三世銀夜物語

春猫

序章 【夫になり給ふべき人なめり】

 緩やかに散る桜の花弁が校舎に降りそそぐ。すっかり昇りきった太陽のみが浮かんでいる晴天の空は、まるでこの卒業式というめでたい日を祝福しているようだ。

 沢山の人で埋まっている体育館内に、校長の厳粛な声が響き渡る。


「今日をもって、皆さんの義務教育は修了です。各々が違う道を歩み、————」


 姫廻秋輝ひめぐり あきとは校長の淡々としたスピーチを聞き流しながら、自分の進路について考えていた。これで晴れて中学は卒業。自身の進路は少々特殊であり、進学とも就職ともつかぬものだ。否、その両方かもしれない。


「卒業生の皆さんの前途に幸多からんことを祈念いたしまして式辞といたします」



 将来に思いを馳せながら、立って座って話を聞いてを繰り返していると、気が付けば式が終わっていた。鳴り響く拍手の中を歩き、退場する。その後の写真タイムは本当に多忙だった。秋輝は在学中どの部活動にも所属していなかったが、中性的で優美な容姿と慈愛に満ち溢れた性格から、多くの人望を集めていた。彼は少しもくたくたな様子を見せず、最終下校時間になってようやく校門を出た。

 一日のうち最も日が高い時間帯になり、三月といえども歩けば暑くなってくる。学ランの第一ボタンを外し、すぐ横を流れる川の花筏を眺めた。歩みを止め、静かに考える。時は流水の如く進み、そこに乗って共に流れる我々は、水流に一切抗うことはできない。日も水も不休で動き、人もまた前に進む。つい先ほど九年間の義務教育を終えたばかりで感慨に浸っていた秋輝は、未来への一歩を思い、再び歩き出した。

 最後の下校を噛み締めながらゆっくり進んで行く。まだもう少し歩きたくて遠回りをすると、建物と建物の間の薄暗い細道が目に付いた。秋輝はこの路地裏から不気味な空気を感じ取り、細道の奥に入っていった。

 狭い空間で、数多の室外機から埃っぽい風が吹き出している。秋輝は咳き込みながらも、今が夏でなくて良かった、と心底思った。夏の室外機は、室内の爽涼な風と引き換えに、熱風を吐き出す凶器と成る。今とは比べ物にならないほどの被害を人体にもたらすだろう。

 少し進んで右に曲がると、2人の人間に出くわした。一人は金髪の男で、もう一人は黒髪ロングの女性。男は女性を壁に押し付け、何やら脅しているようだ。秋輝は明らかに危うい雰囲気を察し、男を止めに入る。


「あの、すみません。乱暴はいけませんよ」


 威圧的な男性の声を遮るように、秋輝のささやかな声が響いた。


「なんやお前?あっち行け!ボコられたいんか!」


 男は細い目をギラギラさせながら秋輝を睨む。場違いなほど穏やかな彼の声に酷く苛ついたのか、ポケットからフォールディングナイフを取り出し、勢いよく秋輝に向けた。


「失礼、後遺症であまり大きな声を出せないもので」


 秋輝はそう静かに言って、男の手に握られている凶器に臆する素振りもなく近づいた——————————————。

 瞬きの間に、男は床に倒れていた。女性は啞然としながら、完全に意識のなくなっている男を見下ろす。


「怪我はありませんか?」


 そう女性に呼び掛け、崩れ落ちないように腕を支えてあげた。


「だ、大丈夫です。……あの、あなたのお名前は?」


 顔を赤らめた女性にそう聞かれた秋輝は名前のみを答え、すぐに用事があると付け加えて更に奥に進んでいった。女性は、小さくなっていく彼の背中を見て、それ以上の会話を諦めた。フラフラと出口へ向かっていった女性を尻目に、秋輝は一考する。手刀で気絶させた男は、女性が呼んだ警察が直に回収するだろう。問題は、入口で感じた邪念の主が、先程の男女ではないということだ。

 とうとう日がほぼ当たらない地点に辿り着いた。壁の、丁度秋輝の胸ほどの高さから、どす黒い女が上半身を垂らしている。女は俯いていて、顔は長髪で隠れている。秋輝はすぐに邪気の主がこの女の霊だと悟った。


