目の前で、それも私のせいで泣かれたらあまりにもしんどすぎる。
「笠岡くん、、」
「どうした?」
「相野さんと帰った方がよかったよ。きっと」
不安な気持ちを抑えきれず、そう漏らしてしまった。勿論私を優先してくれたことは彼の優しさを実感するけれども、正しい選択だったとは到底言えない。
「でも先に山内に帰ろうって誘ったし、今日は一緒にギター弾いたわけじゃないもん。」
「ギターなんて関係なく、相野さんのこと優先するべきだよ。」
「どうして、」
「だって、、相野さんは笠岡くんと付き合ってるって思い込んでるんだもん。」
相野さんが舞い上がってそう錯覚しているのか、それとも笠岡くんが人との関わりが下手で気付けていないのか、それは私には分からないけれど、今のままじゃ相野さんの愛情をただ払い、捨てているように思う。
「好きじゃない人を好きにはなれないよ。」
「別に好きになってあげてって言ってるわけじゃなくて。だったらはっきり好きじゃないって言ってあげるとかさ。」
それは相野さんの為だけではなく、私自身の為にも。このままじゃ苦しいんだ。願うように彼の顔を見たけれどあまり信用できなかった。
「まずはそれを伝えてからか。」
「うん、そうするべきだと思う。」
それかもしくは二人が本当に付き合うこともありだと思う。泰輝くんは結局いくら幼馴染であろうとも恋人がいない男と一緒に帰ることを許してくれないだろうし。私も笠岡くんに対して良くない感情を抱いてしまう可能性もゼロじゃないし。私たち三人の関係性をなんとか保つために相野さんがバランサーになってくれればいいと思う。彼の優しさに触れ続けるたびに、そう望む回数が増えてしまう気もしている。
そもそも側から見たら付き合っていると勘違いするほど二人の空気感はマッチしているのだからギターなんかなくても、もうすでにかけがえのない存在になっているのかもしれない。幼馴染の私くらいにしか見せない無垢な笑顔をきっと相野さんにも見せているのだろう。
そういえば、かけがえのない存在で思い出したけれど、芳岡さんは結局、花壇の隅っこの方で江田くんの部活が終わるのを待つようになりました。フラれた江田くんはおそらく精神的にナイーブになって、そしてそんな姿を見て自分のせいなのに芳岡さんは放っておけなくなって、嫌な気持ちを振り払うためにあそこに帰着してしまうような人なんです。やっぱり私が思った通り、芳岡さんは江田くんに対する気持ちを何度もループさせる。好きになって、支えてあげたくなって、でも耐えきれなくなって、そして嫌いになったのに、また時間が経つと江田くんを求め出す。きっと江田くんに殴られたりしない限りはこのループは終結しないのではないかと思います。
そしてこの日の夜のうちに相野さんからラインが届いた。「笠岡くんと仲良いんだね」って、皮肉混じりの文章に私は思わずため息をついてしまった。絶対私のことを恨んでる、なんとなく予想はしていたけどこうやって直接ラインが届いてしまうとはうんざりだ。これに対しては「まあ幼馴染なだけだからね。」と返しておいた。でも相野さんは私の返信を無視した。相野さんに可哀想だと同情していたけれど、これじゃあ私も勝手に恨まれた立派な被害者だと、一向に既読もつかないメッセージを見ながら思ってしまった。
次の日の朝、自分の席で眠い目を擦っていると笠岡くんがそっと近づいてきた。「おはよう」と言葉を交わし合っても、私の側から離れなかったので「どうしたの?」と聞くと「相野さんに本当のことを打ち明けた」とボソッと言った。昨日までずっとそれを伝えなかったのに、今になって突然相野さんに伝えた彼の行動には少々疑問を抱いたけれど、私は安堵して「それはよかった。」と呟いた。
でも私の対角線上の席に座る相野さんのことが気がかりで仕方なくなった。笠岡くんの彼女じゃないという事実を知ったんだと思うと、彼女の心に衝撃が加わりそこから蜘蛛の巣状に亀裂が走って、まるでガラスのひび割れのように。今はかろうじでそこに座っていられているだけだと思った。そしてやがてガラスの破片が私の方へ飛んで来やしないかと不安になる。だから私は今日はちゃんと登校してきた泰輝くんの元へ行き、普段よりも近い距離感で、甘ったるい会話をした。多分泰輝くんはこういうのが嫌だと思う。耳を赤く染めて私の目を全く見ない。私もすごく恥ずかしかったけれどこうしなかったらガラスの破片が刺さってしまいそう、いや、と言うより相野さんの手で直接刺されてしまいそうで怖かったから、私の鼻先が泰輝くんのに触れそうになるまで近づくのを辞められなかった。
そして昨日よりも更に安部先生の噂は広がり、クラス内では周知の事実として変貌を遂げていた。そうなると芳岡さんの精神状態も気になってしまうし、同じく黒田先生のことも気になってしまう。どうしてもう、私はあらゆることを気にしながら今日も生きなきゃいけないんだろうとうざったくなった。逃げ出したいこの教室から、一時的に逃避できる夏休みまではあと五日。
朝のホームルームが始まると、今日も私たちに安部先生のことを忘れさせるためにわざと能天気に振る舞う黒田先生が教壇に居た。昨日よりも今日、そして今日よりも明日、クラス内では安部先生の噂が濃くなると言うのに、この人もある意味現実逃避しているのだと思った。その時後ろの方の席から声がした。
「先生も、生徒とハグしておかなくていいんですかー?」
黒田先生の体は数秒間完全に静止した。現実逃避しようと考えた先生の腕を掴んで現実へ引き戻したその一言は、何らかの一線と超えてしまった怖さがありつつも、逃げるなという私たちの密かな総意が誰かしらの声を通して先生に伝わった爽快感が少しだけあった。先生が人としてもう少しマシで大人だったら、こんなにもクラスは不安定になっていなかったはずだ。
「何か言いたいことがあるのかもしれないですけど、、私は何も言えないです。」
黒田先生は唇を噛み締めながらそう言った。そしてクラスメイトの多くが笑う。どうして笑うんだろう、黒田先生が弱っちいから?また泣き出しそうだから?先生たちの醜い姿を見れたから?教師よりも優位な立場になれたから?
笑っていないのは、私と芳岡さんとそれから山田さんと相野さん。あとは江田くんと泰輝くんくらいのものだった。
しかし後ろの席の笠岡くんに関しては御多分に洩れず笑っていた。こう言うときに少し呆れた顔をするのが彼だと思っていたから、私は驚き、残念だった。確かに黒田先生は幼稚で嫌な部分はあるけれど、泣かせたいとは微塵も思わない。抱き合ったのは黒田先生じゃないんだからこれ以上攻撃しても何も生まれないはずだ。
だから私は後ろの彼を振り返って
「なんで笑うの?」
と聞いてしまった。すると彼は「だめ?」と聞き返してくる。ダメかどうかはその人の価値観によるけれど、少なくとも笠岡くんにはただ落ち着いた顔でいて欲しかった。
私は思い切って「だめ」と答えた。彼まで笑ってしまうことが今の私にはどうしても不安で仕方ないんだ。彼は「ごめん」と言い、体温が急下降してしまったように表情が冷たくなった。
笠岡くんは私から見て間違いなく、完璧な人間ではない。でも私が彼に対して何かを要望したら、ちゃんと受け取って今みたいにすぐにそれを実行してくれる。つまり人として可変性がある。昔からそうだったかと聞かれるとそうでは無かったはず。昔は他人から忠告や助言を受けた時、彼の鼓膜の辺りには余計なものが詰まってよく聴こえていなかったと思う。
結局黒田先生はホームルームが終わると逃げるように教室を出た。六時間目が終わったらまた戻ってくるというのに、もうここにはいられないと言わんばかりの表情だった。そんな姿を見て誰かが「勝ったね。」と言う。いつから勝負をしていたの?そしてあなたはどうして勝ったの?どうして黒田先生が負けたことになるの?クラスメイトは徐々に攻撃的になっていく。教師の威厳がなくなるとこうなってしまうのかと、高校生がまだ人として未熟だと言うことを思い知った。
そしてこの調子なら安部先生が手を出したのが誰なのかも夏休みが始まるまでに炙り出されてしまう気がした。ひょっとしたらそれが物凄く身近な人間かも分からないのに、クラスメイトは大好物を目の前にしたガキのように、今頃目を輝かしているんだろう。
昼休みになると泰輝くんは私に「ちょっと二人で話そう」と言って中庭が見渡せる小さなバルコニーに連れ出した。遠くから声は聞こえてくるけれど、そこには私たち以外誰もいなかった。
「スズ、今日どうしたの?距離感妙に近くない?」
ああそのことだったかと私は恥ずかしくなる。確かに恋人同士のおおっぴろげないちゃつきを嫌がっていた私だから、泰輝くんは不思議に思っただろう。
「ん?いやたまにはいいかなって。」
本当は笠岡くんじゃなくて泰輝くんの彼女であることを相野さんに見せつけるためにやったことだけど、それを正直に説明したら私と笠岡くんが恋人と疑われる関係性なんだと教えることになるから、適当に誤魔化した。
「ずっとそれでもいいかもね。」
そう言って泰輝くんは教室での私くらい顔を近づけて笑う。今度は私の顔が火照っていた。友達としてずっと認識していた表情に恋人としてのときめきを感じるようになったのは物凄く新鮮な気持ちだった。そのまま泰輝くんは私の背中に手を回して、私も彼に身を預けてハグをした。彼の体に密着するのは久しぶりだったけど、なんか前よりも安心感があった。
「あれ?泰輝くんなんか筋肉ついた?」
「わかる?」
「うん。なんか胸板とか肩周りとかさ。強そうになったね。」
「最近鍛えてんの。ジムで。」
「そういうことだったか。」
私はハグをしながら泰輝くんの肩甲骨あたりの筋肉をさすった。泰輝くんが逞しくなったのは自分のことのように嬉しくて誇らしかった。
「ジムとかって高くないの?」
「大丈夫よ、俺社長の息子だから。」
「出たよそれ。信じる人いるの?」
小学校の時から泰輝くんはそんな嘘をつく。嘘というよりも口癖なんじゃと思うくらいに。
「いたよ。少し前だけど。」
「相当バカだね。その人は。」
「うん、バカだったよ。」
会話をしながら私たちは不自然なほどハグをし続けた。ただ離れようという気が一切起きることが無かったから。
「どうして鍛えようと思ったの?」
「どうしてだと思う?」
「え?もしかしていざというときに私を守るためだったり?」
私は彼の胸元に顔を当てて、頬でワイシャツのサラサラした生地を感じた。
「それもあるけど、」
「うん。」
「プールにも入れないくらい、体の中が脆いからね。」
彼の言葉にドキッとした。言い方も、その言葉自体にも泰輝くんの何年ぶんもの苦悩が乗っかっていたような気がする。そうか、どれだけ体を鍛えたとしてもその内部は弱いまんまなのか。「虚勢張ってるみたいだけどね。」と彼は笑いながら言う。「虚勢なんかじゃないよ。」って私は少し泣きそうになりながら言った。泣き出したり、誰かに頼り切ったりしながら、自分の弱さを全面的に曝け出して同情を誘う人らが沢山いるんだから隠そうとする泰輝くんの方が数段強いと思った。だから彼の内部のことなんて私は気にせずに両腕で締め付けるようにハグをしきった。
その最中、中庭で一つの弁当をシェアする芳岡さんと江田くんを見た。どうせ芳岡さんが自分の弁当を江田くんに分けてあげてるんだろう。多分夏休みが始まるまでに一度は芳岡さんに呼び出されて、江田くんとよりを戻した話を自慢げにされると思う。なんの遠慮もなく人に支えてもらおうとする人は碌な人間じゃないんだ。それを受け入れる芳岡さんも、いつか自分の身を滅ぼしそう。すごく昔の文豪と愛人みたい。現代的に言えば単なる毒親予備軍。
昼休みが終わって五限の授業は黒田先生の国語のはずだったけど、チャイムが鳴ってすぐになぜか隣のクラスの体育教師がやってきて「とりあえず自習をしておくように」とだけ伝えて去っていった。早くも黒田先生はこの教室から逃げ出した、生徒の誰よりも真っ先に逃亡した。生徒に授業をするという当たり前の労働をこなす気力すらも失われたと言うのか。
体育教師が出て行って十数秒間はエアコンの作動音だけがリフレインしていたが、そんな静寂も最も簡単に壊れて、歓喜の声が騒音となって轟く。「自習を勝ち取った」なんて再び勝ち誇るクラスメイトも、もちろん逃げ出した黒田先生もどちらも幼稚すぎて私は呆れ笑いをしてしまう。
そしてふと後ろを見たときに口角が上がった状態で笠岡くんと目があってしまった。さっきは「笑うな」と言ったくせに結局笑うのかと思われそうでやばいと感じた。
でも私の表情を見た笠岡くんは笑わずに窓の外を眺めた。これほど長い付き合いなのに上手く掴めない彼の表情は私の不安を煽る時がある。一体その目でどこを見ている、そして私をどう見ているのだろうか。掴めない、乾いた手のひらから滑り落ちる。
結局、帰りのホームルームも隣の体育教師が代理で帰りの挨拶だけをしにきた。自習なんて一ミリもしていなかったのに、この人が教室にやってくるとみんな良い子ぶる。黒田先生以外には挑発的なことなんて一切言わない。こんなもの弱いものいじめだと思った。でもクラスが乱れたそもそもの原因が教師にあったから、私たちはきっと怒られない。
下駄箱で靴を履き替え、校門へと、泰輝くんと二人で歩く。お互いの指先が何秒間かの間隔で触れ合うけど、繋ぎ合うには至らない。お昼には数分間のハグをしたと言うのに、やっぱり他人の目はまるで監視カメラのように行動の自由を制限する。
「明日から、黒田先生はどうなるんだろうね。」
私は朝のホームルームで泣くのを堪えながら教室を出る先生の表情を思い出しながら聞いた。
「何事もなかったかのように朝居たりして。」
「あの人だったらそれもありそう。」
結局、前回泣いたその翌日はいつもと変わらぬ様子で教壇に立っていたことを思い出した。
「ねえ、夏休みになったら何する?」
泰輝くんは私にそう質問する。
「何でもいいよ。夜の学校のプールに侵入でもしちゃう?」
「うわぁ、やりたい。」
安部先生の件のお詫びとして、一度だけそんなことが許される権利を私たち全員にくれたって良いのに。
「泰輝くんは何したい?」
「とにかく遠くへ行きたい。」
私も確かに、居心地の悪い教室から逃避して、どこかへ行ってしまいたい気分だ。狭くて閉鎖的で同調圧力があって不安定、なおかつ今はクラスメイトが攻撃的。彼がいなかったら少なくとも数日は学校を休む日があったと思う。私は支えられている、でもきっと彼を支えているという自信もある。
手を繋がないまんまで校門を出て、最寄り駅までの道を歩くと少し前に見慣れた後ろ姿を発見した。心に亀裂が生じて、それを仮止めさせているだけみたいな相野さんが一人で歩いていた。私はそれを無意識にも避けようとしたけれど、相野さんは僅かな風に体を流されるように後ろを振り返る。彼女は私を見て咳をした。きっと私に言いたいことが多すぎてそれが詰まって苦しくなったんだと思う。
