第6話 山田夜月
私の友達、相野紗夜はフードコートがとにかく大好きだ。そして毎回おんなじものを頼む。一週間前も味わったはずなのに、まるで初めて食べたような新鮮なリアクションでそれを称している。私はそんな紗夜の生き方が楽しそうだなって羨ましく思うこともあるけれど、同時に疲れないのかなとも思う。なんかこう、ありとあらゆるものに一喜一憂してて頭の中が休まる瞬間というものがなさそう。
「んん~!美味しい!」
紗夜は湯気の立ったたこ焼きを頬張る。本当に美味しそうに食べるなって今日も見てて思った。
「なんか食べたの久しぶりの気がするなあ。」
「そんなことないよ、一週間前に食べてたよ。」
「ああそうだっけ~」と言いながらまたもう一個口に入れて熱そうにしてる。よく飽きないなあ、今日はいつも以上に次のたこ焼きに移るまでの時間が短い。
「今日も美味しい?」
「うん!一個食べる?って言おうとしたけどもう一個しか残ってなかったわ。」
紗夜はそう言ってニコッと笑った、不意にもちょっと可愛いなと思った。
この時間帯のフードコートは他校の高校生も沢山たむろしていて、隣のゲームセンターからも放課後の小学生が遊んでいるから割と騒がしい。私の好きなアーティストの曲が店内の有線でせっかく流れているのにあんまり聞こえないまま終わってしまいそう、ああもうちゃんと聞きたかった。
私の好きな曲が鳴り止んだ後、また次の曲がシンバルの音から始まる。
「ああこの曲好きなの!」
紗夜はプラスチックのコップを握りながらそう言う。
「えー、私知らないかも。」
「なんかさ、こういうお店で自分の好きな曲が流れたとき嬉しくない?自分の曲みたいに誇らしくなる。」
「確かに、分かる。」
「ちゃんと聞いててね、めっちゃいい曲だから。」
紗夜がそうやって念を押すから、その曲のサビらしき部分をしっかりと聞いてみる。なんか涼しげな夏みたいな聴き心地のいいメロディーではあったけど、それほど山場がないというか、単調で盛り上がりに欠けるというか、まあそういう曲のジャンルなんだろうけど、イマイチ印象に残りずらい曲だった。
「あ、ねえねえねえね!」
「ん?」
「この前さ家族でお墓参りに行ったんだけどね。」
流れる曲を私はまだ聴いてたのに紗夜が急にお喋りのスイッチをオンにした。
「え、この曲はいいの?ちゃんと聞かなくて。」
「うん、まあいいや。」
「いいんかい。」
紗夜の自由奔放な会話の切り返しに思わず笑ってしまいそうになる。
「んでこの前東北にお墓参り行った時ね、色々お花供えたりお水かけたりしてさ全部終わった後になんか一日くらい学校休んで一日中ここにいてみたいなって思った。」
「ほう、、、分かるようで分からないかも。」
「なんか、ねえ離れたくないっていうか、私もここから見守ってたいというかさ。」
「独特な感性だね。」
紗夜の世界観に引き摺り込まれている間にオススメの曲は終わってしまう。多分紗夜は終わったことすらも気づいていないはず。
「墓参りなんか全然行ってないなあ。」
「そっかあ。」
私は朧げながら頭の中にかろうじで浮かんできた墓石と周りの風景を眺める。確か結構山の中で、深い緑の木々が揺れてて、周りよりも随分でっかい墓石で「私の先祖って見えっぱりだな」って昔思ったんだった。
「あ、てかねえ聞いて?」
「ん?えどうしたの?」
紗夜はまた、やけに落ち着きもなく私に呼びかける。
「中央線私毎日使ってるんだけど、めっちゃ揺れる所あるよね。田舎のレトロ列車くらい。」
「え、あ、うん。確かにそうだね。」
私は頭の中から黒い墓石を一旦消してオレンジ色の中央線の列車にシフトチェンジさせる。今日の紗夜いつもに増してすっごいなって思う、何がって言うと会話の切り出し方が。思うがままに話題を変えるからついていくのに必死だ。今日はそれがあまりにも顕著すぎる。
「紗夜なんか良いことあった?テンション高いね。」
「え~、分かる~?」
紗夜はニヤニヤしながら私の方を見てる。ああそう言うことか、何となく理解をした。もしかしたら私にこうやって聞いてもらうためにわざと乱脈な会話をしてたのかも知れない。
「笠岡くん?となんかあった?」
「実はそうなんです。」
私の予想は当たっていた。紗夜の笑顔とか声のトーンとか愛想とか、まあ機嫌そのものが笠岡くんに左右されている。
「ちょっとたこ焼き四個入りのやつもう一回買う。」
「ええー。」
「今日はこれじゃ足りない。」
「相当良いことあったのね。」
紗夜は席を立って財布を握りしめて、たこ焼き屋に再度向かう。私とそして紗夜の大きなギターケースが残されていた。
笠岡くん、今クラスで話題の笠岡くん。紗夜はいつだったか笠岡くんが憧れだって言ってた、あの時の目は漫画みたいに輝いていた。ごめんけど私には分からない、笠岡くんに憧れるって気持ちがちっとも分かりやしない。まあ私がどう思うかは、あの二人に何にも関係ないんだけど。
紗夜は数分してさっきと全くおんなじトッピングのたこ焼きを買って戻ってきた。一度好きになったらもうそれしか眼中にないんだろうな。
「お待たせ、本当に今日のことはちょっと聞いてほしい。」
「うん、聞かせて。」
紗夜は椅子を引いて私に顔を近づける、ずっと笑みが口角に現れたまんまだ。本当に青春映画のヒロインみたいだ、良い意味で大袈裟に感情というものが紗夜の行動に作用している。