「ずっとここで動けなかったんだね。もう大丈夫だよ」


 物言わぬ女の地縛霊にそっと話しかけ、頭に手をかざす。清廉な銀の光が地縛霊を包み、霊共々空へ消えていった。本来ならば、邪気を生み出していた大本を浄霊した後は残った邪気も浄化する必要がある。しかし秋輝は特殊体質で、その場にいるだけで空気が清浄になるのだ。故に、秋輝は何もせずただ路地裏を後にした。


(今回の霊は素直に従ってくれたから、浄霊で済んだ)


 時折怒り狂っている怨霊もいるので、その時は浄霊ではなく除霊をしなければならない。めでたい日だから、天人てんにん様が容赦をしてくれたのかもしれない。



 山中の住宅街、その狭い九十九折を登っていくと、竹林に囲まれた大きな数寄屋門が秋輝を出迎えた。門を抜けると、禅庭のように質素だが広大な庭が広がっている。庭の向こうには、玄関の戸襖を開けて佇んでいる女性が一人。


「秋輝様、お帰りなさいませ」


「ただいま、カズエちゃん」


 秋輝の家は和風建築で大変広く、所謂和の豪邸である。上の階の自分の部屋に入り一息ついた。学生服を優雅に脱ぎ、胸に巻いたさらしはそのままに、着流しを身に纏う。彼はいつも和装を好んで着ているのだ。


ひめ、もう出てきていいよ」


 そう優しく言うと、その呼び声に応じるように学生服の胸ポケットから小さな折り鶴が飛び出した。折り鶴は瞬く間に姿を変え、音もなく秋輝の前に、鶴の仮面を着けた女の姿になって現れた。中国風の黒い古装に長い白髪をハーフアップにし、後ろを赤い紐で纏めている【鶴姫つるひめ】は、雪のような物静かさを持つ声で秋輝に言う。


「ご卒業おめでとうございます。三年間、本当にお疲れ様でございました。」


 秋輝が鶴姫の祝辞に礼を返すと、鶴姫は自身の腰帯に提げている巾着袋に手を伸ばした。巾着袋から化粧落としのシートを取り出し、それで秋輝の首元を優しくさする。化粧で隠していた彼の首元には、妖艶な竹の花の模様が刻まれている。

 化粧を落とし終わると、互いに正座で向き合い、進路の話を始めた。


「進路先の件ですが、以前お話しした【志月大社しげつたいしゃ】のことをお憶えですか?」


「うん、憶えているよ。【志月道しげつどう】の総本社でしょう?あそこは遠いから、行くのならこの家を空けることになるね」


 秋輝の進路先は日本一有名な神社であり、彼はそこにいる大勢の行者のうちの一人になる予定だ。


「そちらについては、問題は御座いません。家には私の分身であるカズエを残します故、どうぞご安心くださいませ」


「ふふ、姫もカズエちゃんも、本当に心強いね」


 鶴姫と部屋の外の使用人が、同時にふへっと変な声を出した。


「く、首元の傷痕は、こちらで御隠しくださいませ」


 仮面で表情は分からないが、口角が上がっているような声音でそう言い、秋輝に薄緑の美しい布を手渡した。秋輝は彼女から貰った布をまじまじと見つめる。白くて大きな羽と双鶴文がちりばめられていて、非常に手触りが良い。極めて肌に優しい材質をしていて、値段をつけられないほど貴重なものであることが素人でも分かる。


「これは、姫の羽で作ったの?」


「はい。私の気を多く込めましたので、いざという時には微力ながらお護りすることも可能です」


 秋輝は胸中に温水が滲んでいくような心地がした。家族がいない秋輝にとって、物心がつく前からそばにいた鶴姫とカズエは親代わりのようなものだ。もっとも、当の二人は自分達を秋輝の従者と思っているようだが。


「ありがとう、大事にするね」


 自然に零れた笑みと共に感謝を伝えた。



 ——————時は流れ、四月。

 富士山の裾野に連立している壮大で色とりどりの建物たちは、一つの大きな社である。その名を志月大社と言い、古より月に住んでいると言われている天人たちを信仰の対象とし、功徳を積むことでいずれは自分自身が天人にならんとする志月道の【行者ぎょうじゃ】たちが集う本拠地である。志月大社に入るにはまず、行者見習いである【出仕しゅっし】となり、志月大社附属の研修所で修行をしなければならない。