「今日笠岡くんは?いないの?」
私の近くへ詰め寄ってそうやって聞いてくる。ギターが無いからさぞかし不安なんだろう。
「別にいないよ。」
「本当に付き合ってはいないんだね。」
ああ、言われてしまった。泰輝くんの目の前でその言葉を言われてしまった。
「だから言ってんじゃん。笠岡くんに恋人なんかいないって。」
私は苛立ち、相野さんの心の真ん中目掛けて言葉を投げつけた。それが直撃といかずとも掠めた音がした。
そして泰輝くんが今日初めて手を握って、私を引っ張っていく。彼が私と相野さんを引き離してくれなかったら、あの場所で彼女の心を壊してしまうところだった。
だけど案の定、泰輝くんは私に問い詰めた。
「どう言うことか教えて、、笠岡の彼女だと勘違いされてるの?」
「違うの、あのね。あいつが笠岡くんの彼女だと勘違いしてたの。自分をね。」
「え、どう言うこと?」
「相野さんは私のこと嫉妬してるの。だからわざわざ泰輝くんがいる前であんなことを言ったんだと思う。」
泰輝くんは多分、私の言ったことに納得してはいなかったと思う、私の手を握る力があまりにも強く、束縛にも似た痛みを感じてしまったから。
「でも、嫉妬されるほどスズと笠岡の距離感が近かったってことだよね。」
「そんなことないよ、幼馴染として、単なる友達としてだよ。」
「そんなの信じられないけど。」
「泰輝くん、私の手握りすぎ。ちょっと痛い。」
「分かって握ってる。」
もしも今回の登場人物が笠岡くんではなくて他のクラスメイトだったら、泰輝くんはこんなにも悲しそうな表情をしなかったと思う。どうして私が痛いと言っているのに、手を開いてくれないんだろうか。どうして笠岡くんという人間自体にこれほどの嫌悪感を抱いているんだろうか、どうして昔はそんな二人が友達だったんだろうか。
「大切な幼馴染なのに、泰輝くんと付き合いながら笠岡くんともなんて、、そんなことするわけないじゃん。」
「離れないでほしい。笠岡の彼女には死んでもならないでね。」
「分かってるよ、うん。そんなこと。」
彼の揺れる瞳にそう誓うとようやく手を離してくれた。手のひらにジワーっと血液が流れ込んでいく感覚がした。彼女に「死んでも」なんて言うべきではない。昔はそんな過激な言葉を使う素振りすら見せなかったのに。彼まで攻撃的になってしまったと言うことなのか。
相野さんは故意犯。笠岡くんに本当のことを打ち明けられて、傷心して、私に八つ当たりをしてきた。私が笠岡くんと付き合ってないってことを知った上で、泰輝くんとの関係性に傷をつけるために、わざわざあんなことを言ってきた。相野さんが可哀想なんて同情した私は単なるアホだったし、それでいて被害者だろう。相野さんはすごく純粋な人だと思っていた。でも私が思う以上に純粋すぎたんだと今では思う。だから笠岡くんが言うお世辞とか冗談と、本当の言葉との区別もつかずに、ギターだけじゃなく神経で繋がっているという勘違いを犯した。芳岡さんよりももっと上空を、ふわふわと舞い上がって生きていた相野さんは地面を歩く苦痛を今更になって知るんだろう。
もうこれ以上、私の近くで悲しみを昇化させるのはやめてほしい。一人で気が済むまで悲しんで、それでも諦めないんならギターを持たない笠岡くんの隣に行けばいい。誰か相野さんが成れの果てに行き着いてしまう前に強引にでも止めてくれる人はいないのか。相野さんと仲がいい人、友達、、私の中にはたった一人山田さんだけが思い浮かぶ。
相野さんが私の方を向いた瞬間から、泰輝くんに対して抱く必要のない緊張感が生まれて、結局別れるまで消えてはくれなかった。どうしてにわか雨のように、私たちの些細な幸福感を奪われなくてはいけないのだろうか。
私は夕陽が差し込む電車の端っこの席で、笠岡くんにラインを送ってしまう。
「お願い、また相野さんをセッションに誘って。」
送った後で、私は自分をエゴイストだと感じる。笠岡くんだってアイツに勝手に愛された被害者なんだし、恋愛感情がないと打ち明けた上でもう一度誘うと言うのも気が進む話じゃないだろう。だけど、もう一度相野さんに勘違いをさせて、そしてもう一度上空を舞い上がらせたら、私のことなんて一切気にしなくなるはずだ。それが私と泰輝くんにとっては最も都合がいい。でもそれは扱いづらい相野さんという存在を笠岡くんに押し付けることになる。やっぱりどうしても仕方ない、相野さんには勝手に泣かれる方が数段マシだった。まさか私に泣く以外の方法で感情をぶつけてくるとは思わなかったからだ。
次の日も朝っぱらから黒田先生は不在だった。かわりに体育教師がまたやってきて「黒田先生はちょっと体調不良でお休みです。」と誤魔化した。体育教師が今朝どんな理由をつけようか一生懸命考えたんだなと想像すると、滑稽で笑ってしまう。猥褻行為で消え去った安部先生、弁明を拒んで逃避した黒田先生、幼稚な言い訳で誤魔化す体育教師。一体誰が私たちと真正面に向き合って言葉を交わしてくれるのだろうか。
今日はカーテン横の隙間にギターは立てかけられていなかった。流石に昨日の今日で誘ってもらうのは無理があったかと反省する。だけど、明日明後日、明明後日、あそこに二つのギターが立てかけられることを願って、私は教室に入ることだろう。
あと教室の後ろに置かれてた紙が溢れた意見箱もいつの間にか撤去されていた。芳岡さんか、はたまた先生が撤去したのかは分からないけれど、あんなもんただ散らかって醜かったので無くなって良かったと思う。
昼休みになると今日は芳岡さんが私を呼んで、期間限定で開放されている屋上に行こうと言われた。日陰のない炎天下の下、きっと江田くんと復縁した自慢話を長々と聞かされるんだろうと思うと、階段を登っていく芳岡さんの背中にひどくうんざりとした。鉄製の重い扉が開くと急激な眩しさに襲われ、右手で視界を隠す。最近では特に夏らしい1日だった。二人で屋上に出て、芳岡さんはこちらを振り返ったが、逆光でうまく表情を認識できなかった。でもどうせ笑ってんだろうと思い目を背けた。芳岡さんが私の名前を呼ぶ。仕方なく見ると、私の前に立つ彼女はなにやら後ろめたい気持ちを隠せないような顔をしていた。だから「どうしたの?」と私は聞いた。
「安部先生が生徒に手を出したって話知ってるでしょう?」
「うん。なんとなく。」
私たちはわずかに作り出された日陰へと移動して会話を続ける。
「相野さんが、、安部先生と関係を持った生徒を、、山内さんにしようとしている。」
「は?」
あまりに突拍子のないことを言われて、何かを吐き出しそうなほど驚いた。もちろん安部先生など教師に対する感情以外何も抱いたことないし、心当たりというものが無さすぎて気色が悪い。
「でも私は山内さんがそんなことしてないって知ってる。本当は誰なのかも分かってるから。」
「誰なのそれは、、」
「山田さん。同じクラスの。」
山田、ヤマダ、やまだ。脳内で顔がぼやけてしまうくらい、私は彼女に対して友達という認識すらなかった。山田さんの友達と言えばそれこそ相野さん以外思い当たらない。
「相野はどういうつもりなの?どうして私?私が何をしたの?」
「一度私が全て説明するから聞いてほしい。」
私を諭すような言い方をされて目の前の人間にすら苛立った。
「相野さんは山田さんと安部先生がハグしている写真をなんらかの方法で入手した。そしてそれを校長先生やら学校の上部の人間たちに送り付けたの。でも後になって親友の秘密を晒してしまったことに罪悪感を感じて、今山内さんをハグの相手にすり替えようとしている。」
「どうして私なの?」
「それは、、私にも分からない。」
再び笠岡くんの件の腹いせか。ただそれにしても理不尽がすぎる。自分が行ったことに勝手に罪悪感を感じて、無関係の私を犠牲にしようとは。こんなもの、どれほど感情が煮詰まって悪い方向に働いてしまったとしても、普通なら倫理観がブレーキをかけるはずだ。どうして私、、教師と抱き合う極めて低俗な人間としてクラスメイトの認識を変換されなくてはいけないのだろうか。
「どうして私はそんなに相野に恨まれてるの?」
「いや、それは分からない。」
「第一、芳岡さんはどうして二人の事をそんなに詳細に知れてるわけ?」
「学級委員だから、、みんなの事を見てるから。」
「あなたはそんな優秀な学級委員じゃないよ?悪いけど。」
八つ当たりだと思われてもそれは仕方ないと思った。ただ既に身体の全てが怒りと疑問の感情で覆い尽くされてキャパオーバーになって、口から漏れ出すのは不可避だった。
「あなたがクラスメイトのそんな細かな動きを知れるはずないでしょ。あんなに視野が狭くて鈍感で、責任感もないんだから。」
「でも、山内さんは私に学級委員やった方がいいって、、言ってくれたじゃん。」
「どうせ辞める勇気すらもないんでしょ。一ミリも向いてないけど辞めないんでしょ。」
「そんな、、そんな事、、ないのに。」
芳岡さんは涙を浮かべる。芳岡さんの体内では私の前で二度目の涙を流す準備を進めている。あれだけ人が泣くところを見たくなかったはずなのに、私の感情は全く収まってくれない。もう嫌だ。くしゃみや咳の何百倍も止めることができない生理現象のように芳岡さんへの言葉が止まらない。
「結局自分のことしか見てないよ。江田くんの話を私にしている時、私がつまらなそうな顔をしてたのなんて気づいてないでしょ。江田くんを散々鈍感だっていうけど、自分が一番鈍感なの。」
「あ、訂正しておくね。芳岡さんの世界では自分自身と江田くんだけが写ってるんだったね。二人が別れたって聞いた時またどうせすぐ復縁するんだろうなって思ってた。そしたら本当にその通りになって、あまりにも滑稽だったね。」
「これからもずっと、あなたは江田くんでしか自分の心を埋め合わせれないんだから、私の大切な親友を殴った人とずっと一緒に居ればいいよね。」
芳岡さんは蹲って泣き始めた。私のせいで泣いた。でも泣きたい気持ちは私も同じだ。クラスメイトと同時に私自身もひどく攻撃的になっていることがこの瞬間、確信的なものとなり虚しくなった。自らの溢れ出した感情で目の前の小さくしゃがみ込んだクラスメイトを傷つけてしまった事実を冷静に見つめる瞬間が訪れて、反省すると同時に泣き尽くした後のような空っぽの心が私の真ん中に埋め込まれていた。
「ねえ、、、私。山内さんと仲良くなれて嬉しかったのに、、」
芳岡さんはなお泣きながら、そうやって言う。
「じゃあ、先生とハグをしたとでっちあげられる私のこと、助けてくれる?」
「もちろん、助けてあげたいけど、、私にはもう無理かも。」
「そっか、じゃあもういいや。」
芳岡さんは今すぐにでも江田くんの体に飛びつきたくて仕方ないんだろう。逃げたくて、もうこの場所から離れたくて。
結局、私のことを助けてはくれないのならば、芳岡さんになんらかの罪の意識があることは確実であるはずだ。山田さんと相野のやりとりを間近で傍観していたか、もしくはそのやりとりに加担してしまったのか、そのどちらかであると思う。
芳岡さんは数回私に謝った後に、屋上から出て行き、たった一人残された。一人になるとこれから起こりうる私自身の不幸を予測してしまう。私はこれからあの閉鎖的な教室で低俗な人間へと書き換えられてしまう予定だ。それを必死に否定して、本当は山田さんであること、そして本当の悪が相野であることを主張したとして、どれだけの人が私を信頼してくれるだろうか。少なくとも芳岡さんは私の無罪を全力で訴えなくてはいけない。もしそれすらもしなかったら恐らく芳岡さんを殴ってしまうだろう。私は最初からこんな人だったのかなとふと考える。
教室に戻るとそこは、先ほどとは全く別の空間であるかのように感じた。山田さんも、相野も私の目に映る後ろ姿は変わらないけれど、嵐の前の静けさみたいだった。もしも芳岡さんの言う通りになったら、それこそ泰輝くんとの関係性は破綻してしまうかも知れない。せっかく手に入れた小さな幸せたちが潰されてしまうにはあまりにも早すぎる。
そうやってただ部外者のように自分のクラスを眺めていると、誰かが私の肩をそっと叩く。振り返ると笠岡くんが立っていた。
「ねえ、あの、明後日また前回と同じ所でライブするんだけど、よかったら来てくれない?」
「え、絶対行く。」
忘れかけてた、私の唯一無二の心の支えがアイラだったことを。今の私にとってそれは誇張なしに自分自身を救済してくれる象徴だった。
「前回も私相当感激したからさ、今回も楽しみ。」
「いいよ、十分期待して。」
彼が鼻先を撫でるように掻く。その細く伸びる指先にアイラを感じた。
「あ、そうだ。ねえ。」
私がそれに見惚れていたら、笠岡くんは頭を触りながら私に顔を近づける。
「相野さんも呼んだ方がいいのかな?」
「相野。。」
昨日はもう一度セッションに誘ってほしいとお願いのメッセージを笠岡くんに送ったし、前回のライブの時は絶対に誘ってあげるべきだと思ったけれど、もうそんなものは前言撤回だ。
「呼ばなくていいよ。絶対に。」
「そっか、分かった。」
私は一度廊下に出て、前に笠岡くんと相野さんが放送室へ向かっていった方向を見つめた。勘違い、愛情、嫉妬、そのどれもが恐ろしい。
「どうしたの?」と笠岡くんは私の背中に問いかける。彼になら言ってもいい。彼なら私を助けてくれるという事がその抱き寄せるような声から感じ取れて心が温かくなった。
「ちょっと相談に乗ってもらってもいい?」
「僕でよければいつでも。」
「ありがとう。」
それから二人で教室から離れて、芳岡さんから先ほど聞いた例の話を打ち明けた。私はものすごく感情ベースな話し方をしてしまって、簡潔に伝えることができなかったけど彼は私の言葉を丁寧に受け取って理解をしてくれた。
「山内は相野さんから恨まれてるとか、そんな自覚はあったりするの?」
「いや、全く。強いて言えば私と笠岡くんが仲良いことに嫉妬しているのかも知れない。付き合ってるの?って聞いてきたこともあったし。まあ要は山田さんという親友も失って笠岡くんという恋人も失ったっていう二重の喪失感で私に八つ当たりしてるのかなとも思うよ。笠岡くんとは最初から恋人ですらなかったけどさ。」
「嫉妬と八つ当たりね。」
「そう。でも相野さんって元からそんな人なの?そんな無関係の人を陥れようとする人なの?」
「それは違うと思う。少なくとも僕にとっては天使みたいな人だった。」
天使、あれが天使?じゃあ今は堕天使?彼の中でそんなにも相野を過大評価していたんんて驚くと同時にショックでもあった。
「でもその天使が今では私を苦しめようとしているんだよ。」