「今日ね久しぶりに笠岡くんと放送室に居れたんだけど。」
「あ、そうだったんだ。」
紗夜は定期的に笠岡くんと一緒にギターを弾いているらしい。ギターケースを背負って登校した朝は決まって今日くらい話題が高速変動する、ウキウキしててもう止まらない。
「笠岡くんが正しいコードの押さえ方を教えてくれたんだけど、その時に私の指の上から「こうだよ」って教えてくれて、まずその時点で笠岡くんの手がギュッて触れてたし。」
「うん、うん。」
「んで教えるの終わった後も笠岡くん私のすぐ後ろにさ、ずっとバックハグする時みたいな感じで座ってたんだよ。」
紗夜は立ち上がって「こんな感じだよ」って私の後ろに立って体を密着させる。私は周りの目が気になるけれど全然お構いなしみたいだ。でもこんな状態で好きな人とずっといたら私だってこんくらい舞い上がってしまうだろう。
「私付き合えちゃうかもなあ笠岡くんと。」
ようやく私の向かいの席に座って願望と確信のちょうど中間みたいな言い方をする。最近、笠岡くんにあんなことがあったから紗夜はずっとテンションが低かったのに。笠岡くんも荷が重いだろうな、意図せずとも一人の機嫌を操作してしまうのは。
紗夜は本当に私の前と笠岡くんの前だと別人みたいになる。臆病さが五倍増しくらいになっちゃう。多分たこ焼きだって二、三個で箸を止めるはず。早く告白しちゃえば良いのにと思う。だって多分もう、笠岡くんも紗夜のこと好きだ、まあ分からないけど。笠岡くんだって誰か他の人に取られちゃうかも知れない。
「とりあえず告白してみたら?」
「いやあ、、私からは無理よ絶対。」
ああなんか焦ったいなって思う。オチのない話をずっと聞かされているような気分だ。紗夜は間違いなく女子として可愛い部類に入るし、愛嬌もあるし、ちょっと行き過ぎなくらいだけど天真爛漫だし、こう言っちゃ何だけど笠岡くんレベルならイケるだろう普通に。
フードコートで喋り始めてもう既に一時間半が経って、小学生の姿は段々と見えなくなってくる。代わりに大学生とかそういう年齢層の人たちが次々と入ってきた。
「笠岡くん今頃何してるかな~。」
紗夜は両手の上に顎を乗っけてそんなことを言う。
「宿題でもやってんじゃない?」
私も紗夜に釣られて考えてみる。今頃何してるかな、難しそうな本読んだり、明日の授業の準備をしたり、あとシミの付いた白衣を洗濯したりしてるのかな。
安部先生は今どんなことを考えているんだろう。
元来私も紗夜にあーだこうだ言えるほど、度胸があるかって言われたら自信を持ってハイとは答えられないけれど、たまに異常なほどの決断力を手にすることもある。安部先生をただ好きなだけの生徒じゃなくなった時もきっと、そのうちのひとつだ。
前に教室で紗夜にも聞いたから私も自分で考えてみよう。安部先生のどんなところが好きか。見た目、声質、クールな雰囲気。まずは他のクラスメイトも言いそうな極々一般的な要素が頭の中にポンポン浮かんでくる。でもやっぱり一番は教師として失格なこと平気でしちゃう所が好きだ。
私は安部先生と四回ハグをしたことがある。休み時間に一回、放課後に三回。理科室で三回、渡り廊下で一回。私から一回、安部先生から三回。先生とハグをする時は毎回、私はちょっと背伸びして先生の肩に顎を乗っけてる。こんなときクラスメイト相手なら制汗剤とか柔軟剤とかの香りがするんだろうけど、先生はタバコの匂い一色だ。私はタバコの匂いと少しの優越感を味わいながらハグをする。そして大体数十秒、充分に堪能しきったら体を触れ合わすのをやめにする。常に罪悪感っていうものもないわけじゃない。多分先生よりも私の方がそれを感じてる。だって離れるのは毎回私からなんだもん。教師と生徒がハグすることって無論、タブーだけども、安倍先生が教師として失格だから許してくれる。
夕日が差し込む教室で教師と生徒、二人分の影が一つに纏まり合うなんて、実際問題ありえないことが起きていて、まるでアニメの主人公と現実で恋愛してるような新しい感情を抱くことが私は出来る。
でもハグの先にある行為とか、先生と一緒に下校したりとか、そういうことはまだ一度もした事がない。ハグが終われば先生はあっさりと単なる教師へと変わってしまう。それが私は少し寂しくもあるし、先生はただ十七歳とハグさえできればよくて私じゃなくても良いって思ってるんじゃないかと考えてしまうこともある。
ただ私と一回目のハグをしたあの日を境に、あんなにも綺麗好きだった安倍先生は理科準備室をぐちゃぐちゃに散らかすようになったし、私以外のクラスメイトをさん付けして呼ぶようになった、でも私には下の名前だ。それは私が安倍先生にとってただの抱き枕じゃないと信じる心の支えとして十分役に立った。
私が隠しているこの事を包み隠さず明かしたら、私の向かいの席に座る青春漫画のヒロインちゃんはきっと変な躊躇を捨てて笠岡くんに告白しにいくんだと思う。恋愛で悩んでいる人はみんな私を見たらいい。私に比べたらそこに潜むリスクなんてあってないようなものだ。
「あ~、笠岡きゅん、、」