 志月大社に到着した秋輝は、自分と同じように新しく出仕となる人たちが集まっている場所へ向かった。志月大社は、最初の鳥居を潜るとまず、一般人も入ることのできる普通の神社がある。その奥のもう一つの鳥居からは関係者以外立ち入り禁止で、出仕達の修行場や寮がある。そして更に奥の鳥居を抜けると、ようやく一人前の行者たちが居る社殿が見えてくる。最も重要な本殿は中心の最も富士山に近い位置にある。このように、志月大社は町から富士山に近づくほど、どんどん俗世から離れていく仕様になっている。

 秋輝たちは出仕エリアの本堂の野外、何やら行事が始まりそうな開けた場所に集められた。正面の少し高い台の上にお偉いさんらしい老人が登壇し、挨拶をし始めた。春という季節は、やたらと偉い人たちの話を聞くことが多いものだ。秋輝は聞いているのか聞いていないのか分からないような素振りでただ立っていた。

 ————前触れなく、右方向からふわっと心地良い匂いがした。自然と、視線が右に向く。遠くの反り橋からこちらを見ている男と目が合った。男は、美しい金色の衣冠を身に纏っている。その金は、というよりも、どっしりとしたを感じさせるものだ。彼は秋輝と目が合った瞬間、驚いたように目を大きくした。秋輝は彼を視界に入れた瞬間、これまでにないほどに鼓動が強く波打ち、その精悍な双眸から目が離せなくなった。どうやら彼の方もそうであるようで、両者とも固まったまま暫く見つめ合っていた。すると周りにいた人々が秋輝の食い入るような視線に気付き、その先を辿った。皆が遠くの美丈夫を視認した途端、次々に声が上がる。


「あそこにいらっしゃるのは、【斌之公あやのきみ】じゃないか?」

「本当だわ!まさかこんなに早く斌之公を生で見られるなんて……!」


 最初は驚きであったその声は、ささやかな歓喜や興奮の声に変わる。


「入った初日に志月大社のをこの目で見ることができるなんて、なんと幸先の良いことか!」


 皆は口々に小さく囁くが、いくら一人一人の声が抑えられていても、複数が喋れば騒がしくなる。前で話していた老人は顔をしかめて静粛にするよう注意をした。それからは、老人の剣幕や周りの空気感から、右を見ることは叶わなかった。



 そのまま最初の集会が終わり、一通り境内を回って説明を受けた。全てが終わった頃にはだいぶ日も落ちていて、解散しこれから寝泊まりする寮の部屋に来た。部屋での荷解きが終わった頃、どこかへ行っていた鶴姫が戻って来た。


「秋輝様、社の境内はいかがですか?」


 秋輝は頷いて答える。


「うん、凄く綺麗だったよ。でも、広すぎてすぐに迷いそうだ」


「迷った時は、私がご案内致します」


 秋輝は頼もしいと感じたが、それと共に疑問も湧いてきた。


「姫は、随分ここのことについて詳しいんだね」


 秋輝が不思議そうに顔を傾げてそう言うと、鶴姫が少し雰囲気を正して答えた。


「実はもう一人、この志月大社の行者に、私が体術や法術を御教えした方がおられます。その時分にここにも何度も足を運んでおりました故、内部構造は大方把握しております」


 度々鶴姫が家を出ることがあったのはそういうことかと納得し、同時に、鶴姫が秋輝のもとを離れるのはいつも彼が家に居る時のみであったことを思い出す。


「今から是非ともその方と会って頂きたいのですが、御疲れではありませんか?」


「ありがとう。大丈夫だよ。じゃあ、会いに行こうか」



 折り鶴に戻った鶴姫に案内され訪れたのは志月大社で最も富士山に近い【帝宮ていきゅう】と呼ばれる場所で、その門口である金色の鳥居が秋輝を迎え入れた。鳥居をくぐり中に入ると、敷地内を通る行者たちが秋輝を見てざわついた。ざわつきの理由は二つ。本来ならばこの帝宮には、出仕どころか中級の行者でも入ることが許されない。そんなエリートしか存在しないこの宮に、出仕の証である松葉色の袴を履いた秋輝が居ること。そして、秋輝自身のこの世の者とは思えないほどの美貌に対してのものだ。

 行者たちの視線をかいくぐり、一回り大きな屋敷に上がる。何人かの行者とすれ違いながら回廊を進み、とある部屋の前に辿り着いた。重厚そうな襖の前で入室の許可を求めると、単調な返事が返ってきたので慎重に中へ入った。広い室内には、白昼に反り橋に立っていたあの男が粛々と正座をしていた。