「じゃあそんな人にしてしまったのは、、間違いなく僕のせいだ。」
笠岡くんは何故か、自分自身を責め立てた。違うでしょう、勝手に愛された被害者なんだから笠岡くんのせいであんな人間になったとかそんな筈ない。
「そんなことは、、ないでしょ。相野さんが勝手に笠岡くんと付き合ってるって勘違いして、そして笠岡くんは本当の気持ちを伝えただけじゃん。」
「ううん、違う。わざと勘違いさせた。」
「どういうこと?」
彼の表情は深刻そうな何かを含んでいた。
「私に教えて。相野さんとのことを。」
「うん。分かった。」
笠岡くんの曇る表情を見ていると、彼がなんらかの倫理上の罪を犯したのではないかと不安になり、同時にそれができるだけ些細なものであることを願った。
「最初から相野さんが僕のことが好きなのは知っていたし、その愛情が重いのも分かってた。だからこそなんか、僕を救ってくれそうだなって思って。そんで丁度その時僕は安部先生に猛烈な恨みがあって。」
「どんな恨み?」
「僕が江田に殴られた時に、先生がそれを見て見ぬふりしたの。」
そうか、だからいつか安部先生が居なくなることを前から分かっていたような言い方をしたのかと納得した。
「相野さんがあまりにも僕にのめり込んでくるから、もしかしたら僕の為に自分を犠牲にしてでも安部先生の不幸を実現してくれるんじゃないかって思って。そこから相野さんだけを信頼しているふりをして、安部先生を恨んでいる話もしてね。でも本当に付き合うには重すぎると思ったから、わざと相野さんとの繋がりはギターだけにして。」
「そうだったんだ。」
「そしたら、相野さんが僕に安部先生を懲らしめる方法が分かった。先生は生徒に手を出してるんだって言ってきて、んで後日、本当に居なくなってさ。」
「安部先生は誰に手を出したの?って聞いたら、誰かは分からないから気にしないでって。まさかそれが山田さんだったとは思いもしなかった。」
そして私は笠岡くんが弱っていく黒田先生を見て笑っていた理由も理解した。
「結局僕たちはギターでしか繋がっていなかったから、関係を無くすのも楽で。偉そうだけど、もう相野さんは用済みに感じて。本当に何様だって話だよね、あんなに天使みたいに優しい人だったのに、次第にセッションなんてどうでも良くなって安部先生を不幸にするための地雷くらいにしか思っていなかった。」
「だけど、それは相野さんが自ら望んでやったことでしょう。」
「でもこんな扱いをされるために相野さんは誰よりも純粋だった訳じゃない。」
私の心はぐらぐらと揺れ動く。そもそも純粋悪だと思った人が実はそうではなかったと分かった時、私自身を否定されたような気持ちになる。そして芳岡さんにとっては私も純粋悪になりうると思った。
笠岡くんがこんなにも心を全開にして、私に何かを伝えてくれたのは初めてだったと思う。その言葉の通り、相野が私に害を及ぼす存在になった原因は確かに彼にもあるのかも知れない。でも笠岡くんのことを嫌いになるなんてそんなことは微塵も感じなかった。
「僕は絶対に山内の味方でいる。でも仮に相野さんがどれほど君に酷いことをしようとも、僕は相野さんを嫌いにはなれないかもしれない。」
「私の味方なら、まあそれでもいいよ。」
私は昼休みという一時間にも満たない時間で随分と精神をかき混ぜられました。このクラスに自分の身を置くことで、これからどんな気持ちになるのか、ならねばならぬのか。仮に明日から学校を休んで逃げる選択をしたら、私の知らぬ間に最悪な空間が出来上がりかねない。だからこそ私は夏休みまであと三日間ここに居て、相野の暴走を止めなくてはいけない。
「山内はでっち上げられるんだね。身勝手な感情で。」
笠岡くんは私をまっすぐ見た。そうだ、まさに身勝手だ。
「そうだよ。」
「僕と全く同じだね。」
彼はそう言って私を憂うような表情を見せる。そして私の手には一枚の紙が乗せられた。その紙には明後日の日付が書いてある。
「え?これは?」
「明後日のライブのチケット。山内だけは無料で来てほしい。」
「そんな、悪いよ。」
ただでさえ前回笠岡くんの赤字だったというのに、申し訳なくてその場で財布を開いてお金を渡そうとした。
「大丈夫、これはお詫び。」
「お詫び?」
お詫びと聞いて、これを受け取れば彼の罪悪感が少しでも薄まるならそれでもいいと思い、「ありがとう」と言ってチケットを受け取った。
「もちろん私はね、笠岡くんのこと恨んでるとかそんなこと一切思ってないよ?だけど、もしも最大限のお詫びがあるとしたら、笠岡くんと泰輝くんと私で昔みたく一緒に笑えるようにすることだと思うよ。」
「ああ、確かにそうだね。」
笠岡くんは私がまるで冗談を言ったかのように、少し笑いながら答えた。彼にとって泰輝くんとの関係を修復することは冗談と感じるほどにあり得ないことなのだろうか。
昼休みが終了するチャイムが鳴り、私と笠岡くんは教室へと歩いた。私を憎む相野が居て、私が泣かせた芳岡さんが居て、嫉妬する泰輝くんが居て、先生と抱き合った山田さんが居て。そして自分までも攻撃的になり。単体で対峙すれば、悪い人でもない人らが重なり合い作用してこんなにも居心地の悪いクラスになってしまった蓋然性は極めて低いものだったと思う。でも私だけが苦しんでいるのではないと思う。私がこのクラスの主人公ではないし、笠岡くんだってここには居づらいはずだ。
「僕と全く同じだね。」
彼の言葉を時間差で、私は反芻する。私と彼のどう言ったところが同じなのか、お互い苦しんでいるという部分が同じだと、ただそれだけのことなんだろうか。もっとはっきりと言ってほしいと笠岡くんの背中を見て思った。
今日も泰輝くんと下校した。そして私はあえて彼と手を繋いでおいた。彼は私の積極性に驚きながらも嬉しそうにしていた。
「私のことずっと好きでいてね。」と私は言う。彼は「え?」と戸惑い笑う。もしも泰輝くんが明日以降の私に対して疑いもせず、嫉妬もせず誰よりも寄り添ってくれたら、私はもうずっと彼に触れながら生きていたいと思うはずだ。それほどに不安で、今は支えてくれる人を望んでいる。先生はきっと支えてくれない、笠岡くんにもまあ事情がある。親にもこんな相談をしたくない。だったらもう、暖かなこの手の泰輝くんしかいないと思う。
泰輝くん、お願いだからもうこれ以上嫉妬しないで。何も疑わないで。
次の日、教室の扉は嘘みたいに重かった。いや扉を引く私の力があまりにも弱かった。でもそれは仕方のないことだ、この部屋の内部で私はどんな人間に仕上げられているのかも分からないのだから。
教室に入り、自分の席へと座る。これは被害妄想ではなくいつもなら感じない余計な視線を浴びていると思った。そしてそれは言わずもがな良くないもの。だから、芳岡さんが昨日私に言ってきたことがやはり事実だと分かった。私は心を閉じて視覚と聴覚を体から切り離そうとした。でも、そう上手くはいってくれない。私への視線は少数でも鋭利で痛い、そして避けることができない。倒れ込むようにして自分の席に座る。
一方相野は丁度私からエナジーを奪い取ったように、昨日よりも数倍しゃんとしている。怒りすらも湧かない、ただ虚しくなった。私にはあの人間に天使が潜在しているとはどうしても思えなくて苦しかった。
黒田先生は当然教室に帰ってはこない。夏休みまではあと三日。
今日の昼休みは誰とも話したくない気分だったので、教室を飛び出た。笠岡くんとも、泰輝くんとも話したくない。そして気にし出すとクラスメイトの視線も私の体に突き刺さる。一体何人の頭の中で私は低俗な女に生まれ変わってしまったのだろうか。
どこに行くでもなく廊下を進んで階段を下ろうとすると、私の数メートル先で山田さんが階段を下っていた。山田さんの背中は突き飛ばしたい、もしくは掃除ロッカーに収納された箒の竹柄の部分で何度も叩きたい、そんな憎いものだった。彼女の足はゆらゆらと揺れるように、不安定に階段を下っていく。実際にはもちろん見たことはないけれど死への願望がある人はこんな歩き方をするんだろうなとふと思った。
私は山田さんと同じく階段を下らざるを得なかった。彼女はそんな不安定な様子でどこにいくのか、それが気になって仕方なかったから。
彼女は幼稚で安っぽくて小さなキャラクターのバックを右手で軽く回しながら、一段一段と落ちるように下っていく。私は最悪バレてもいいと思いながら彼女の背中を追うと一階まで降りて下駄箱の方へ歩いて行った。最終的に山田さんは第二理科室の前で立ち止まった。その時私は心底気持ち悪いと思った。第二理科室は安部先生が授業で使っていた教室だ。死にたい人間のように階段を下り、行き着く先は今は誰も使っていない理科室。山田さんは第二理科室の扉を開こうとするが、当然鍵が掛かっていて開かない。なのに何度も何度も懲りずに引き戸を開けようとする。ようやく理科室には入れないことを悟ると彼女はキャラクターのバックを強く握り締めた。山田さんの後ろ姿を見て、私は彼女が無理心中で生き残ってしまった恋人の片割れのように見えた。安部先生は瞬時にこの学校から消え去ったが、山田さんは誰にも秘密を暴かれることなく、何事もなく生活できた。教師に本気で恋愛するような生徒は教師と一緒に自分自身も消え去っても良いと、馬鹿みたいだけどそれくらいの覚悟でいるんだと思う。
彼女はキャラクターバックをスカートのポケットに無理やりしまいこんで、再び両手で扉を開こうとした。そもそも開かない、しかも開いたとてそこに安部先生なんているはずがないのに。安部先生と一緒に消えることができなかった山田さんは無意味な行為を繰り返し、生き恥を晒している。私はこの人間の身代わりになると言うのがどれほど屈辱的なのかを理解した。
それを理解してしまった私は、思わず泣いてしまった。どうしてこれまで真面目に生きてきたのに、他人の感情でこんな人間の身代わりにならなくてはいけないのか。山田さんのまるで死に損ないみたいな後ろ姿を見ていると耐えきれなくなり頬を伝って流れ落ちた。涙腺が緩むと、それと同時にその他の感情を抑えていた栓が流れていき、ぐちゃぐちゃになってしまった結果私はもう平常心ではいられなかった。
私は右足の上履きを脱いで、片手でそれを強く掴む。そして扉を開けようと奮闘する山田さんの方へ上履きを投げつけた。
私の上履きは扉の不透明な小窓部分に当たってしまい、それほどの威力ではなかったが衝撃音が廊下に響き、投げた私自身が少し動揺してしまう。
「な、、なに、、、」
山田さんは両耳を塞いで、しゃがみ込みながら私の方を見る。私が床に落ちた上履きを拾う為に近づくと、彼女は自分の左胸に手を当てて鼓動を確認した。
「ああ、ごめんね。」
「どういうつもり?」
確かに彼女からすれば、ただひたすらに私の行動は意味不明なんだろうけど、私は傍観するだけじゃどうにも心が収まらなかった。
「安部先生、その中にいるわけないのに馬鹿じゃないの?」
「それどう言う意味?」
「とにかく私は知ってるの。山田さんが安部先生としたこと。」
彼女はただまっすぐに私のことを見つめる。私は思った、この人は安部先生との幸福な時間をずっと頭の真ん中に置いているのだろうと。彼女の瞳は愛で満ちていた。
「知ってるから、何を言いたいわけ?」
「もうクラスのみんなに、私が安部先生とハグしましたって言ってしまえば良いんじゃないの?」
彼女は大きなため息を吐き、瞳が揺れる。
「私もそうしたかったよ、でも安部先生がどうしても私のことは守りたかったみたいで。自分からはどうしても言えない。」
山田さんは木製の扉をさすりながらそう言う。
「安部先生のこと、大好きなんだね。居なくなった今でも。」
「それは違う。もう好きじゃない。」
「嘘だよそれは。」
「嘘じゃないよ、、もう嘘じゃない。」
開かないと分かりながら扉を、懲りもせず何度も開けようとする。そんな未練やら後悔やらが凝縮された山田さんの後ろ姿を私はじっと見ていたのだから、もう好きじゃないなんて言葉を信用するはずもなかった。
「じゃあ仮に。山田さんじゃなくて私が安部先生とハグをしたとみんなに伝わったとしたらどう思う?」
「は?」
山田さんは不審そうな顔をして首を傾げた。
「仮の話。私がハグをしたとみんなの認識がすり替わっていたらどう思うの?」
「そしたら許さないかも。」
「誰を?」
「山内さんを。」
山田さんは安部先生と多大な優越感を感じながらハグをした。そして彼女はそれを特権だと思った。今までの人生で最も幸せだと感じたのだろう、今では安部先生とハグをしたことが彼女自身のアイデンティティになってしまっている。その特権を私に横取りされるならば、私のことを許しはしないのだ。
「実際にそうなるかもしれないよ。クラスメイトはハグの相手が誰なのか知りたくて堪らないんだから。強引にでも私をハグの相手にして、そして楽しむのかもね。」
「そんなことになったら多分許さないよ。」
「じゃあ自分で言えばいいの。そんで安部先生みたいにどっかに行ってしまえばいい。」
山田さんは私よりも少し目線が低いが、その鋭い愛の目つきは少しだけ私をひよらせた。
「私にそんな、干渉しないで。」
彼女はポツリと口からこぼすようにそう言う。そして扉の小窓を見つめ、その先にある空間に思いを馳せていた。
「さっきから思ってたけど、なんで泣いてるの?」
私はそう、自分が泣いてしまったことを忘れかけていた。こうして山田さんに指摘されたことがものすごく恥ずかしくもあった。
「別に山田さんには関係ないでしょ。」
「うっざい。じゃあ私と安部先生のことも山内さんには全く関係ないよね。きもいよ、泣きながら私に上履きぶつけようとして。」
確かに山田さんは正論を言っている。彼女を責めたいのに、私は泣いている。それがもう悔しくて嫌だった。だから「黙れ、死に損ない」とただ音のない声でそう言うことしかできなかった。
「なんか言いたいことあるなら、はっきり言って。」
正直、山田さんに言いたいことは山のようにあるけれど今はそれを上手く投げれる状態ではなかったのでせめて、あのことだけは聞いておこうと思った。
「じゃあ一個だけ。」
「何?」
「山田さんは相野さんのこと、天使みたいな人だと思う?」
「天使?誰そんなこと言うの?」
「クラスの人がそう言ってた。」
山田さんは少し考える。少し前までは常に相野の隣にいたこの人はどう思うのだろうか。私は祈りながら彼女の返答を待った。
「天使ってそもそも褒め言葉じゃないと思うけどね。」
「どうして?」
「天使みたいって純粋無垢で誰にでも優しくする人なんだろうけど、でもそれって単純に常識がなくて、他人の本心も理解できない馬鹿なだけじゃない?それを神聖な言葉で誤魔化しているだけ。天使みたいって言ってる人が一番紗夜を下に見てるんじゃない?」