と脱いだブレザーで顔を覆いながらウダウダと言っている。紗夜は一体有線の何曲分、笠岡くんの事を思い続けたら気が済むんだろう。私はもう三ヶ月分くらいの「好き」って言葉を紗夜から聞いてしまった気がする。紗夜は高校生活を不変的でいつまでも続くものだと勘違いしている。明日誰ががクラスからいなくなっても別におかしくはないのに。
「実は私ね、安部先生と抱き合ったことあるんだ。」って言ってみたい。誰かしらに私と先生の秘密をバラされてみたい。でもきっとみんなには引かれるだろうし、何よりもそんなことになったら安部先生の教員人生があっけなく崩壊してしまうので、誰にも言えない。
「本当に笠岡くんのこと好きだね~。」
私がそう言うと、紗夜は「あげる。」と言って最後のたこ焼きを食べさせてくれた。うん、まあ確かに美味しい。でも濃いから一個で充分だ。
「応援してね、私のこと。」
「当たり前じゃん。」
私よりも数段甘い確率のギャンブルをしているんだから、安心して笠岡くんに向き合えばいい。紗夜と過ごしていると、とてつもないスピードで時間が過ぎる、それほどに居心地がいいのだ。こういう時に紗夜は確かに大切な友達だと実感する。もうウダウダ言ってないで早いところ笠岡くんに告白して、そんで付き合ってくれれば私もすごく助かる。
笠岡くんは二週間ほど前から、私たちが抱き合うための領域に度々訪れるようになった。昼休みや放課後、笠岡くんは軽々と音を立てながら扉を真横にスライドさせる。私も毎日ではないけれど、第二理科室に足を運ぶことは多いから、幾度となく彼の扉を開ける後ろ姿を見たわけだ。彼は毎回、全く同じ強さで扉を開ける、後ろで誰かが見ているなんてそんなこと何にも気にせずに開ける。まるで自分の居場所みたいに勘違いしてるように私は思えた。なぜ彼はここに来るのか、そしてどうすれば彼は来なくなるのか、それがあまりにも分からなくて邪魔者にはっきりと邪魔って言えないことがもどかしかった。私は本当に笠岡くんと安部先生がいかがわしい関係じゃないかって疑うこともあった。安部先生ってまさかの男もイケるタイプ?って。一人で理科室の扉をさすりながら頭のキャパシティいっぱいに色んな可能性を考えて、騒がしい教室に戻らなくちゃいけない。
「うっざい、笠岡。」
一人でしか言えない言葉を扉にぶつけてから、仕方なく教室に戻った。この時ばかりはダラダラと笠岡くんとの出来事を語る紗夜と話す時間、授業中みたいに長く感じた。
結局笠岡くんは推定二週間、安部先生に会いに来ることを辞めなかった。それはつまり私には二週間、二人きりの時間が与えられなかったと言うことだ。笠岡くんはたまにギターケースを背負って私の友達と理科室の逆方向へと歩いていく。友達は彼を「憧れ」だと言う。私は心の中でそれをあしらって彼を「邪魔者」だと思う。それでも紗夜のことは嫌いにならなかった、まるで親友みたいだと思った。私の毎日はその間空っぽだった、夏休み中のロッカーのように。
もう本当に、何の用があって安部先生に会いに行っていたのだろう。セッションもたまにじゃなくて明日も明後日もその先もずっと二人で放送室に篭っておけばいいのにと思った。
そんな笠岡くんは一週間ほど前から暴行事件の被害者として少なからず悪い意味でクラスメイトからの注目を浴びている。私は今回のことに関して詳しいことは知らなくてどうやら陸上部の江田くんが殴ったらしいとしか知らない。どういう経緯で発覚してみんなに広まったのか、それも分からない。でも紗夜には申し訳ないけれど、今回の件を聞いた時少しだけワクワクした。だって平和が校訓みたいなそんな高校だから。だけど当の本人達はなんか謹慎になったり、学校を休みがちになったり、そんな風に変わった様子は何にも見せていない。江田くんは少し元気がないように見えなくもないけど、笠岡くんはそのまんまだ。クラスの輪にかろうじで入るか入らないかの立ち位置でただただそこにいる。本件が解決した事なのか、まだこれからなのか曖昧な雰囲気が蔓延っているけど、どちらにしても大ごとにはしたくないという当事者達の気持ちを感じ取れる。
まあ別に笠岡くんが殴られたとか、それ自体はどうでもいい事だ。でも紗夜は言う。
「明日も笠岡くんと放課後ギター弾けることになったんだよ。私がね相談役になるの。」
要するに明日の放課後、笠岡くんは百%第二理科室に来ない。だから私は紗夜の恋を全力で応援しているんだ。邪魔者を放送室へと引っ張っていく存在、それは物凄く有難くて、助かる。付き合ってくれたら尚更だ。
夜の八時を過ぎて、フードコートにも静けさが取り戻される頃が放課後の終了時間だ。そろそろ帰らなくてはあとで親にごちゃごちゃ言われてしまう。私のお母さんは、ねちっこいからもううんざりする。そんでつい感情が表情に出ちゃってそれに対しても「鬱陶しいなって顔してる。」って説教のネクストステージに突入する。
紗夜も家の門限がおんなじようなもんだから、大体この時間に解散になる。
「じゃあ駅まで一緒に帰ろー。」
紗夜はゴミ箱にいろんなゴミをまとめて捨てた後、そうやって言った。でも今日に限っては、私はまだちょっと帰れない。
「ごめん、今日ペットの餌とか色々買わなくちゃいけないからここで解散で。」
「そっか、時間もあれだからここでバイバイか。」
「うん、また明日。」
「また明日。」
