忘れられた海
@lsaenad
忘れられた場所
海から吹く潮風が、坂道を駆け上がってきては、ナミネの髪をそっと撫でていく。
古い町並みにしみ込んだ潮の匂い。船の汽笛。遠くで鳴くカモメの声。それらが混ざり合って、ナミネの頭の中に、まだ見ぬ景色がいくつも浮かび上がる。
――この風の向こうに、知らない国がある。
空を泳ぐ船があって、未来を語る羅針盤があって、海の底には人魚たちが住んでいる。
ナミネは、いつだってそういう世界を思い描いていた。
現実の景色を見ながら、そこにないものを“見る”癖は、小さな頃から変わらない。想像は、ナミネにとって呼吸のようなものだった。
彼女が暮らすのは、東京湾に面した小さな港町。
古びた桟橋と、潮に濡れた灯台。遠くに見える煙を吐く工場地帯。
観光地でもなければ特別な名所もない、ただ海に寄り添う町だった。
父は漁師をしている。
まだ暗いうちから海へ出て、夕方になると黙って帰ってくる。
会話は少ないけれど、潮の匂いや手のひらの荒れた感触が、ナミネにとっては一番の安心だった。
学校も、町の空気と同じように静かだ。
地元の子たちが多く、誰もが手の届く未来だけを信じ、現実に収まる夢しか見ていない。
そんな中でナミネだけが、空の彼方や海の底に心を飛ばしていた。
昼休み。教室の窓を開けると、潮風がふわりと入り込んでくる。
ナミネはノートの余白に、灯台のある港と、それを取り巻く不思議な生き物たちの絵を描いていた。
机の脇には、いつも持ち歩いている一冊の古びた本。題名も著者もなく、カバーもない。でも、ナミネにとっては世界で一番大切な物語だった。
その本には、七つの海を旅するひとりの少女の物語が描かれている。
魔法のような羅針盤に導かれながら、空を飛ぶ船に乗り、世界の港をめぐる冒険。
火山のふもとの隠された王国、星を観測する未来都市、珊瑚の森に住まう人魚たち。
物語のすべてが、どこか現実と夢のあわいにあるような、でも“どこかで本当に存在したかもしれない”と感じさせる不思議な世界だった。
「ナミネ、またその本?」
声をかけてきたのは、隣の席のアカリ。ポニーテールを揺らしながら、スマートフォンを手に笑っている。
「うん。何度読んでも、飽きないんだ」
「ほんと、物好きだね〜。それ、誰が書いたのか分かんないんでしょ?」
ナミネはページをそっと閉じて、静かに頷いた。
「うん。気づいたら家にあって……でも、小さい頃からずっと好きだったの。読むとね、胸の奥がふわって温かくなるの」
アカリはへぇ〜と軽く相づちを打ち、お弁当のふたを開けた。
スマホからは、SNSの通知音が鳴っている。現実の音だった。
窓の外、空の高いところで、カモメが一羽くるりと輪を描いた。
ナミネの目は、それを見つめながら、まだ名前のない冒険の続きを思い描いていた。
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