私は山田さんの言葉に納得してしまった。相野は笠岡くんの本心を見破ることができずに「大好き」などのお世辞も完璧に信じ込んで、最終的には親友との関係性も破綻した。誰よりも純粋であるかもしれないけれど、それは褒め言葉ではない。報われない天使が一番惨めだと思った。だから相野=天使。急にしっくりきた。笠岡くんもそう言う意味合いで天使という言葉で形容したのなら幸せだ。
「そっか、そうだよね。」
私は思わず笑みをこぼしてしまい、それに気づいて山田さんが私を睨む。
「なんで笑ってんの?」
「いや、解釈が面白いなって。あとあんなに仲よかった人のことをそんな悪く言えるのも面白い。」
山田さんも相野も、自分の恋愛を優先して感情がお互いに煮詰まって、友情関係は無くなり、恋人もなく、ただ二人の間に軋轢だけが残った。貪欲な人間の成れの果てのようで正直ダサいと思う。
「なんか恨んでるんだね。私のこと。安部先生好きだったの?」
「あ、全然。先生を好きになるとか普通考えないし。羨ましくもないよ別に。」
山田さんは息を吐く、そして背中を扉に密着させる。安部先生だけが居なくなってしまった、彼女は死に損ない。こうして過去の幸福な時間に執着すればするほど生き恥を晒すことになる。もう先生と一緒には消えることができない。
「楠木くんと一緒に溺れておけば良いのにね。」
彼女はそれだけ言い捨てて、その場から去っていった。私は遠くへ小さくなっていく後ろ姿を眺めた。すぐには山田さんの言った言葉の意味がわからなかった。泰輝くん、溺れる、一緒に。その言葉を理解した時、私は堪らなく悲しい気持ちになり彼の体を抱きしめたくなった。
「九月になっても、プールはやるんだよね。」
誰かが教室でそう話す。夏が過ぎて、涼しげな秋がやってきても、私たちは塩素の溶けた冷たい水の中に入らなくてはいけない。泰輝くんに関してはこれ以上水泳の日に学校を休むのなら、そもそも体育の成績が出るかどうかも怪しい気がするので、夏休みが終わったら渋々でもプールサイドのベンチに座っているのかもしれない。私はプールに参加できない泰輝くんのことを何も気にしてはいないけど、山田さんみたいな残酷なことをいうクラスメイトがいるから、彼にとってはただ座るだけでも相当、精神的に負担が大きいんだろうと思う。溺れておけば良いなんて、死に損ないの酷い言葉が私の耳にへばりつき、ああやっぱり上履きをぶつけておけば良かったと一瞬、思った。でもぶつけてしまったら、それはそれで人の身体に危害を加えたという意味で江田くんと同類の人間に格落ちしてしまうのであれで良かったんだと自分に言い聞かせた。
結局私は全ての授業が終わってもクラスメイトといつも通りの会話をすることすらできなかった。誰があの噂を信じていて、誰が信じていないのか。誰を信用するべきで誰を信用しないべきなのか。私が今までなんとなく築いていた人間関係がすべてリセットされてしまったような気がした。泰輝くんとも今日は話せていないから、すぐにでも話して私を信用してくれる人間だという証明がほしい。
今日も体育教師が帰りの挨拶のためだけに私たちのクラスにやってきてさっさとホームルームを終わらせる。みんなが教室から散っていく中で、私は対角線上に座る泰輝くんへ「一緒に帰ろう」というアイコンタクトをとった。すると彼は笑って両手で大きな丸を作った。その分かりやすさがとても可愛くて愛おしかった。
私は彼の元へ抱かれに行くような気分で歩いた、今日は無駄に疲労が溜まったんだから。
「ねえね、山内さん。」
しかし泰輝くんの元へ辿り着く前に誰かが私に声を掛ける。
「何?」
「みんなにさあ、謝っておかなくていいの?」
その声の主は私があまり得意としない同性のクラスメイトだった。
「どうして私が謝るの?」
「だって、黒田先生がいなくなったのも、元を辿れば山内さんのせいになるってことでしょ。」
黒田先生が教室から逃げ出した責任を私が取れという意味なのか。そんなことをよく言えたもんだと思った。このクラスメイトは黒田先生が逃げ出した日の朝のホームルームで「先生も生徒とハグをしておかなくて良いんですか。」と言った。思い返せば笠岡くんと江田くんの件でも煽るような余計な発言ばかりしていた。誰かを攻撃することに生きがいを見出す、しょうもない人間だと思う。
「ああそのことだけど、私の噂は全部嘘だよ。」
「いやぁ、それは無理あるよ。」
その人はニヤッと笑いながら私を逃すまいという顔をする。また楽しめる人間を見つけたと思っているんだろう。きっとこの人の日常はとてつもなく退屈でつまらないものだ。だからこそ人を攻撃することが快感になる、非日常になる。この人は退屈な日常から他者への攻撃という方法で逃避する。
「私は別に、教師じゃなくてクラスメイトを好きになれるから。正常だから。」
「ん?何言いたいのかよく分かんないけど。」
冷静に考えれば、教師に本気で好意を抱く人間は異常だ。性的嗜好で犯罪を犯す人間と同じくらいの異常性があると思う。私はそんな突飛な恋愛をしなくても幸福感を得ることができるから正常。でも私の目の前で首を傾げる頭の弱いクラスメイトには少し小難しい言い回しだったかと思う。
「とにかく私は何にも関係ないって話。」
どうせ最初からこの人は私を攻撃することしか興味がないのだから、もう良いやと思い、泰輝くんの方を見つめ直す。彼はただ真っ直ぐと私のことを見ていた。怖いけれど、もしかしたら怒るかもしれないけれど、それでも近づく他に道はないので、倒れ込むように、彼の体に接近する。
私は泰輝くんのワイシャツの袖口をピッと掴んで、「帰ろう」と呟いた。彼は私のことを蔑んだような目で見る例のクラスメイトの方ばかりを見て、私の声には反応してくれない。私の手は袖口からするりと、滑り落ちるようにして彼の手を掴む。お願いだから握り返して、私を信頼してほしいと、彼の温かい体温を感じながら願った。
「離さないよね?」
「え?」
彼はクラスメイトの方を見たまんまで、そう言った。彼の言葉を解釈しようと頭の中で反芻しているうちに私の手が強く握られた確かな感覚がした。そのまま彼は私の手を引っ張って廊下へ連れ出す。背後からあの人の「ああ逃げた。」という声が聞こえたけれど気にもせず彼の手を離さぬよう、両手で掴んだ。
教室を離れて、階段の近くまで行くと彼は立ち止まった。踊り場の窓から鋭利な夕陽が差し込み、泰輝くんの表情そのものはよく見えなかったけれど、優しい雰囲気が体全体から感じ取れた。
「今度からはもっと恋人らしくする?」
「うん。でもどうして?」
「そうしたら、スズが変な噂を広められる心配もないでしょう。」
時間差で確認できた彼の顔は朗らかだった。私はとてつもなく幸せな気分になり心に詰まった余計な屑も無くなり、軽くなった。
「本当に、、?ありがとう。」
「そうしようね。」
少しでも彼が私を信用してくれないんじゃないかとか、嫉妬するんじゃないかとか不安を抱いていた自分自身を猛省した。そうだ、彼はこんなにも温かいからもう一生一緒にいてもいいと思えるほどに好きだったんだと思い直した。
「でも、なんか初めてクラスメイトの前で手繋いだよね。」
「まあ確かに。初めて見られるのがあいつとかほんと嫌。」
彼は笑って階段を下り出す。泰輝くんは私の絶対的な味方だと分かったので、相野にでっちあげられた自分の今の状況を全て伝えておいた。それはものすごくドキドキした。
「とにかく私は、安部先生とハグなんかしてないってこと。」
「俺も今日の朝にその噂を少し聞いて、まあ仮にそれが事実だったとしても嫌いになったりはしなかっただろうけどね、嘘だろうなって思った。」
「どうして?」
「だって相野、目の中も指先も震えっぱなしだったもん。不自然で。あんなのを信用する方がバカだなって思ってた。」
「そうなんだ。」
そんな醜い相野の嘘を最も簡単に見破る泰輝くんはなんだか誇らしい。それに引き換え、クラスの馬鹿は疑うことすらしない。質の悪いゴシップに心を躍らせる幸福に乏しい暇人。
「でも、すぐにでも事実をみんなに言った方がいいんじゃない?スズじゃない。本当は山田ですって。」
「そうしようと思ったの。でも山田さんは教師とハグしたことをみんなに知られたいんじゃないかと思って。クラスメイトが知ったら、優越感とか特別感に浸りそうな気がする。それも嫌なの。」
山田さんは理科室の前で確かに、最初はみんなに伝えたかったと言った。
「でも、優越感とか特権とかは自分の中に留めた時だけ生まれるもので、それがみんなに知れ渡ったら、山田は一人でただ虚しくなると思うよ。」
泰輝くんは私に訴えかけるように言う。
「まあそっか、別に羨ましいとは思わないもんね。」
「そうだよ、みんな軽蔑するよ。」
私は明日、もうはっきりと自分ではなくて山田さんであることを伝えようと決心した。そうすれば、私はあのクラスメイトに攻撃される対象から外れる。そしたら次は山田さんと相野が攻撃される。その次にはそのクラスメイト自身が攻撃されて仕舞えばいいと思う。
「相野さんのこともみんな軽蔑するかな。」
「僕はするよ。絶対に。」
泰輝くんは力強く言った、それが有り難かった。瞬間でも相野のことを思い浮かべると憎しみが湧いてくる私の心の痛みを和らげる鎮痛薬になる。
「ねえ、私が教師とハグをしたなんてことを平気ででっちあげる相野さんの気持ち、泰輝くんは少しでも理解できる?私には本当にわからない。」
穢れのない天使=常識知らずの馬鹿=相野。
「嫉妬病だと思う。」
彼は私の手を握り直してそう呟く。
「なあにそれ?」
「半永久的に嫉妬することから逃れられない。そんで自分が一番辛いと思い込む。自分のことしか考えられないから平気で人を傷つける。でも病気だから確かに自分も辛い。」
彼は何故か、自分のことのようにその嫉妬病とやらを説明する。その言葉全てが現実味を帯びていた。
「じゃあ、相野さんの気持ちも少し理解できるってこと?」
「いや、、それでも分かり得ない。」
私はそれを聞いて安心した、彼が相野の思考を理解して寄り添っているように思えたからだ。
「良かった。そうだよね。あんな人間が一番嫌い。だって私は何にも悪いことしてないんだよ?嫉妬病?なのか知らないけどさ、どうして一人で苦しめないのかね。」
「僕もそんな人間は嫌い。」
「まあ、嫉妬する人はその対象者には絶対に勝てないよね。だって負けを認めているから嫉妬してるんだよ。」
「ああ、私あんな種類の人間に初めて会った。身勝手な感情で他人を苦しめてるカスみたい。」
「でも、優しい泰輝くんが居てくれて本当によかった。相野と真反対だよ本当にさ。ありがとう。」
「ああ、相野殴りたい。」
私は信用しきった彼に、溢れ出る言葉をそのまま全て渡した。彼ならばその全てを受け取って、私に寄り添ってくれて、さらに気持ちを軽くしてくれるだろうという絶大な安心感があったからだ。
「そう思うでしょ?泰輝くんも。」
私は感情が染み込んだ言葉を渡せてすごく爽快な気分になった。そして同時に「私はこんなにも苦しんでいるんだ。だから今以上に私を愛おしく扱ってほしい。」という一種の訴えというか、愛情表現だと思った。彼が味方でないと、私はもう正常では居られないのだ。彼の横顔を眺めて返答を待つ。間違いなく「そう思う」と笑って答えてくれるだろうと確信しながら私はフッと微笑んだ。
しかし彼の瞳は不安定に揺れ動き、潤んでいった。こぼれ落ちるまでは至らないが、確かに涙がそこに溜まっていることが分かった。
「悲しくなるから、もう別の話しよう。」
そして彼はそう言った。彼がこれほどにも悲しそうな顔をしていたことにまず私は驚いた。でも彼は私に同情して自分のことのように私の気持ちを労ってくれて、その結果泣きそうになるほど悲しみを共有してくれているんだと気づいた。それがものすごく嬉しかった。私と彼の心が結合して、彼が入り込んでくれたこと、感情移入してくれたことが幸せだった。
「そうだね、うん。そうだね。」
何故だか私も彼の優しさに触れて再び泣きそうになってしまった。でも山田さんの時とは比べ物にならないほど良質なもので、無理に止めなくてもいいと思った。
「なんか本当悲しい。スズも泣きそうな顔してるもん。」
涙は無味無臭なので、それにどんな意味が乗っかっているのかは伝わりやしない。
「いや違うの。これは泰輝くんが優しいから。嬉し涙。」
「ああ、そっちか。なら良かったよ。」
泰輝くんことが好きです。一緒に瞳を潤ませた時間、私たちは現実からの逃避を成功させました。幸福感以外の気持ちは無く、空中を飛んでいるようでありながら、向かい風もなく。よくない現実から逃避することにこれほどの快感があるとは思いもしませんでした。だからこそ、いい歳した大人ですらも簡単に逃げ出すのだと、その時気がつきました。
私たちはそのように感傷的になりながら下駄箱の方まで歩いて行った。夕方だが外はまだ昼間のように明るく、セミも騒がしく鳴いている。ずっと握った手は離せば痛みを伴いそうなほど、自然につながりあっている感覚だった。
私が上履きを脱いで履き替えようといた時、彼はそれをまじまじと眺めて
「前から思っていたけどさ、その富士山の絵かわいいよね。」
と言った。
「いやこれ富士山じゃないよ。プリンだよ。」
私は上履きに描かれたその小さな絵を彼の近くで見せながら訂正した。
「え、プリンなの?ずっとなんで富士山なんて書いてるんだろうって思ってた。」
「違うよ、私といえばプリンでしょう。」
「うん。まあでもスズってもうちょっと絵上手くなかった?」
「それね、これはちょっと調子悪かった。」
私は彼のために嘘をついた。確かに私ならばもっと上手に描けたかもしれない。私は笠岡くんの上履きにギターの絵を描いた、そして笠岡くんが私の上履きにプリンの絵を描いた。描き合いをしたのは、泰輝くんと付き合う前。暇つぶしとして描いてもらった、大した意味もないこの絵を泰輝くんに見られると今では後ろめたい気持ちになる。
履き替えた上履きを下駄箱に戻すとその奥に何かが詰まっているのが分かった。何かと思って一度上履きをどかしてみると折られた紙切れが数枚入っていた。それを開くと私を侮辱する幼稚な言葉が殴り書きされていた。誰が書いたのか、それはもうあの人だろうと思うのでどうだっていい。ただこれ以上泰輝くんに悲しみを押し付けるのは嫌なので私はそれをぐしゃぐしゃに丸めてポケットに全て押し込んだ。
外へ出る重い扉を開けると、真昼のような暑さを感じて数歩目で汗が出る。そして丁度自転車置き場の方から相当なスピードで一台の自転車が校門の方へ向かっていた。私たちの目の前を通過したその自転車には江田くんと芳岡さんが二人乗りしていた。自転車の荷台部分に座る芳岡さんは江田くんの体に抱きついて、頬まで密着させている。あんなにくっついたら絶対漕ぎにくいし、そのうちバランスを崩すだろう。