まあウチのペットの犬は一ヶ月前亡くなっちゃたんだけどね。だから私が向かうのはペット関連の店ではなくてフードコートの隣にあるゲームセンターだ。
この時間にもなるとゲーセンはちょっとヤンチャそうな中学生グループと、それらを警戒しながら子供を遊ばせる家族連れがちらほらいるくらい。私はリュックから財布を取り出して百円玉が少なくとも十枚はあることを確認した。それをギュッて握りしめながら、早歩きになっちゃったりして。深夜のネオン街に入っていくような気分でいながら、二十時十五分のゲームセンターの奥の方へと進んだ。
しょぼめのカジノくらいに眩しいメダルゲームとか、あと定番のマリオカートとか、その他いろんなのを通り過ぎて私はUFOキャッチャーゾーンで足を止めた。
「どーれがいいかな。」
私は小声で呟いた。一階のスーパーで百円そこらで売ってるお菓子の巨大バージョンとか、どの層に刺さるのか分からない可愛くないキーホルダーとかそんなんばっかりだ。なんかもっとこう流行を取り入れたりしないものか、中高生はこんなボトルのあたりめなんかには惹かれない。大きめの溜息が自然と溢れでた。お母さんにあとでぐちぐち言われることが確定している中でわざわざ時間を割いてゲーセンに足を運んだんだから、迷っちゃうくらい魅力的なものがあればいいと思う。
私はUFOキャッチャーのガラス越しからヤンチャな中学生グループが向こうの台をプレイしながらはしゃいでるのを見た。純粋無垢で根は悪い子達じゃない感が滲み出てると思う。結局この辺りに本物のヤンキーなんていないと思う、少なくとも私は見たこともない。所詮、中学生がたまにヤンチャの皮を被る程度の地域である。
「でもなんかあれ良さそう。」私がそう思うと同時に彼らは他のゲームに気を惹かれたみたいで、その台を後にした。ラッキーと思いながら私はそっちに行く。
私が気になったのは今流行ってるキャラクターのふわふわバックだ。ちょうど良いのがあったと私は微笑む。取りやすいかどうかは知らんけどあんまり時間もないことだし、とりあえず百円玉を入れてトライしてみる。
スタートボタンを押すとクレーンがカタついた動きで作動し始める。そんで私は中腰になったり、別の角度から見たり、たっぷり時間をかけてベストタイミングを見計らってもう一度ボタンを押す。そしたらクレーンはゆらゆらとゆっくり垂直落下した。「上手くいったはずなんだよな」って思いながらあまりに頼りなく落ちてくそのクレーンを眺める。クレーンの先っちょがバックの手提げ部分に引っかかった。本当にイケそうだ、このままヒョイっと持ち上げてくれれば絶対取れる。
でもクレーンはバックを持ち上げれないほどにか弱かった。ネジがもう緩みに緩みまくってる。思わせぶりじゃんって私は思う。ああもどかしい、紗夜の恋愛よりももどかしいわ。今一瞬だけ持ち上がったふわふわバックは最初よりも数センチだけ穴のほうに近づいた。ひょっとしたらこれ、あと数十回やったらその度、数十センチ穴に近づいていつかポトっと落ちるんじゃないかって、高校生のくせして大富豪みたいなやり方を考える。
まあいずれにしろ私がもう百円入れないと話は始まらない。なぜか私はなんの躊躇もなく五百円玉を入れてしまった。
でもなんで私がこんなにUFOキャッチャーに本気になっているのか、それをもう一度自分の中で明らかにしとかないと、ただお金を浪費してるだけの人間になってしまうからやる前に考えておこう。
明日私は久しぶりに安部先生と二人きりで会うわけだ。でも嬉しさの上に緊張が当たり前のように乗っかってろくに会話もできないと思う。そしたら途轍もなく気まずい空気が流れて、もう理科室から逃げ出したくなっちゃうはずだ。私は一ヶ月も会わなければ人見知りを発症しちゃうタイプの人間だからこのような最悪なシチュエーションが容易に想像できてしまう。
このふわふわバックを頑張ってゲットして明日学校に持っていって、んで安部先生の前でこれを出して「昨日頑張って取ったんです。よかったら先生にプレゼントしたいです。」って差し出したら、女子高生らしくて自分で言うのもなんだけどすごく可愛らしいと思う。一気にこう、場の雰囲気も良くなるし、そのあと円滑におしゃべりできる気がする。
で、もし今日これからお金を突っ込んで、どんだけ頑張っても取れなかったとしても、「昨日UFOキャッチャーでふわふわしたバックがどうしても取りたくて三千円も使っちゃったんです。」って会話のネタにしたら、それはそれで可愛い。安部先生はどう思うか分からないけどきっと笑ってくれると思う。とにかく私は女子高生らしい可愛さを手土産に明日安部先生に会いに行きたいと言うこと。
五百円玉を入れたらどうやら六回できるみたいだ。私はとりあえず二度めのトライをする。さっきみたいに上下左右、四方からバックに焦点を合わせて念じるようにボタンを押した。
でも普通に取れない。ああやっぱりクレーンか弱い。二、三センチ穴のほうに近づけただけなのに、さもやってやったみたいな様子で定位置に戻っている。
気を取り直して三回目は一周回ってテキトーなタイミングでボタンを押してみる。どうせ私はセンスないからこれでも変わんないんじゃないかって。そう思ったけどクレーンはふわふわバックの隅を掠めただけで今度は持ち上げもしなかった。実力勝負だってことが分かって逆に嫌になる。このバック普通にお店で買っても三百円以上はするよね?多分まだ損はしていないはず。