(たしか、誰かが「あやのきみ」と呼んでいた気がする……)


 昼間と同様に息をのんで男の目を見る。油断したら永遠に目が離せなくなりそうな心地になり、秋輝は慌てて目を逸らした。鶴姫が姿を現し、男に対して深々と頭を下げた。


眞宗しんしゅう様、秋輝様をお連れ致しました」


 眞宗と呼ばれた男は、何やら穏やかな光を含んだ目で秋輝を見つめながら口を開いた。


「この人が……」


 恍惚とした声でそう口にし、ゆっくりと立ち上がった。


「初めまして。私は君月眞宗きみづき しんしゅうです。ここの大宮司をさせていただいています。宜しくお願いします」


 教科書に載っている定型文のような自己紹介の後、丁寧にお辞儀をされ、秋輝も挨拶を返す。


「初めまして、先輩。僕は姫廻秋輝です。よろしくお願いします」


 互いに決まった挨拶を交わし終わると途端に何を話せばいいのか分からなくなり、沈黙が続く。

 話すことが浮かばない秋輝は、ただボーっと眞宗を見つめている。否、“見惚れている”の方が正しいかもしれない。昼間は遠くにいたので気がつかなかったが、大宮司という役職の割には若いように見える。全国の行者を纏める志月道のトップがこんなにも若く聡明な美男子だとは、どこかの夢見る少女が考えそうなことが現実に起きているというようなものだ。


「どうかしましたか」


 響きの良い低い声でそう聞かれ、秋輝はハッとして我に返る。


「い、いいえ、すみません」


「私には敬語じゃなくていいですよ。年もそんなに離れていませんし」


 自分も敬語なのに、と思ったが、秋輝はそれを言わないでおいた。


「じゃあ……今朝、反り橋に居たよね?」


 そう言いながら眞宗の全身を見ると、彼の、なぜか所在なさげにムズムズしている両手が目に入った。しかし秋輝はそのことにも触れないでおいた。


「ええ、居ましたよ。新人が入る度に最初の集会をこっそり偵察しに行っているんです。今まで一度も気取られたことがなかったので、本当に驚きましたよ。一体どうやって私に気づいたんですか?」


「分からない。なんだか横から良い匂いがしたから気になっただけだよ」


「良い匂い……ですか?」


 秋輝はどうしてか話題を変えねばと焦り、もう一つの疑問を思い出した。


「あ、そういえば。貴男を見たみんなが『斌之公』と言っていたけど、貴男の名前ではないの?」


 眞宗は急な話題の変更にも動じず、真摯に答える。


「斌之公は名前というよりも、称号です。不良によくある『西の狂犬』みたいな感じの通り名のようなものです」


 眞宗のあまりにも的確な例えに思わずふふっと吹き出しそうになった秋輝だが、彼が至って真面目に話しているという風情だったのでなんとか堪えた。


「そして、眞宗が戒名。行者は基本、戒名を授かると一生戒名を名乗って生きてゆくことは知っていますね?」


「うん。本名を教えていいのは家族と配偶者だけなんだよね?」


「その通りです」


・・・・・・・・・・・・。


 再び怪しい沈黙が訪れたが、秋輝はこれ以上の話題を振れるほど頭が回らなかった。そんな行き詰まりの場に、鶴姫が出口をつくった。


「秋輝様。眞宗様。もうすっかり日が沈みました故、今日はここで御止めになられては?」


「そうだね」「そうですね」


 二人はほぼ同時に鶴姫に返事をし、再び向き直った。


「本当はもっとお話ししていたかったけど、あまり上手く話せなくてごめんね……」


「まあ……初対面ですから。この先少しずつ慣れていきましょう」


 最後にそう言葉を交わし別れの挨拶をすると、秋輝は部屋を出た。

 寮に帰る道中の廊下で秋輝は恍惚とした表情で呟いた。


「ねえ、姫……」


「はい、如何されましたか」


「——僕、あの人と結婚するのかもしれない……。」


 溜息混じりの呟きに、鶴姫は一瞬の間を空けてふふふっと笑った。


「そうですか、そうですか」


 なぜか嬉しそうな鶴姫の声は、秋輝にのみ聞こえていた。

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