「あの二人、どんどん恥晒しになっていってない?」
私は二人に感じた気色の悪さを彼に伝えた。
「もうクラスメイトにどう思われるとか捨てたんだよ。」
「どんどん浮いていくよね。」
「いやむしろ堕ちるところまで堕ちてく。」
確かに浮遊というのは素敵に言い過ぎたと思った。二人は徐々に落ちぶれていく。もはや芳岡さんに学級委員の資格も、江田くんにクラスの中心である資格も無い。でもそれを開き直り出して、二人の世界に入り込むのなら、あまりにも醜い。
「君さえいればいいとかさ漫画とかでよく言うけど、絶対にいいわけないよね。あの二人見てたら分かる。」
泰輝くんは嘲笑しながらそう言う。
「確かにね、恋人以外にも本気で信用できる人が一人はいないとああやって周りが見えない痛いカップルになるね。」
そう、あの二人は痛い。教室を二人だけの空間だと勘違いしながら毎日過ごしている。芳岡さんは屋上で泣いた日から、なにかしらのリミッターが外れてしまったようで鈍感さに拍車がかかり、今日もほんの数センチまで江田くんと顔を近づけて、頬を触り合う。お手本のような現実逃避。冷ややかな視線を感じることなく逃げていく。逃避することはやっぱり見栄えのいいものではない。
「スズ、明日の放課後はなんか予定あるの?」
「えー、どうしてー?」
「暇ならカラオケとか行かない?」
「行きたいけどごめん。明日家族で外食するのよ。」
私はただの痛いカップルになって堕ちていかない為に、笠岡くんという存在を大切にします。
「ええ、残念。まあ夏休みになったらでもいいか。」
「うん。もうすぐだもんね。」
夏休みになって、教室から解放されて泰輝くんとだけ時間を共有していたら、ついあの人らみたいに痛すぎる関係になってしまうかもしれない。それはものすごく恥ずかしいこと。だから冷静に私たちの関係を見ていてくれる笠岡くんが必要だ。みっともない愛ならば、それを他人にまっすぐ指摘される方がいいと思う。笠岡くんは優しいから、それを包み隠すかもしれないけれど、とにかく恋人だけに感情を預けるのは没落の予感がして嫌なのです。
そして暑さから首筋を流れる汗を感じながら、私は思った。少なくとも芳岡さんにとって私は信用できる存在だったのだと。芳岡さんは度々私に江田くんとの惚気話をしてきた。私はそれにうんざりして聞き流していた。私に恋心を打ち明けていた内は彼女はそれほど江田くんに没入しなかった。でも私の前で泣いて、そうして惚気話をできる相手が居なくなった途端に、没入していった。仮に私が聞き流すのではなくて正直に「みっともない」と彼女に言えたなら、二人は今よりも数段マシな恋人だったのではないかとも思う。芳岡さんにとって私と言う存在は、私にとっての笠岡くんだった。そう考えるとあの二人がどうも他人事のように思えなくなってしまって苦しい。
泰輝くんの頬には汗が流れて折角私が塗ってあげた日焼け止めが落ちていた。私はポケットから数枚ティッシュを取り出して、まるで涙を拭うように、汗を拭き取ってあげた。
ライブハウスの木製の扉に手が触れた時、既に私には相当の疲労感があった。他人との関わり合いでこれほど疲れてしまうと、自分の人としての自信はなくなってしまう。どうしてもっと上手く対応することができないんだろうかと後悔しつつも、あああの人らは対峙するだけで疲れてしまうような人間なんだと悟った。
今日もまた扉を開ける私のことをライブハウスのスタッフたちは見てもいないから、こちらから談笑する彼らに声をかけなくてはいけない。でも二回目なので変な緊張感もなくスムーズに地下のホールへ入場することができた。ドリンクは前回と同じくクラフトコーラだった。やはり気取った味がして、私の好みとは到底かけ離れていた。夏休みまであと二日の今日は、心の折れそうな一日でした。
今日私の元へ一番乗りでやってきたのは、相野だった。あんな卑怯な人間が直接やってくるとは思いもしなかったので、身構えたが彼女はやけに呑気な顔をしていて、まるで自分の行った悪行を覚えていないような、そんな様子だった。
私は彼女のそんな様子に体が拒否反応を起こしてしまい、怒りよりも気持ちの悪さが勝り切った。彼女なんかに朗らかな声で私を呼ぶ権利があってたまるかと思っていたのに、贖罪を済ませた人間のように甘い声で私の名前を呼ぶ天使、くたばればいいのに。
「山内さん。」
相野の高い声はやはり耳障りで、私は顔を顰めた。明らかに無視をしたと言うのに、彼女は懲りずにもう一度「山内さん」と呼ぶ。
「はい?」
これ以上名前を呼ばれたくなかったので、仕方なく彼女の方を見ると、相野は、胸の前で両手を重ねて小さく体を左右に揺らしていた。そんな姿が堪らなく不可思議だったわけだ。
「ごめんね、今までのこと。なんか私がやったこと本当に良くなかったなって思ってて、だから謝らなきゃいけないなって思って話しかけたんだけどね、やっぱり謝ることって怖いことなんだよね、私すっごい不安だったの。ちゃんと謝れるかなってね。」
相野はしゃがみ込み、椅子に座る私に目線を合わせてなにやらごちゃごちゃと言葉を並べ始めた。
「だからこうして謝ることができたのが、自分でも嬉しい。本当にごめんなさい。」
彼女は小学生でも言わない、それ以上に稚拙なことを言う。謝ったら当然許される、それがゴールだと思っている。でも人並みの常識を蓄えた人ならば謝ることはむしろスタートでそこからどうやって許してもらうかを考えるのが普通だと思うだろう。彼女には「ちゃんと謝れたね。偉いね。」なんて褒めちぎる過保護な親でもついているのだろうか。
「相野さんって私になにをしたんだっけ?」
私は相野の態度に戸惑いつつも、今一度聞き直した。
「えっと、事実じゃない噂をクラスメイトに流した。」
口籠らずに、鮮明に吐き出された言葉が余計に苛立つ。
「許さないよ、私は。」
まずはこの天使に「許してもらえない」という運命を突きつけないといけない。話はそれからだと思った。
案の定、相野はまるで生まれて初めて聞いた言葉を解釈する時みたいに大袈裟に戸惑った。上下の唇がそっと離れて何か喋るのかと思いきや、ただその隙間には空気だけが流れ込んでいた。
「そっか、許さないのね。そうだよね。でもそれでもいいの。私は謝れただけでも嬉しいからね。」
やっと言葉を発した相野を見て、つくづく根本から幼稚な人間だと思った。中学校よりもさらに同程度の成長を遂げた人たちが集まる場所が高校だと思っていたが、こんなにも人として大事な部分がごっそり抜け落ちて、その代わりに少女漫画の要素を詰め込んだような人間が堂々と紛れ込んでいる。
「そうなんだね、嬉しいんだね。」
私はあえて幼稚園児に話しかけるように、彼女の目を見ながら言った。
「そう、嬉しいの。ありがとう。」
なぜだか私は感謝された。彼女は「ごめんね」から始まったのに、ものの数分で「ありがとう」へと駆け抜けた。ああ、これが天使かと思った。こんな無神経な人とは繋がり合えるわけがない。結びつける神経そのものが体内に存在しない空っぽな天使。
「でも、なんかそれ以上に嬉しいことあったんでしょ?多分。」
「え、、わかる?」
「うん。わかる。」
恥じらいもなく私の元へやってきた彼女の全てを動かせるのは、まあ恐らく彼の言葉だけ。それ一択だ。
「あの、、ね。笠岡くんがね。本当に私のことを好きって言ってくれて。もうギターなんていらないよ。いい?って言ってくれてね。やっと付き合えたの。本当の本当にね。」
相野は私の隣にしゃがんだまま、顔を赤く照らして、瞳まで潤う。時折机の金属の足の部分でおでこを冷やして、また話し出す。確かに相野は笠岡くんのことを危険なくらい愛しすぎている。きっと良くないことだけれども、それだけは認めることができた。
「そうだと思った。本当に付き合えたんだね。」
「本当だよ。私のこと好きで居てくれるんだよ。」
それは本当なのだろうか。笠岡くんは相野を恋人として受け入れることで邪悪さを封じ込めてくれたのだろうか。それとも二度目の勘違いか。後者の可能性も捨てきれないほどに相野は常識を持たないから迷ってしまう。
「笠岡くんに生かされてんじゃんもう。」
それは勿論悪い意味で。
「本当にね、ありがとう笠岡くん。」
彼女は笑う。屈託のない笑顔を見せる。それが恥ずかしいことだとも理解できずに。私はもう呆れてしまった。
「ねえいつまでしゃがんでんの?」
そして、そうやって聞くが、相野はしゃがんだまんま、机の足の金属部分を掴んで離さなかった。
「山内さん、なんで上履きに富士山の絵描いてんの?」
「富士山じゃない、これプリン。」
「あ、プリンかあ。なんか山感がすごいよ。」
そう言いながら彼女は私のプリンの絵を爪で擦った。本当はそのまま体ごと蹴っ飛ばしておきたかったけど、なんとか我慢して上履き越しに彼女の皮膚を感じた。
「私も丁度おんなじ場所にほら、見て。」
相野は自慢げに自分の上履きを指差してアピールする。薄汚れた上履きにはギターと音符のイラストが落書きのように添えられていた。
「私も真似してさ、彼みたいに上手には描けないけどね。」
相野は「ギターのネックの形がなぁ、、」とか頬を膨らませながら、独り言のように呟いた。この人はいつまで私の横に居座るのだろかと思いつつ、私が描いたギターの絵を真似して喜んでいるなんて、ああ相野には人として負けないだろうなと確信した、ずっと永久に。
相野が中々私の元から離れてくれなかった事、それに加えてもう何かを成し遂げたような顔でようやく離れた事。それだけでも私には幾らかの疲労感があった。呆れるという感情が生まれてしまうと、怒りやらの感情が代わりに萎んでしまい、「この人には何を伝えても無駄なんだ」と思うようになる。それは適切な対応だと思っているけれど、私が怒りを撒き散らさなかった事を褒めてくれる大人はどこにも居ないし、第一相野は呆れられているという自覚というものが一切無いので、私は損をしているのでは無いかと思った。
地下のホールでは前回と同様にミラーボールがくるくる回り続けて、聞き馴染みのない洋楽も流れ続ける。しかし今日は奇妙なほどにホールにこだまするすべての音がそのまま私の体に入り込み、私を慰める、ような幻想を抱く。今日も、この空間に知り合いは一人もいない、相野もいない。
朝のホームルームが始まる前に、昨日私に絡んできた例のクラスメイトが
「あの人もさ、黒田先生みたいにこのクラスを放棄したらどうなるのかな?」
と言った。あの人というのは代理でクラスにやってくる体育教師の事だ。
「どうなるんだろうねえ。」
他のクラスメイトは手鏡で前髪をいじりながらそう答える。
「このまま何事もなく、終わらそうとしてるのムカつくから。なんか最後に言ってやろうかな。」
「でもあの人はちょろくないじゃん。黒田と違って。」
「いやね、女には厳しくいけないよあの人だって。」
彼女はそう言って自分の太ももをさする。同性として非常に恥ずかしい、そう思った。
今日も体育教師は私たちのクラスにやってきてまるで流れ作業のように、朝の挨拶を済ませる。必要以上には私たちに関わりたくないと、そういう顔をいつもしている。まあそれも仕方のないことだ。安部先生と抱き合った張本人が何ともない様子でただそこに座っているのだから。
体育教師が業務連絡等の話を速やかにしている最中、例のクラスメイトはニヤつき、周りを見渡した。黒田先生に言ったような言葉をどのタイミングで挟んでやろうかと待ち侘びていた。私はいつ彼女が言葉を発するのか、それをドキドキしながら見ていた。いやワクワクしながら見ていた。
「先生ー。」
保護者会の日程が記載された用紙がクラス全員に行き渡ったタイミングで、彼女は手をあげて先生を呼ぶ。
「どうした?」
体育教師は「枚数足りない?」なんて言いながら彼女の言葉を待った。
「保護者会で、親には説明するんですよね?安部先生のこと。その前に私たちに説明するべきじゃないんですかー?」
特別な緊張感が走った。黒田先生の時にはなかった明らかな空気だった。体育教師は唇を噛み、教壇に両手をついたまま、例のクラスメイトを睨み続けた。
「どうしてそんな無神経なことを言えるんだ?」
「説明しないのは、おかしいって話ですよ。」
体育教師は窓の外の青々とした空の方を見た。その瞳には葛藤が映り込んでいたような気がする。
「身近な人が悲しむかもしれないのに、他人事みたいに。野次馬が一番恥ずかしいんだよ。」
「ああ、そう言うことですか。」
彼女は笑いながら、私のことを見てきた。そして「確かに他人事ではなかったわ。」とわざとらしく言う。彼女はまた私に揶揄の矢を放ちました。
「でも今安部先生が何をしてるのかだけ、教えてくださいよ。」
それでもまだ彼女は挑発を辞めなかった。
「こんな話、みんなの前ではしないので。残念だけど。」
彼女と体育教師の声のみ、それ以外は静寂だった。確かに彼女が女子だったから体育教師は冷静な口調だったのかもしれない。男子だったらもっと単純に、声を荒げていただろう。私の後ろの席の笠岡くんが水筒の水を飲んだ。氷の軽い音がカラカラと聞こえるほど静かだった。
「安部先生は、結局教師辞めたよ。」
その時、こんな言葉が後方の席から通り抜けていった。首筋に冷やした缶ジュースを当てられた時のような不意の驚きが教室内に広がっていき、皆が一斉に言葉が発声された方向に体を向ける。
「安部先生は教師を辞めて、なんかこれからは配信の投げ銭で食い繋ぐんだとか。そんなこと言ってたね。」
山田さんは淡々と、かつ揚々と話し始めた。第一理科室で開かない扉を開けようと奮闘していた時とはまるで違う。彼女は会ったのだ、いや直接ではないかもしれないけれど安部先生に接近したのだと確信した。
「山田?そんなの言うべきじゃないってわかるよな?」
体育教師は少し口調を強めた。クラスメイトは投げ銭で食い繋ぐとか、そんな乞食みたいな生活へと堕落した安部先生を知り、ざわつき始めて、静寂が途切れた。同時にそのざわつきは「なぜ山田さんがそれを知っているのか」という疑問も含んでいた。まさしく混沌とした朝の教室はまるで空気が薄くなったように、心臓が速度を上げた。
「言っちゃいけないですか?」
山田さんは、確かに迷いながらそう言った。迷うなと私は思った。彼女が自ら自分と安部先生の関係を曝け出すならば、それは私にとって幸運なわけだ。体育教師は「これ以上口を開くな」と言わんばかりの表情で山田さんを見つめた。