結局四回目、五回目、六回目、七回目は流れるようになんの見せ場もなく終わってしまう。私はワイシャツの裾をキュッと握る。最初からこうなること分かっていたような気がする。だってUFOキャッチャーで得した記憶なんて一度もないんだもん。自分の変な意志の強さを実感する。メダルゲームゾーンから陽気な音楽と、うざったい光が耳と目に届く。もういいよ、財布のお金が尽きるまでやってやる。
店員さんが後ろを通るたびにちょっとだけ恥ずかしくなりつつ、再度挑戦した。もしふわふわバックが穴に落下したらパンパカパーンっておめでとうのファンファーレがなる仕組みだったら良いのに。メダルゲームはずるい、メダルが落ちたらこっちまで聞こえるくらい立派な音がなるんだから。
結局、私は財布の中の四千円を使い切った。結局、ふわふわバックは取れなかった。そして結局、まだ楽しそうにはしゃぐ中学生グループを睨みながらゲーセンを後にして、結局、大損をした。私は本当にヘッタクソなギャンブラーだ、今日に限っては。ああ、UFOキャッチャーってすごい恐ろしい。
お母さんは私を当たり前に叱る。ぐうの音も出ない、お金を盛大に無駄にしたのだから「帰るの遅い」くらいの説教はちゃんと受け入れてみよう、無駄に長いだろうけど。お母さんはギャンブルが大嫌いだ、対照的にお父さんはギャンブルが三度の飯よりも好きだ。お母さん似だって散々親戚とかに言われて育った私に存在するお父さんの面影はギャンブル気質なことぐらい、これが良いのか悪いのか分からないけれど。
私はさっさとご飯を食べて、お風呂に入って明日の準備をする。手土産、私の心の中にしかないなって思う。きちんと言葉でこれを渡すことができるだろうか。
「はやく寝ちゃいなさいよ。」
私の部屋に届くお母さんの声はまだ不機嫌だ。きっと明日の朝もそうだろう。そうやって考えるだけでまた寝つきが悪くなりそう。お母さんの声は私の耳にベタッとくっついたまんま剥がれない。だから安部先生みたくサラサラした声が何よりも心地いいんだ。
真っ暗な部屋の中でベットに横になって、扇風機の首が回るカクカクした音が聞こえる。涼しくて気持ちがいけど、ちょっと音が気になる。今目を閉じた刹那に、朝になっちゃえば良いって思う。でもそんな事起きようもなくて私は頑張って寝ようとする、必死になって寝る。若さは何よりの睡眠導入剤だ、こんなに考え事してても時間が経つにつれて眠気が自然と私の体全体を包み込んだ。
朝、教室に着くと、カーテン横の隙間に二つのギターケースが立てかけてあった。紗夜はそれをチラチラとみて微笑んでる。彼女が笠岡くんに対して積極的になればなるほど、私と安部先生はその分幸せになれる気がする。だからもっと頑張って、紗夜。一方笠岡くんはスマホのちっさい画面で楽譜を見ながら指を動かしている。二人の温度差は上手い具合に調和していると、私は思ってる。
担任の黒田先生は指先だけでそっと教室のドアを開けた、ああ今日は少し機嫌が悪い。なんだろう、仕事でも立て込んでいるのかな。まあどうでもいいか。まるでお母さんみたい、私情を両脇に大量に抱えれてそっけない態度とかを見せる。もう飽き飽きだ、こんな人には。
私の右横に座ってる楠木くんも黒田先生にうんざりしたような表情を見せていた。楠木くん、プールの授業で毎回見学しているから、たまにプールサイドのベンチで隣になることもあって変に印象に残ってる。でもそれ以外は彼のことを何も知らない。
二時間目と三時間目の間の休み時間に私は座ってる紗夜に近づいて
「楽しみ?放課後。」
と聞いてみる。紗夜は無垢な笑顔を見せた後に、「当たり前じゃん」と言った。そして「今日一緒に帰れなくてごめんね。」と両手を合わせて謝ってた。
「大丈夫よ、私のことは気にしないでね。」
本当に私の心配なんてする必要ないんだ、ただ自分の恋愛に集中しててね。でも紗夜は私のことをどう思ってるんだろう、相手が相手だから私自身の恋愛に関して何一つ話せない。だからってクラスメイトの誰かしらを好きなんだって雑な嘘をつくわけにもいかないから、ただ恋愛に無頓着だと思われているかもしれない。
先生とのハグを成功させても、紗夜はもちろん、親にも他の友達にも喜びを共有することができない。それが辛いことだと思う日もある、私はとんでもないことを成し遂げているはずなのに。ああ、昨日のゲーセンみたいだ。紗夜は当たりやすくとにかくド派手なメダルゲームを友達と遊んでる。私はその端っこで激ムズのUFOキャッチャーに一人で格闘してるんだ。景品を獲得しても誰も気付きやしない。
「笠岡、ちょっといい?」
そんなことを考えているときに、変わらずスマホを眺める笠岡くんに誰かが声をかけた。一瞬で分かった、それは江田くんだった。
「別に良いけど。」
笠岡くんは席を立って二人で廊下の奥の方へと消えてゆく。クラスのみんなは明らかに動揺してざわついている。「え?大丈夫なの?」「やばそー。」とか「第二次決戦?」だとかごちゃごちゃ喋ってる。私は紗夜の表情を確認しようとした、こういう時どう思うんだろうって。
紗夜、めっちゃ笑ってた。え?なんで?どうして?