ただどうしても山田さんには勇気を出してもらいたかった。勇気を出して恥晒しになって欲しかった。だからこそ私は立ち上がった。立った拍子に椅子が後ろの笠岡くんの机に当たって余計に音が響いた。ほんの刹那の羞恥ならば、軽いものだと思った。
「本人の口から、直接聞かないと気が済まないんです。安部先生はどうして居なくなったのかを。」
クラスメイトの激しい視線が私の体温を大幅に上昇させた。
「夏休み程度じゃ、これが無かったことにはならないと思うんです。ずっとモヤモヤしたまんまで気持ち悪くて。」
「本人がいるんですから、、ねえ。」
私は自分がおかしいと自覚しながら数十秒間話し続けた。笠岡くんや泰輝くんなど事情を知っている人以外は皆、困惑していた。
「そう言う話をして悲しむ人もいるって何回も言ってるのにわかりませんか?」
「だれが悲しみますか?私たちは全く。山田さんだって悲しみません。」
誰かが悲しむ。その誰かはどちらかといえば教師の方だ。私たちは思うほどセンシティブではなく、むしろ他人の不幸に少々高揚する。私たちが都合よく悲しむ人間だと馬鹿にされているような気がしてならなかった。私はクラスメイトの顔を見渡した。本気で悲しみ、傷つくような人が一体どこにいると言うのだろうか。
「先生は別に関係ないです。ただ単純に私たちが知りたいことを教えて貰うだけなんで。」
私たちは安部先生が行ったことの詳細を知りたい。山田さんは私たちにそれを明かして優越感に浸りたいと思っているはずだ。その中でただ邪魔者が教壇に一人佇んでいた。
しかしその邪魔者は片手をジャージのポケットに突っ込んで教室から出て行った。とうとう体育教師もこの教室から逃げ出したのだと思った。このままでは厄介なことに巻き込まれる予感がして、その責任逃れのために図体のでかい良い歳した大人が逃避した。やっぱりみっともない行為だと思った。
しんとした教室で私はふと山田さんの方を眺めた。ここまで条件が揃っているのだから、思う存分安部先生とハグした話、自分だけが愛された話、それによって得た幸福感。溢れ出しそうなほどに溜まっているであろうその余情を惜しみもなく語ればいい。そうすれば私に対する噂は消え去る。彼女は優越感に浸りつつ、自らの愛を自慢する。そして彼女以外のクラスメイトは山田さんを軽蔑する。
「え、安部先生とのこと教えてよ。ねえ。」
例のクラスメイトは山田さんにそう言った。この時ばかりはあの人の不幸好きな性格を有難く思った。
「うん。わかった。」
山田さんはそう呟き、立ち上がった。その立ち姿は断崖に立ち尽くす人間のようだった。その時相野はというと顔を伏せてただ時間が過ぎ去るのを耐えるように待った。
「安部先生と五回ハグをしました。そのほとんどが先生からで、私が離れるまでハグは終わりませんでした。みんなは安部先生にどんな印象を抱いていたかわかりませんが、私からするとものすごく自己中な人だったと思います。良く言えば、、いや良く言えないくらいに自分の欲望に忠実だった気がします。」
山田さんの語り出しは、この話が相当長くなるということを予感させた。
「安部先生は、私生活や仕事で嫌なことがあった時に私とハグをしてそれを忘れるのだと言いました。だとしたら私じゃなくても、先生の前に女子生徒の体さえあればそれでいいのかもしれないと思いました。でも私が安部先生に選ばれ続けたことには理由がありました。それは体の小ささだと思います。クラスで、いや学年でも一番小さい私の体はいざという時に隠しやすくて、自分で言うのもなんですが、秘密の宝物みたいだったんじゃないかと思ったりもしています。」
山田さんはそう言いながら照れ笑いをして、小柄な体が更に小さく見えた。
「あと安部先生はとにかく黒田先生のことが嫌いでした。幼稚だの感情表現が大袈裟だの言っていました。そんで『私が女子高生とハグをすることは幼稚ではないんですか?』と聞くと、『別に山田さんを本気で抱きしめているわけじゃないから』って今考えると最低なことを言われました。でもまあ私のことを本気で好きだったら今頃教師やめるどころじゃなくて逮捕されていたかもしれないので。」
断崖に立ったまんま、彼女の言葉はなかなか終わらなかった。あと一歩踏み出して落下していくのを待った。
「とにかく安部先生は教師として失格、いや人としても欠落があったのでこうして強制的に離れ離れになったことは私にとって幸せだったかもしれないです。でも、安部先生のことを本気で好きになった人、きっと私だけじゃないはずです。安部先生と抱き合う妄想をした人いるんじゃないですか?そういう人がいると仮定して言います。安部先生の体は思っている以上にゴツゴツしていて抱き合う時に少し痛いくらいです。あとタバコの匂いもかなり強いです。あと抱き合う相手に体重を預けてくるので相当重いです。私は安部先生にとっての特別な存在になれて、確かに夢みたいな幸福感を得られて、おそらく多数の人に羨ましがられるような経験をしました。でも、これからも今までと変わりなく私に接してください。お前だけズルいとか嫉妬しないでくださいね。」
嫉妬なんてしてたまるものか。
「あ、あと現在の安部先生についてです。さっきも言いましたが教師は辞めることになって、一人暮らしの部屋で配信アプリでのライブ配信で稼ごうとしています。ビジュアルがいいから割と視聴者が集まってきて、なんとか生きていけるんじゃないかって勝手に思ってます。皆さんもよかったらぜひ見てみてください。私も毎日視聴しているので。」
山田さんはようやく着席した。そして私の方を見ながら満足げな表情を浮かべる。私も負けじと笑顔で会釈した。ありがとう、これで彼女は生き恥を晒し切ったのです。そして私の噂もとうに消滅したのです。あとは最後に一言だけ、私は再び立ち上がった。もうそろそろ授業は始まってしまうところだった。
「山田さんのこと、可哀想だとは思いませんか?」
私はそう言いながら、クラスメイトの表情を見渡した。勘違いではなく、みんなの目が私に同調しているように思えた。そうです、この冷たい空気感こそが山田さんの自尊心を破壊するのだと嬉しくなりました。
アイラは今ステージに立っている。彼の足元は真っ白な煙で隠されて幻想的な雰囲気を醸し出す。スポットライトも窓明かりのようで直線的な眩しさが綺麗だ。そして何よりも中央で佇むアイラ、その全体が絵画に見えて美しかった。そして彼が奏でる一音目に、私の鼓動がちょうど重なった。
明日は終業式だけ行い明後日からは夏休みなので、今日は大掃除を行った。最初は班ごとに掃除する場所がきっちりと振り分けられてはいたが、誰か先生が見張りをしているわけではないので自然とぐちゃぐちゃになっていき、気づけば私は泰輝くんと三階フロアの更に上、屋上へと続く階段を二人で掃除していた。
泰輝くんは箒を片手に階段を上がり、屋上へ出る扉のドアノブを回そうとした。
「やっぱりもう、屋上は解放してないんだね。」
「夏休み中に誰かが屋上に上がったりしたら厄介だからでしょ。多分。」
芳岡さんに屋上に連れて行かれた日がやけに昔のように感じた。
扉の小窓のガラス越しに今日も青々としたプールが見えた。私も、泰輝くんもそれを眺めた。
「夏休みになったらさ、海にでも行かない?」
「うん、いいよ。海でもどこでも。」
私は頭から爪先まで全身を濡らした泰輝くんを見たことがない。あのプールと同じくらい青い海に入り、濡れた泰輝くんの髪の毛に触れてみたいと思った。
しかし、それと同時に山田さんに昨日言われた一言を思い出してしまった。
「ねえ、泰輝くん。」
「何?」
「泰輝くんは溺れたりなんかしないよね?」
泰輝くんは笑いながら「え?」と聞き返した。彼は別に怒ってもいないが「ごめん」と私は即座に謝った。
「もうずっと泳いだりなんてしてないからわかんない。でも溺れたら助けてね。」
「私は絶対無理だよ。」
私はお世辞にもうまく泳げる方ではないので溺れる彼を助けるのは、無免許で自動車を運転するようなものだ。
「でもスズって想像以上に強いんだよねきっと。」
「え、どうして?」
泰輝くんは箒の先端に顎を乗せながら、私の方を見下ろす。
「今日の朝の件を見てて思った。全然弱くなんてなかったね。」
「弱くあって欲しかった?」
彼は何故か、寂しげな表情を見せた。
「うん、僕ほどじゃなくても少しはね。」
「いや、感傷的すぎて弱いよ?本当は。」
芳岡さんにも、山田さんにも、体育教師にも自らの感情をぶつけた私はきっと精神的にも弱い人間ではないんだと思う。でも彼の隣にいる時はか弱い自分でありたいと思った。それは彼に対する情けだ。彼は身体に露呈しうる弱さを必死に隠そうともがき続ける、それが不憫で仕方ないのだ。
「そう、だったら良いね。」
泰輝くんは何かを誤魔化すように、掃除を再開させた。遠くに見えるプールサイドでは他のクラスの男女が掃除もせずホースを使って水を楽しんでいた。それが今の私には余計に水々しく美しいものに見えた。
「ねえスズ、今日の夜はなんか予定、あ、空いてないんだったな今日は。」
「うん、今日はね。」
私はライブのチケットを無くさないように朝イチからスマホケースに挟んでいた。
「今日花火打ち上がるの知ってた?あの今年で潰れる遊園地のとこから。」
「ええ、そうなの。見たかったねえ。どうせなら一緒に。」
こっちは嘘ではなく、本当に知らなかった。
「あ、でそれでね、さっき山田が教室で、本当か嘘か知らんけど、安部先生と花火を一緒に見れるってベラベラ語っててさ。まあ嘘くさいけど。思ったよりも自分の恥ずかしさに気づいてないかもね。こっち側が軽蔑していることも気づいてないかも。」
「もしくは気づいているけど、あえて鈍感なふりをしているか。道化みたいにね。」
あの瞬間的な冷たい空気感だけでは、山田さんの自尊心を破壊するには至らなかったのだと残念に思った。でもいつか壊れる。そして安部先生のように忽然と居なくなる予感すらする。鈍感とは逃避と同等に醜いがしかし、有効だ。
「何が宝物なんだか。」
彼はそう言った。その通り、宝物にしては彼女はあまりにくすんだ色をしている。私は階段の最上段で頬で差し込む日光を受けている彼の元へ一段ずつ近づいていった。ああ、彼の体は確かに丈夫になったように見える。泰輝くんという存在には滲んだ文字のような儚さがあると思った。
私たちはこんな屋上までの階段になんて誰も来ないと勘違いしながら箒を握っていたので、足音がこちらへ確かに上昇していることに気がついた時、焦って仕方がなかった。逃げ場なんてなかったのでせめてもの言い訳として大袈裟に埃を掃いた。
「ここにいたのか。」
結局私たちの姿を見つめていたのは学級委員の芳岡さんだった。ある意味彼女でよかったと思った。何故なら常に恥を晒して生きているような人に、泰輝くんと二人きりでいるところを目撃されたとて恥ずかしくはないからだ。
「もうそろそろ教室に戻ったほうがいいかも。」
彼女はスマホで時間を見せながらそう言った。
「分かった。もう戻るね。」
「うん。教室で待ってるよ。」
芳岡さんはそそくさと階段を下っていった。彼女は私たちに対してひどくそっけなくなったように思える。おそらく関心が薄れている。そう言えば江田くんはどうやら陸上部を辞めたようだ。大会で二位に入賞した時、走る姿だけはお世辞じゃなく格好よかったのに。暴力とは印象に深く刻まれるもので、いまだに女子から一定の距離を置かれている。まあ私自身も本能的に彼を避けているのかもしれない。
彼女らはまるでお互いの手首が真っ赤な紐で結びつけられているよう、共依存だ。このクラスにはいつか情死してもおかしくない、そんな素質を持った人間が数人いてしまう。
「芳岡さん。」
私は階段を下るその背中に話しかけた。
「芳岡さんも、花火見に行くの?」
そう聞くと彼女は人が変わったように微笑む。
「うん、二人で行くよ。今頑張って花火が一番綺麗に見える場所を探してるの。」
「屋上がもしも解放されてたら、絶好の場所だったろうね。」
「私も同じこと思ってた。他に最高の場所を探さないとダメなの。」
でも、今の彼女らならば、屋上への扉に鍵がかかっているとか、そんなこと関係なくその扉をぶち破ってまでも二人で屋上に寝そべりながら花火を眺める姿すら想像できる。恋人としての幸福を探求する、それがあまりに強引だ。
「芳岡さんが、全部用意しなくちゃいけないの大変だね。」
私は階段を登り、一番上の踊り場に立つ泰輝くんの隣までいった。とにかく彼女を物理的に見下したくなったからだ。鈍感な彼女は私の言葉を真正面から労いの言葉と勘違いして受け取るだろうと、高を括った。
「どうして?」
彼女は私たちとの距離感を縮めることなくそう聞いてきた。
「花火なんて、恋人と一緒なら別にそこら辺の道路でもそれなりに綺麗に見えると思うよ?でもそれじゃ物足りないって江田くんは多分言うんでしょう。」
私は彼の表情を横目で確認すると、彼はただ無表情で芳岡さんを見下ろしていた。まるで付き人かのように、必死になって江田くんのケアをする彼女が私にはどうも幸せそうには見えなかった。
私はこの階段の物理的な高低差とちょうど等しく、彼女のことを人として見下していた。しかし彼女は一段、私たちの方へ上がってきた。
「私は幸せだよ。山内さんたちは私のこと報われない愛人みたいで惨めだと思っているかもしれないけど、支えることが直接的な愛情だと思うしね。私も、祥哉くんも幸せでいっぱいです。」
芳岡さんはまた一段、階段を上がってくる。
「どうして自分達だけは普通の恋人だと思っているの?」
「どうしてって普通だよ。何もおかしい部分はないし、普通に幸せで。」
どう考えても異質な恋人関係である彼女に、こんなことを言われる筋合いはないと思った。私たちみたいな恋人はそこら中にいるはずだから。
「屋上で山内さんは私に刺々しい言葉を容赦無くぶつけてきたじゃない。あの瞬間に、私は山内さんと深く関わるべきじゃなかったなって思ったの。そして祥哉くんも、明確な理由は私にはわからないけど、楠木くんのこと関わると自分が損をする人間だって一回じゃなく何度も言ってた。」
猛暑の屋上で見た芳岡さんの涙を思いだした。「深く関わるべきじゃない」と単純ながらも私の心に確実に突き刺さる言葉が痛い、そして同時に泰輝くんも同じ痛みを感じうることに驚いて、彼の体に触れた。私はともかく彼だけは絶対にそんな人間じゃないとサラサラしたワイシャツを感じながら強く思った。
「深く関わるべきじゃない人間同士が恋人として深く関わり合うことになって、その間に幸せなんて、奇跡的に生まれたとてちっぽけな幸せなんだろうなって思ってた。でもそれでも山内さんたちは十分幸せなんでしょ?じゃあ私も同じ、あなたたちからどれだけ不幸そうに見えたとしても、私たちは幸せです。」
「ちっぽけな幸せなんて、芳岡さんに何がわかるの?」
「そう、その通り。私たちの幸福感なんて、山内さんに何がわかるの?」
芳岡さんは気づくと、私たちの目の前まで階段を上がっていた。私は完全に油断していた、相当のカウンターを食らってしまった。反論する気力すら吸い取られてしまった私は、自分自身の傲慢さを痛感すると共に、捨てきれないプライドがひどく重かった。
「まあいいの。とにかく教室に戻ってきてね。」
彼女は弾むように階段を下っていく。その姿が見えなくなって、静寂が訪れると唐突に、窓から差し込んだ日光の通路に大量の埃が舞っていることに気がついた。結局私たちは適切な掃除すらも行えていなかった。とにかくそれも虚しくて堪らなかった。
「なんかもう、嫌だね。」
私はそう言葉をこぼした。芳岡さんも嫌、自分も嫌、この空気感も嫌。様々な種類の嫌さが混ざり合ってただ漠然とガスのように漂っていた。
「もう本当にすぐに、教室に戻らないといけないよ。」
彼は私の頭をそっと自分の肩に寄せながら言った。確かに、事前に伝えられていた終了時間まであと数分しかない。でもこの一段すら私はどうしても下りたくなかった。
「でもね、きっと芳岡さんは私に対してしか言ってなかったよ。私に苛立ちすぎたから何も関係ない泰輝くんを巻き添えにしたんだと思うよ。」
彼の右腕が私の右肩まで届いた。私は申し訳ない気持ちで沢山だった。
「いやそれは違う。スズだけは違う。僕は芳岡が言った通りの人間だと思う。でも芳岡もスズにあんなこと言える人間じゃない。スズだけは何も悪くないと思う。」
彼は優しく温もりに溢れた言葉を私にくれた。でもそれは正しいものではないと思った。私には確かに傲慢さがあった。そして鈍感さもあった。被害者の正当防衛の気持ちで人を傷つけることに慣れつつもあった。
「そんなわけない、泰輝くんはそんな人に見えない。でも私は自分が嫌いになってしまいそうで仕方ない。」
「スズは心が相当強いから、自分の心を盾にして僕を守ろうとしてくれるかもしれないけど、いつか急激に心が崩壊しかねないよ。それが心配になる。」
「崩壊、、」
「だから、自分の心は弱いと思うくらいがいい。大切に扱うようになるから。」
私はとても不思議な気持ちになった。心が弱いとはどのような人のことを言うのだろうか。例えば素直に泣き出す人、黒田先生のような人を心が弱いと言うのなら、私は絶対あんなのと同類の人間になりたいとは思わない。
ただ彼もきっとそのような意味でそう言ったのではなく、私が自らの心を盾にして欲しくないという、まるで愛撫のような気遣いだったのだろう。だとしたら素直に、私は彼の優しさに撫でられるべきだ。
「心くらいは、スズも弱くいてください。」
「はい。」
授業終了のチャイムがリフレインした。遠くに見えるプールサイドは道具などが最初よりも明らかに整理整頓されていた。あの人らはあれだけホースから放水された水で遊びきっていたのに、私はどこか悔しい気持ちになった。
私は今日も、出演者の楽屋に顔を突っ込んでアイラを求める。彼は奥の方でギターのシールドを巻いている所だった。私の顔を見ると少し困ったように、でも決して嫌じゃないように笑ってくれた。アイラの古着屋さんに飾られているようなTシャツ、首筋を伝う汗、そして私に微笑むその瞳。その全てが透き通るように美しい。
アイラの演奏は今日も最高に素晴らしかった。でもほんの刹那に感じられたから、快感寄りの余韻だけがモアっと心に充満している。彼と確かにギターだけでは繋がりあっていた相野が少し羨ましくもなる。二人きりの狭い空間で彼が音を奏でたならば、とっくに私は彼のことを好きになっていたかもしれない。
「もう今日はいいよ。こっち入ってきても。」
彼は笑いながら私を手招きする。私は念の為、キャップを深めに被り直した。
「ありがとうアイラ。」
「こちらこそだよもう。」
「ううん、今日私はお金すら払ってないんだから。それでこんな最高な気持ちなんだからね。」
「それならよかった。」
体育座りする私の体半分には彼が触れている。でも、それでも離れているような気がした、これ以上近づけるはずもないのに。
ふと時計を確認するともう既に夜の七時をすぎている。早いうちに彼を外へ連れ出さなければいけない、今日はどうしても見たいものが夜空に現れるのです。
「ねえ、今日はちょっと長めに散歩しない?」
「長め?どんくらい?」
「気が済むまで。」
「分かった。行こう。」
今日は私が先に地上に出て、二人で歩き出す。でも今日は何だか私の歩くスピードが不安定で定まらない。その理由は二つ、まず一つは歩きながら、花火が見やすい地点を探しているからだ。遊園地の方角を意識しながら、木々で花火が隠れてしまわぬように気をつけながら歩いている。そしてもう一つ、私は今日彼にどうしても聞いておきたいことがあるのだが、それがどうも聞きにくいことだからだ。嫌なら聞くなと言われたらそれまでだけどやっぱり聞きたくて仕方ない。
「演奏している時って自分ではどんな感情になってるの?」
赤信号で立ち止まりそう聞く。
「え?まあ無心かな。」
「意外とそう言うものか。」
確かに私も一度、空っぽになった。だからこそ隅々まで余韻が蒸気のように行き渡る。
サブスクでアイラの楽曲を何度も聴いていたこともあって、今日リアルで演奏する彼の姿にはスター感というか、本物感が何倍にも増して輝いた。
「もっと、いろんな人に演奏を聞かせてあげればいいと私は思うんだけど。」
「やっぱり特別な人にしか見せたくないって、最近思う。」
彼は私の目をはっきりと見てそう言った。特別という言葉を抱きしめてみたくなる。私は特別な存在。そして私以外には、、
「ねえ、相野さんと本当に付き合ったの?」
今朝の相野の火照りようを思い出した。そう聞くと彼の歩く速度は私よりもさらに遅くなった。
「好きとは確かに言った。付き合ってることにもなってるかもしれない。」
「そうなんだ。」
彼があまり清々しい顔をしていないから、本心を知りたくなる。あの人と繋がり合う選択をした意味を。
「どうしても、相野から山内に謝るべきだと思ったから。」
「そのためだけに?付き合ってしまったの?」
つい、付き合って「しまった」と口にした。
「いや、相野がこれ以上悲しまないためにも、一度は付き合ってあげるべきだって思ったから。」
「それだったらいいんだけど。やっぱり相野さんは笠岡くんの言う通りに動くんだね。従順な人だよね。」
「ちゃんと謝ってくれた?」
私は首を横に振った。もはや今朝のあれは謝罪だと受け取っていない。
「許さないって私が言ったのに、それでもいいのありがとうって謎の自己完結。」
笠岡くんは呆れたように笑う。
「僕が仮に浮気でもしたら、ようやく純粋さがちょっと抜けて人並みの謝罪ができるようになるかもしれないよね。」
「確かに、傷つけられる人の気持ちを理解できないのよあの人は。」
「純粋さ、無くしちゃうか?」
「それも悪くないね。」
私たちは今日一番声を上げて笑い合った。そして何だか安心した。笠岡くんはそのうち相野のことを最も簡単に捨ててしまう、そんな予感がする。
「浮気はダメでも浮体はしちゃえばいいんだよ。」
「山内、なんてドロドロしたこと言うの?」
変に大人びたことを言ったのは、街灯もない夜道の暗さゆえだと思った。
私は取り敢えず、近くを流れる小さな河川を目指して歩くことにした。まあ河川といえどもコンクリートでガッチリと囲まれていて自然の産物であるとは思えない。特別な場所である必要はないけれど、最低限花火が綺麗に見える場所を探したい。
ただ冷静に考えると、私はなぜ何の違和感も無しに笠岡くんと二人で花火を眺めようとしているのだろうかと不安になる。私と見たいと望んでくれた人が居たのに、嘘をついてまで私よりも白いその肌に見惚れながら歩いていく。私が好きなのは笠岡くんじゃなくてアイラだという言い訳ももはや通用しない。いや、私はできることなら三人で歩きたかったんだ。でも彼らがどうしても揃わないから、仕方なく泰輝くんと笠岡くんとそれぞれ二人きりになって一生懸命話しているんだ。だから私は悪くないとひたすらに思い込む。
遠くの方からは川のせせらぎの音が微かに聞こえた。
「ねえ、これどこ目指してるとかあるの?」
彼は不思議そうにそう聞いた。
「あのクリーニング屋さんの前の橋のとこ。」
「橋?どうして?」
「笠岡くんも知らないのね。でもすぐに分かるよ。」
河川が近づくにつれて街灯や煌々と輝く商店なんかが増えてきて、私の緊張感も高まってくる。仮に泰輝くんが花火見たさで一人で来ていたとして、今二人でいる姿を見られてしまったら、そのまま川に突き落とされてしまうような気さえする。教師とハグをしたとしても嫉妬はしないが、笠岡くんが絡むと嫉妬は恐ろしいほど肥大化して痕がつくほど強く握られる。その事に関して、笠岡くんはどう考えているのか分からない。
クリーニング屋さんの前にかかる橋は入り口の二箇所にのみ街灯があり、真ん中の辺りは流れる川の水が見えないほどに暗くなっていた。ここなら花火の光以外発光するものはなく、その色彩豊かな煌めきがより一層強調されるであろう。
「ここで少し待ちます。ねえ今何時?」
「七時二十五分。花火が打ち上がるまであと五分。」
彼はスマホのロック画面を私に見せながら言う。
「え?知ってたのか。花火が打ち上がるって。」
「うん。だって今日相野に誘われたもん。」
そうか、よく考えれば相野が一緒に見ようと誘わない訳がない。
「でも、ライブがあるからって断った。」
「相野さんはライブにはどうして来ないの?」
「僕との関係、ギターをなくして繋がりたいんだってさ。だからライブにも来たくないと言うわけ。」
笠岡くんと唯一繋がりあっていたギターを自ら切り捨てる、やはり本気だ。相野はもう金輪際ギターに触れることすらしないのではないかと思う。
「まさか、山内と二人で花火を見れるとはね。」
「まさかだね。」
橋の真ん中で錆びた鉄製の手すりにもたれながら待つ五分間は授業中のように長く感じた。ただ河川の水と、夜空の積雲は一定のスピードで流れていく。
「もう打ち上がるよ。」
花火は打ち上がった。尺玉を頭にして、稚魚が尾鰭を靡かせるように、真っ暗な上空をゆらゆらと進んでいく。そして花火は開花する。次第に赤色と紫がかった光の粒が中心から離れていき、終わりには単なる白い点々が無彩色の空へ吸い込まれるようにして消える。迫力のある音は残像として体に響く。「綺麗」と呟く彼は上空と光が反射した河川を交互に眺めた。
様々な格好の花火は立て続けに打ち上げられる。時折三つか四つの花火が重なってせっかく彩や空への消え方が違うはずなのに、混ざり合ってよく分からなくなる。それが勿体無いなとも思いつつ、空を埋め尽くす光には無条件に心掴まれる。
ああ、何だかすごく良い。ああ、とにかく芸術的で美しい。私の心は感嘆詞と漠然とした形容詞で埋め尽くされていく。でも花火が打ち上がるたびに、笠岡くんと二人で眺めたことに対する罪悪感が沸々と湧き出るものだった。
「ねえこのままさ、川沿いを歩いて花火にもっと近づいて見たい。」
彼は首が痛くなるほど見惚れていた私の肩を叩きながら言った。例えば虹ならばどれだけ近づいたとて自分の真上に架かるわけじゃない。でも花火なら近づけば近づくほど、大きく、そしていつしかそれを真下から眺めることができる。私はそこにロマンを感じた。
「いいね。花火が終わらぬうちに、近づけることまで行ってみよう。」
私たちは何だか楽しくなり、、手を繋いでしまいました。でもこれは幼馴染として小学生の頃の無邪気さを思い出したからだ。掌は触れ合わないほど、親指以外の四本の指がしっとりと重なり合う程度で、決して絡み合うなんて表現はできなかった。花火に近づくために早足で歩いていて、それでいて二人して何かから逃避しているような気分だった。それは罪悪感かもしれない。笠岡くんだって相野に見つかったら川に突き落とされかねないわけだ。
しばらく歩くと目に映る花火の姿と聞こえる音の間隔が無くなり、もう少しでピッタリと重なりそうに思えた。だから確かに近づいたのだと嬉しくなった時、彼はゆっくりと立ち止まった。
「ねえ、あれ見てよ。」
「何?」
彼が指差したのは、草木が生えた河川の土手の辺り、高さのある縦格子のフェンスを乗り越えた先に寝転がる二人の男女の姿だった。川沿いの街灯が男女の上半身だけを照らし、まるで死んだように寝転がりながら花火に酔い浸る。
「あれ誰だか分かる?」
「あんな場所で花火見るのなんてあの人らしかいないでしょう。」
言わずもがなそれは江田くんと芳岡さんだ。どうしてわざわざフェンスを乗り越えて立ち入るべきではない河川の土手に寝転がり、通行人がすぐ近くを歩くその場所で、シングルベットで二人で寝る時のような距離感で花火を見ようと思うのだろう。モラルが無いとか恥晒しとかもうそんなレベルではなく、彼女らを理解しようとすると、とにかく不快感が体の奥の方から込み上がってくる。彼女にとってはあそこが最高の場所だと言うのだ。
「誰かが見ているとか、そんなことすらも気が付かずにずっと生きているね。」
笠岡くんは彼らに言葉を命中させるような言い方だった。そうだ、彼は江田くんに殴られた。こんなにも心の支えとなる彼の体を傷つけた。やはりどんな事情があろうとも江田くんの心から希望が一つずつ消えていくべきだと思う。
「それにいつまでも寄り添う人間もいるよ。あれでも幸せなんだってさ。」
天使が必ずしも褒め言葉では無いように、幸せもそれほど美しい言葉では無いと思う。平凡な幸せがあり、醜い幸せがあり、格別な幸せもあり。彼女らの幸せは盲目的な信仰に過ぎない。怖いんだ、不幸を認めることが。
「あのまま二人で川底に沈んでいきそうに見える。」
彼はあまりにも突飛なことを言う。でも私には彼の真意がはっきりと伝わった。お互いを心酔し合い、歪んで見える視界で、小さな石ころに躓いて川に転落し、そのまま流れる川に溺れる二人。とにかく何かを踏み外せば、取り返しのつかない状態になりそうな二人だ。彼女らは私たちの存在になんて気づきようも無いので、一度柵にもたれて座り込む。花火の光は尚もそんな彼の横顔を断片的に照らし続けていた。
「ねえ、笠岡くん。ちょっと聞いて。」
「どうした?」
私が今日、彼にどうしても聞いておきたいことを今まさに聞いてみる。
「私今日、芳岡さんにあなた達は恋人としての幸せが小さそうに見えたって言われたの。でもあの人はそもそも幸せの軸がずれているから、当てにならないって今の姿を見て痛感したんだけど。」
「うん。」
「笠岡くんにとって私と泰輝くん、どんな恋人に見えている?ちゃんと幸せそうに見えている?」