どっちかと言ったら怒るべきじゃないのか、「二人のことはそっとしておいてやれ」って。でも紗夜は苦笑いでもなく、ちゃんと笑ってた。まるで今の状況を面白がるみたいに。なんか紗夜って言い方悪いけどもっと単純な人だと思ってた。笑うべきところで笑って、泣くべきところで泣いて、そして怒るべきところで怒って。
「夜月はこう言う時何にも言わないよね。」
そして急に口を開く。
「え?」
「だから好き。変に心配するより何十倍もマシ。」
「ああ、ありがとう。」
紗夜の感情が読めなかったのは、この時が初めてだった。別に笠岡くんのことを気遣って何も言わなかったわけじゃない、ただ紗夜の表情に驚いただけ。
結局、授業が始まるまでに二人はちゃんと戻ってきて、また何事もなかったかのように各々の席に戻った。
授業の時間は放課後のためのCMに過ぎない、放課後を存在させるために仕方なしに挟まっているだけのものだ。だからどれだけ面白くしようと工夫しても限界がある。
教室の窓は全部閉め切られて、エアコンから人工の微風が素肌にあたる。もう本当の夏だと言うことが外の景色全てから感じることができる。そういえば明日はプールだ、髪ギシギシになるし、日焼けもするしずっと見学してたい。でも女子だからと言ってずっと見学できるわけじゃない、私の嘘にも限界があるんだ。
ただ私のこんな思いが贅沢なものだってことも分かってる、右横には楠木くんがいるんだから。さっきも言ったけど彼は毎回、プールの授業を見学している。プールサイドのベンチは女子5人に男子1人とかだから肩身狭いだろうなって側から見てても思う。彼の青いプールに対する目線は明らかに私たちとは違う。羨望と絶望の両方が混ざり合った非常に複雑なものだ。どんな事情があって見学しているのかは知らないけど、彼の横で「プールだるいからサボった」なんて抜かしたら普通に殴られそうな気がする。
体育の先生は授業中、日光で熱くなったプールサイドにバケツでプールの水をすくって打ち水を何回かする。ベンチは日陰だけど十分に熱々だから、私の足元にも水は流れる。私たちは濡れないように足を上げて水を避けるけど、楠木くんはじっと動かずに足を濡らす。彼は子供みたく微小の水で遊んでるように見える、私の勘違いかもしれないけれど。
授業が終わるとみんなはタオルで濡れた体を拭いて、更衣室へと戻っていく。見学者は先生と一緒にビート板の後片付けやプールサイドの掃除を軽く手伝ってから、みんながいなくなった後でプールサイドから出る。
そして更衣室までの階段は他の人の声がすごく響いてくる。なので、ある程度の距離からでも他の人の会話ってものはこちらまで聞こえてしまう。
「泰輝ってさ、体に水掛かったら死ぬんかね。」
「オモロそれ。」
「一回ぐらい入れよなアイツ。」
そんな中々に酷い言葉は私の耳に届く、楠木くんの耳にも当たり前のように。彼は一瞬だけ階段のスロープを左手で掴んで止まった。聞こえちゃったんだなって私は思って心が痛かった。だけど濡れた素足でペタペタと音を立てながらもう一度階段を下り始める。ああ、聞こえないふりしてると私は感じる。見たくない、不憫すぎて見てらんない。楠木くんは本当に可哀想だよ、こんな私の同情なんてなんの役にも立たないだろうけど、彼の横顔を見てるとふと思い出す。
本日最後のチャイムが鳴って、私は結局白紙のノートを閉じる。まあ仕方ない、今日はこんなことどうだって良い。やっと長いCM終わった、これからが本編だ。
黒田先生がエアコンからの冷気を寒がりながら帰りのホームルームのために教室に戻ってきた。今日だって大した話は無くて、掃除当番の確認や明日提出の書類を持ってくるように言うくらいだった。私はそんなんを全部聞き流している、紗夜もきっとそう。
「さようなら~、また明日。」
黒田先生の声でクラスメイトはあちこちに散らばってゆく、部活や委員会がどうのこうの言いながら。そして紗夜はカーテン横の隙間に行って自分のギターだけを取りに行った。どうせなら笠岡くんの分も取ってあげれば良いのにって思ってたら紗夜は私のところに来た。
「行ってくるよ!まじウキウキしてる!」
「見てりゃわかるよ。」
紗夜はギターケースの肩掛けのところをギュッて握ってまたヒロインみたいな顔してこっちを見てる。
「良い報告期待してるよ。」
「う~ん、それはなんとも言えないけどぉ、、」
「すぐそうやってしょぼんとするんだから。」
「しょうがないよ。」
紗夜の後ろの方で笠岡くんも、のそッと動き出してギターを背負ってた。こっからは私はもう邪魔者だ、そそくさと離れよう。
「じゃあ楽しんでね、また明日。」
「あ、うん。じゃあね。」
私はリュックを背負ってモワッとした廊下に出る。教室の扉の小窓から二人の姿が偶然見えた。紗夜やっぱり別人みたい、もっと自然体でいれば良いのに。とは言いながら安部先生に対峙している私自身を客観視していないから、人ごとみたいに言えることだ。
私は生徒が下校して学校に人が少なくなるまで時間を潰すつもりだ。窓の外を眺めると雲が灰色に濁って、雨の匂いがプンプンし出した。向かいのマンションの住人は急いで干している布団を取り込んでいる。私は何して過ごそうか、どんな時間を過ごしたら上手に安部先生と会話できるだろうか。気まずくなり過ぎて苦しくなったら最終手段としてハグを決めてしまおうと考える。まるで尻軽女みたいじゃんって窓にうっすら映る自分の姿を見て笑ってしまった。
廊下の向こうを見ると江田くんが一人で歩いてる、ああ殴った人だって思う。彼は少なくとも女子の間では、明らかに敬遠される存在になってしまっている。意気揚々と何事にも取り組む江田くんが懐かしい。ピラミッドの上から斜面を高速で急降下してって今ではこの有様だ。加害者だから誰も守ってくれない、私は彼のことも可哀想だと思ってる。