私は自分で聞いたはずの質問に恐れを感じていた。自分にとっての幸福が必ずしも同じように他人の目には映らないと彼女らが身をもって体現しているからだ。
「多分山内が望んでいない答えを返すと思うけれど、それでもいい?」
「うん、それでも良い。」
本当は良くなかった。立ち入り禁止の場所で寝転がる人らと同類の人間だとはどうしても思いたくない。でも私はあんな風に恋人として没落しないために第三者の視点を重要視しようと誓ったはずだから身構えて受け入れることにした。
「もしも山内がこの川に落下して大怪我を負ったとしたら、泰輝はどうなると思う?」
「どうなるって、そりゃ心配して悲しんでくれたり。」
「表面的にはそうかもしれないけど、本心では堪らなく嬉しくて興奮するはずなんだよ。」
川の流れが急激に速くなったような、そんな気がした。
「あの人は、とにかく身体や心のどこかに弱さを持った人が隣にいないと人並みに生きれないんだよ。もはやそれに男女の区別はない。」
「どうしてそんなことわかるの?」
「小学校の時からそうだったからね。僕が日焼けしたり、どこかに擦り傷を作っただけで、どうしてそんなに日焼けしてるの?どうして傷ができているの?ってまさかみんなと同じように体を動かしたんじゃないよねって。とにかく僕が変わらず貧弱であるかどうか監視しているみたいだった。」
彼の語尾は弱々しく、花火の音に重なってかき消される。
「それが嫌だった。泰輝から生きる力を吸い取られながら、ずっと隣から離れて行かないように繋がれてるみたいで。」
私が二人に感じていた特別な絆、繋がり。それが単なる泰輝くんの束縛に近いものだったと言われると途轍もなく虚しい気持ちになる。
「だから、少々無理してでもプールに入って泳いだ方が何倍もマシなんだよね。」
私は無理をして笑った。この二人をかろうじで結んでいたのは、体の弱さ。しかも笠岡くんは泰輝くんの他人の手を強引に引っ張り続けているような性格に嫌気が差していた。これじゃあまるで笠岡くんと相野の関係と同じみたいだ。結んでいるものがギターかそれとも体の弱さか。その違いでしかない。
「でも、私の弱さはどこにあるの?」
私は涼しげな夜風を感じる素肌をさすりながらそう聞いた。泰輝くんは屋上へ続く階段で「心だけは弱くいて」と祈るような目をして私に言った。笠岡くんの言葉を信じるのなら、私には何かしらの弱さがあったから、泰輝くんの恋人として選ばれたのだろう。それが何だったのかが分からない。彼は私の顔を見ながら「うーん。」とうなる。とても照れくさいけど、ただ無言でお互いを見つめ合う時間が続いた。
そんな時、私は背後から足音を感じた。状況が状況なだけにただ足音が聞こえただけでも途轍もなく焦りが込み上げて、大袈裟に振り返った。でもそれは結局、犬を散歩させた女性で、泰輝くんであるわけもなかった。私は多少息を切らしながら「よかった」と胸を撫で下ろしながら言う。
「そういうビビリなとこかもしれないね。」
笠岡くんは私の膝に触れながら笑った。私も「ビビリとかやめてよ」と言いながら笑う。
「もう、花火終わっちゃいそうだから。歩こ。」
「うん。」
彼と一緒に立ち上がり、伸びをする。なんだか「私の弱さはどこ?」という質問の答えを濁された感も否めないが、仕方ないと思った。自覚していない私自身の弱さをはっきりと伝えられたとて、ショックを受けてしまうかもしれなかったからだ。
歩きながら、私たちは例の二人の様子を再度確認しておいた。彼女らはなぜか二人して靴を脱いで土手の先端部分に立ちながら水中に手先を沈ませる。まさか本当に入水するのではないかと半分緊張を感じながら、結局彼女らにはそんな度胸もないだろうと思った。
芳岡さんは、スカートのポケットから何十枚もの紙片を取り出した。それを二等分して片方を江田くんに渡し、もう片方を力強く握る。あれはおそらく意見箱に投函された大量の意見用紙、捨てたのではなくむしろ今日まで彼女は温めていた。なんだか私たちは特別な瞬間を目撃するような気持ちで立ち止まり、見つめる。
髪や木々を靡かせる風が吹いた時、二人の掌から全ての紙片が離れていった。彼女らはそれを川に叩きつけるように捨てたので、風にヒラヒラと舞うことなく垂直に落下し、そのまま自然と着水していく。こちらからは真っ白に見えるがその一枚一枚に陰湿な言葉たちが書かれた紙片は穏やかな水の流れによって水面を揺蕩うように流れていく。
二人は自慢げにそれらを見送った後、芳岡さんは江田くんに何かを言う。きっと「幸せだ。」なんてほざいていたのだろう。
大量の紙を河川に流すと、何処かしらで堆積して川の流れを妨げる。川の中の生物が誤って食べてしまう。インクやその他化学成分が水に溶け出してしまう。そして紙片に書かれた言葉を見れば、これを流したのが何処の学校の生徒か最も簡単に分かってしまい、クラスまとめて叱られる。個人的な感情、そして身勝手な行動は本人が想像する何倍も、他人に悪影響を与えるものだ。
「本当はもうね、止めるべきなんだよ。でも、」
彼は哀れな人たちを憂うようにそう言った。
「見て見ぬふりしよう。」
見て見ぬふりをされることの残酷さを笠岡くんは深く知っているはずだ。だから彼が私の手を引いて花火の方へ進もうとすることには、明確な悪意がある。でも、それでいいと強く思った。
上空の花火は終盤を迎え、惜しみなく光が溢れている。今頃泰輝くんは何をしているかと考える。彼も他の誰かと二人で花火を見ていたら、嬉しいとまでは言わないけどどこか安心した気持ちになりそう。もうなんの違和感もなく触れ続ける笠岡くんの手は滑り落ちそうなほど、さらりとしてまるで半紙のようだった。そして私は花火が終わる前に、さっき聞きそびれたことをもう一度聞いてみようと思う。
「ねえさっきの話だけど。私たちは結局幸せそうには見えないってこと?」
「そうだね。泰輝が山内の腕を引っ張り続けているみたいで。」
やっぱり、恋人が育む幸せにはあまりに多面性がありすぎて嫌になってしまう。どうして誰しもが幸せそうだと思える関係性に上手いことなれないのだろうか。私はなんだかやるせない気持ちになってくる。どうしても「幸せそうだ」とはっきり言ってもらいたくて堪らない。
「でもね、笠岡くんは最近泰輝くんともあんまり接してないから知らないかもしれないけど。笠岡くんが言ったみたいに弱さを強要したりはしないはずなの。」
私は繋いだ手を離した。彼は少し驚いた顔をしつつ、私の言葉に相槌を打つ。
「泰輝くんは少しでも強くなるために筋トレをしてて、最近私ですら分かるくらいに頼り甲斐のある体になったしね。夏休みになったら海に行こうって、彼の方から誘ってくれたり。むしろ弱さを隠しながら私に接してくれているよ。泰輝くんが水泳に参加できないってだけで、馬鹿にするクラスメイトもいてさ、それがどんだけ辛いことか私には想像もし得ないくらいだから。彼が強くなろうとするなら、私は弱さを泰輝くんと共有してあげようと思うの。」
私は自分が思う幸せを笠岡くんに熱弁した。さっき手を繋いでいたから説得力に欠けるけれど、やっぱり私は泰輝くんのことが好きなんだと痛感する。
「それとね。」
「うん。」
「私が相野さんに勝手に恨まれて、ハグの相手だとでっちあげられた時。とにかく苦しくて、相野さんへの憎しみとかをまとめて泰輝くんに話したの。そしたら泣きそうな顔をしていて、弱っている私のために本気で悲しんでくれたんだよ。」
あの時の泰輝くんの顔を思い出すと、今でも私が泣きそうになってしまう。笠岡くんの顔は暗くてよく見えない、けれども下唇を噛んでいるのだけは分かる。あの時、私のために悲しんでくれたことでどれだけ自分の心が楽になったか、どれだけ幸せだったか、あの時間だけは誰もが文句のつけようもない幸福だと強く思う。
「そりゃ本気で悲しむよ。恋人に憎しみの言葉をぶつけられたら。」
笠岡くんの言葉に私は違和感を抱く。
「え?違うよ。泰輝くんのことじゃなくて、相野さんへの憎しみを彼に打ち明けただけだよ。」
笠岡くんは再び私の手を繋いで笑う。何がおかしいのかちっとも分からない。それと花火は多分もう、終了した。何事もなかったかのように、いつも通りの夜空へと戻っている。
「相野が山内にしたこと。身勝手な理由でありもしない噂を流した。泰輝も僕に全く同じことをしました。」
「どう言うこと、、」
彼の指が私の指に絡み込んでゆく。ただ彼の言葉の真意に気を取られて、拒否する神経が私の手先には無かった。
「僕も泰輝に嫉妬されて、勝手に憎まれて。山内はハグの相手だけど僕は窃盗犯にでっち上げられて、そういう卑劣な人間だと書き換えられた。そしてなぜか無関係の人にも殴られた。」
「ねえ、、そんな。どうして、、、」
「僕が体育に参加するようになって、自分と同類の人間が居なくなって苦しかったと思う。その気持ちは分かるけど、だからといって僕を苦しめようとするのは違うよね。」
彼が見て見ぬふりをされる苦痛を誰よりも知っているように、私はでっち上げられることの苦痛を痛感している。そして同時に相野への憎しみも体感した。
「相野と泰輝はその面では全くの同類。だから山内が言う憎しみの言葉はそのまま泰輝の心に刺さっていく。それが泣くほど辛いんだろうね。」
笠岡くんの変わらぬ冷静さが、今はたまらなく冷たく感じてしまう。
「だから、そんな自分が可哀想で。全部、自分のために悲しんだんだと思う。」
「私のためじゃない?」
「そうだね。」
ああ、とても辛くて虚しくて。私は幻想を愛おしく思い、抱きしめ続けていたのだと理解する。あの刹那、泰輝くんのあの込み上げていた涙は間違いなく私のためだけにあると思っていた。でも、それが単なる勘違いであった。そうなってしまえば、私たちが幸せな恋人だと信じる頼みの綱はなくなり、とうとう私の心に残るのは石灰化した泰輝くんへの愛情だけだった。結局私たちにも他人にお手本として示せるような立派な幸福感なんてものはなかった。
「なんかじゃあもう、私たちは幸せじゃなかったね。」
私はまるで泣くように呟く。あまりに心が空白で涙が出るほどの潤いすらないような気分だった。私の言葉が地面に落ちると彼はさらに恋人みたく私の手を握る。それが優しさの塊だと感じた。温もりがあって心地良い。
「もしそんなに幸せにこだわるのなら、僕でもいいんじゃない?」
私は彼の言葉にそれほど驚かなかった。むしろそう言ってくれるだろうということが雰囲気から漠然と感じ取れた。
「急に思ったんじゃないよ?ずっと好きだった。」
「私のどういうところが好き?」
私はあえて彼の目を見つめてそうやって聞いてみる。もう心が乱されてヤケクソな気分だった。
「難しいね、でも。幼馴染じゃなかったらもっと早くに好きって言ってたと思う。一目惚れしていたから、本当はずっと二人きりになりたかったんだよ。」
「そうなんだね。気づかなかったよ。」
私の心は小刻みに揺れている。こんなつもりで笠岡くんを花火に誘ったのではないと思いつつも、もっと笠岡くんと近づいて離したくない。彼の手を離したらもう三人がバラバラになってしまう気がした。今、目の前に分かれ道が迫っていて二人のどちらかを選んで先に進まなくてはいけないとして、私たちはある意味被害者同士だから本能的に共鳴する。
「僕でもいい?ダメじゃないよね。」
彼はまた私の手を引いて歩き出す。花火が終わってしまって何に向かって歩いているのか分からないけど、ただひたすらに逃げている。幼馴染として花火を見た地点から、告白された地点へ、そして体を密着させるつもりの地点へ。
「ダメなんてもう言えないよ。」
彼は鼻先が触れそうな距離で笑う。私の感情は川の水のように流れていく。人の幸せがどうとか、逃避は醜いものだとか、いろいろ言ってきたけど私だって幸せがどんなものなのかちっともわかっていないし、浮気という強烈な逃避行を進行中だ。結局、幸せに正解なんて無いんだと今更になって理解する。あの二人も、そして山田さんと安部先生も特殊な幸せ。私も異形の幸せを今、手に入れようとしている。
「笠岡くん今どこ目指して歩いてるの?」
「ハグできる場所を探してる。」
私は吹き出して笑い「そんなの何処だっていいんだよ。」と言った。単なる川沿いの道路だってハグをしてしまえば、そこが後に特別な場所になる。
「じゃあ、ハグしてもいい?」
「うん、いいよ。」
「本当にいい?」
「いいってば。」
相野と泰輝くんは加害者。私と笠岡くんは被害者。それぞれが交わることなく、痛みを知り合う同胞として私は笠岡くんを選んだ。
「でも、こんなところを泰輝くんに見られたら川に突き落とされるね。」
「僕だってそうだよ。相野に見つかったら刺されちゃう。」
確かな不安感があるけれど、私たちは電柱の横、何も映えないアスファルトの上でハグをした。仮に通行人が川の向こう側に歩いていて、私たちの姿を見ていたら「気色悪い」と思うかもしれない。誰しもがその通行人であり、そして同時に誰しもが「気色悪い」恋人になりうる。
彼の身体から温かな温度、爽やかな香りが伝わって私は嬉しくなる。同時に彼にも同じように私の身体を気に入って欲しくて、もう一度身体を寄せ直した。涼しい風でお互いの肌はサラサラと乾いていたが「しっとり」としたハグをした。
「どうしてこう、私たちは普通の恋人では居られないんだろうね。」
盲目的で危険なほど愛する人、教師と抱き合う人、お互いを心酔しあい情死しかねない人、そして幼馴染と浮気する私。なぜかシンプルではなく、皆が独特な恋を自ら選んでしまう。
「普通なんかじゃ、幸せにはなれないからだよ。」
「幸せって、難しいのね。」
でも、幸せはある日突然触れることが出来たりもする。他人の目を気にしないようになって浮遊した先に幸せはあるものだ。
「あ、ねえそうだ。明日新曲がサブスクで聴けるようになるよ。」
彼は私の身体を抱きしめたままそう言った。私は「やった」と素直に喜びを口にした。アイラはもはや私にとってはスターで、いつか有名になった時に私が一番最初のファンだったと自慢できるだなんて妄想を勝手に抱いている。
「曲名は?なんていうの?」
「エヴァジオン」
「えゔぁじおん??それどういう意味?」
「意味なんてないよ。」
「なんだそれ」と私は笑う。その後もこんなに水量の少ない川のせせらぎすら、耳障りに聞こえるほどに私たちはただ黙って身体を通して愛情を交換し合う。羽毛布団にくるまる真冬の早朝みたいに、あと少しだけ、数秒だけを繰り返して結局離れない。横目で見る川の土手に生えた夏草は風で一斉に靡いていて、私もあそこに寝そべりたいと、思ってしまった。
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