それにしても、ただただ時間は余ったまんまだ。そして私は「そうだ」っと思いながら江田くんが歩いてく方向に歩き出した。放送室ちょっと行ってみよう。紗夜たちの様子、どっかから見えないかな。
そんな放送室の扉は見るからに分厚そうで、廊下の天井の蛍光灯もチカチカしている。この放送室の中はどんな感じになってるんだろう、そして今二人はどんな時間を過ごしているんだろう。人の話し声や足音もしない至って静寂な廊下で私は耳を澄ませる。しかし何も聞こえない、室内から人の気配も感じないほどに物音すらしなかった。ギターを弾くんなら音くらい漏れ出すはずなのに。
私は思い切って片耳を冷たい扉に押し当てて僅かな音を感じようとした。ああ、なんか話し声が聞こえる。多分笠岡くんが喋ってる。思わずニヤついてしまった。この扉の先の空間で、私の友達は今恋愛をしているんだ。尻込みしながらも必死に目の前の笠岡くんと会話してるんだろう。私が聞いているなんてことも思いもせずに。恋は盲目、笠岡くんのことも絶世の美少年に見えてしまうし、外で誰かが耳を押し当てていることにも気付きようもない。でもそれでいい。
「あれ?山田さん?」
「ひぇっ、、」
その時私の背後から自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。予期しないことだったので私はなんとも情けない音を出してしまう。
「あ、ああ芳岡さんか。」
そこに立っていたのは私たちのクラスの学級委員の芳岡さんだった。
「うん。てか何してたのさ。こんなところで。」
「あ、うん、えっとね、、」
もうほっぺたまでビッタリと扉に密着させてたところを見られてたわけだから変な言い訳はできない。だから正直に言うことにした。笠岡くんと紗夜が二人でこの中にいることを。紗夜、関係ない人にバラしちゃって本当にごめん。一番周りが見えてなかったのは私の方だった。
「ほお、それを盗み聞きしてたのかぁ。ちょっと面白いね。」
「うん、まあ少し気になってね。」
芳岡さんは吹き出すように笑う。私は恥ずかしかった。
「でも山田さんと相野さん、もう親友だもんね。」
「まあそうかもね。」
耳まで熱るほど恥ずかしいからこんなダラダラと会話もしたくなかった。早く私のことなんて放ってどっかに行ってほしい。
「じゃあ私行くわ、じゃあね。」
「うん、バイバイ。」
芳岡さんとはそんなに仲も良くないから思ったよりも早くいなくなってくれた。ああビックリした。ようやく鼓動が落ち着きつつある。人が盗み聞きしているところって一番見られたら恥ずかしいシーンかもしれない。これもちょっとした罰か、紗夜も自分の恋愛を頑張ってるんだから盗み聞きなんてせずに放って置いてやれってことか。本当にごめん。
強烈な羞恥心をどうにか打ち消すために私は第二理科室に、そして安部先生に会いに行くことにした。まだ廊下には人はいるし、元々の予定よりは早いけれど仕方ない。安部先生をハグをすれば羞恥心は簡単に打ち消すことができるから。もう軽めの依存症だと思う。ビギナーズラックだっけ?お父さんがなんか言ってた、初心者がギャンブルで大勝ちして、そっからのめり込むみたいな。私が初めて異性とハグしたのが安部先生だったからそりゃこうもなってしまう。否応無しに頭から離れない。
気づけば外は雨が降りしきっていた。一度雨宿りの為に室内に撤退する運動部の人たち、あと相合傘をしながら下校する人とか、色んな人を見ながら私は一階にある第二理科室へ階段を降った。笠岡くんが長らく邪魔してたから本当に久々だ、第一声はどうしよう、どんな会話をしよう。やっぱりあれか、最初は昨日のUFOキャッチャーの大負けの話をしてみよう。そうじゃなきゃ昨日の行動が本当に無駄になっちゃう。
「ああ、緊張する、、」
独り言にしてはやけに大きくはっきりと、私は声に出した。第二理科室の前に立って周りに誰もいないことを確認した後、ゆっくりと扉を開ける、音も立てずに。
「失礼します、、」
理科室に入ると故郷みたいな特別感を肌で感じる。理科の授業でも使ってはいるけどまるで違う。邪魔者がいないとその僅かな空間の匂いすら心地いい。
安部先生はいるよね、多分理科準備室に篭っているんだと思う。黒板横にある木製の扉を開けてみた。笠岡だったらきっと勢いよく開けるんだ。だからさっきみたいに私が来たってわかるようにそっと開けた。
「安部先生。」
やっぱり安部先生は準備室の真ん中でパイプ椅子に座ってた。でもなんだか部屋の中は実験器具とか学書とかがすごく整理整頓されてる。
「山田さんですか。」
「はい、会いたかったんです。」
安部先生は私が久しぶりにここに来たことをとてもすんなりと受け入れた。もっと喜んでくれるだろうって勝手に期待してたから少し物足りない。
「どうしました?なんか用でも?」
「用ってそんな大したことじゃないんですけど。」
「はい。」
「ちょっとお話ししたくて。」
「そうですか。」
違う、なんか違う。私のシナリオとはちょっと違ってる。今日の安部先生、全然笑わない。
「ねえ、聞いてください。」
「何でしょう。」
「昨日UFOキャッチャーで安部先生が好きそうなのあったから、取ろうと思ったんです。」
「はい。」
「でも全然取れなくて結局三千円使っちゃいました。」
「お金はもっと計画的に使わないとダメですね。」
やっぱり違う、なんでそんな教師みたいなこと言うの。準備室も変に片付いてるけど、私とハグした時点で既に教師失格なんだから、こんなもっともらしいこと言わないで。
「そうですね、気をつけなきゃ。」
私は苦笑いをする。ああもう昨日のお話し終わっちゃった。
「ねえ、理科準備室なんでこんなに綺麗になったんですか?本とかも随分減った気がするし。」
「今までが汚すぎただけです。これが普通。」
私とハグする前は綺麗だった、ハグしてから汚くなった、そんでまた綺麗になっちゃった。それはつまりすごく寂しいってこと。
「こうやって安部先生と二人でいれて嬉しいです。前みたく。」
「前?」
「いっぱいここで話したじゃないですか。ハグもしたし。」
「はぁ。」
「はぁって、、」
安部先生は大きめのため息をついた。おかしい、訳がわからない。四回のうち三回は向こうから誘って、そして毎回私が離れるまでハグ終わらなかったのに。今日はなんでこんなにそっけないんだろう。まさか笠岡くん?私の知らない一ヶ月で安部先生はなんでこんなスタンスになってしまったんだろう。
「最近ずっと笠岡くん、、来てましたよね?ここに。」
耐えきれずそれを聞いてしまった。
「来てましたね。」
「どうしてですか?」
「どうしてって。」
「なんの理由があって理科室に来てたんですか?」
今日くらい雨の強い日も、晴れた日も、曇天の日も邪魔者は邪魔者のままだった。安部先生はそれを受け入れた、なんでだろう。
「山田さんは私が放課後も理科室にいること、おかしいって思わないんですか?なんで職員室に戻らないんだろうって疑問に。」
「え?いやそれは、、」
「私は職員室よりこっちが居心地がいいからいるだけです。笠岡くんもきっと同じで単純な理由でしかないと思います。」
「じゃあ笠岡くんはただ時間潰しの為だったんですね。」
「そうですね。」
先生の不明瞭な答えを納得したようなしていないような、私の顔は晴れないままだった。本当にただの時間潰しだったのか。
安部先生はちっとも私のことを見てくれないから耐え難い空気が私を包み込む。丁度、雨が上がって日光が線となって理科室に入り込んだ。離れた二人の影は辛い。笠岡くんと一緒にいたことに大した意味がないのなら、今の態度はなに?ハグを抹消するような表情をしないでほしい。
「私も時間潰しですか?」
「何がですか?」
「何がって、二人きりでいっぱい話したこととか、ハグしたこと。」
先生は立ち上がって私の肩に触れる。
「山田さんの思い出になればって、とにかく軽率な行動だったと思ってます。」
「なんか私のワガママみたいに。」
何度だって言う、四回のうち三回は先生の方から、そして四回とも離れたのは私から。
「いや山田さんは悪くなくて、私の行動が間違ってたってだけで。」
「先生も私も悪くないです。」
安部先生から大切な何かが薄れている。私が恋してたのはただの二次元のキャラクターだと諭されているような気分だ。こんなのちっとも望んでない。
「なんか、嫌です。安部先生のこと好きだったのに。」
「本気でそう言ってんなら、同級生を好きになれるように頑張った方がいいですよ。」
「そんなの、おかしくないですか。」
私は必死でかつての先生の温かみを探し求めた、でも冷たい向かい風のような人がただそこにいるだけだ。
「嫌なんですか?私と会うのが。」
「はい。」
「なんで?」
「生徒と教師が二人でいるところ、誰かに見られているかもしれない。」
要するに先生はこんなにリスキーな行為をしたくないと言うことか。生徒とハグを四回もしておいて今更、ビビリになって無責任な話だ。
「なんか先生臆病じゃないですか?そんな感じでしたっけ?前から?」
「臆病です。最初からずっと。」
そう言うと安部先生は私の元から離れて窓を開けて換気をした。中学生の頃、家出の計画を立てた言い出しっぺが直前になってビビって約束場所にこなかった時みたいなダサさが先生にはある。普段は斜に構え倒す癖にこういう時に臆病で逃げ出すんだもん。なんか嫌だわ。
「じゃあ最後に一回だけハグいいですか?」
「今?」
「はい、そしたらもうこないんで。」
私は理科準備室を出て既に綺麗な黒板を更に拭く安部先生のもとに歩み寄った。
「じゃあもう来ないでください。」
「はい。」
もう冷めたから安部先生には会わないと思う。こうして雑に無かった事にされるなら紗夜とかに安部先生のことを言っちゃうか、まあでもそれは私にもダメージ大きいから匿名とかで。
「じゃあハグしましょう。」
安部先生はため息をつきながら私に近づいてくる。
「私は好きでしたけどね、これで終わりってことで。」
「そんな幼稚なこと言ってないで。」
目の前に立つ無駄に背の高い物体になぜ私はここまで夢中になっていたのか、不思議でならない。確かに先生の言うとおり私は幼稚なのかもしれない。だってこんなにも人を見る目がなかったんだもん。換気したせいで理科室はあっという間に暑苦しくなって余計に不愉快だった。「早く出てけ」ってことを意味してるのかな。
私たちは少しずつ近づいていって先生の不快なタバコの匂いが鼻に届いてくる。今日は私の方からハグを仕掛けばきゃいけない。すごい短かったな、楽しい時間は。急にその時間が恋しくなって嫌になる。なかなかハグする気になれない。ああもう、さっさとしないと。
今頃紗夜は笠岡くんと二人で楽しくギターを弾いてるんだ。私がこうして失恋した明日からも、紗夜の恋を今まで通り応援できるだろうか、残念ながら今は自信がない。
「びっくりしたっ。」
私が色んなことを考えて数秒間躊躇していたからか、先生は急にハグをした。でもなんかハグっていうより私に覆いかぶさってるみたいだった。誰かから私の体を隠すように、いずれにしろ苦しいくらいの強さで先生の体は密着していた。あんなにそっけなくしておいて、この強さは何。こんだけ抱きしめてやるからさっさと諦めろってこと?私に勝手に期待させて、理不尽に冷たくなって、最後にカッコつけたようなことして。
「全然嬉しくない。」
私はそうやって呟く、それでも安部先生はまだ私に覆いかぶさったままだった。
最悪です、最悪です。夢のような時間ではなく、単なる夢だったような呆気なさが私の脳内に充満して、負けました。
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