第10旅立ちの決意、交わらぬ願い。

「僕を、遠征部隊に加えてください」


 


 こはるの言葉が、部屋の空気を凍らせた。


 


 王城作戦室――地図と魔力感知球が光るその場で、彼はまっすぐにグレアムを見据えていた。


 


「冗談を……あなたはまだ完全に回復していないのですよ」


 


「わかってます。でも、行かなきゃいけないんです」


 


 グレアムは視線を逸らし、言葉を選んだ。


 


「彼に会いに?」


 


「はい。彼に、“ありがとう”と、“会えてよかった”って言いたいんです。ちゃんと、自分の口で」


 


 こはるの声は震えていなかった。


 むしろ、今まででいちばん、はっきりと響いていた。


 城下に降りたこはるは、遠征部隊の装備を借りて準備を進めた。


 


 魔術師としての装備は軽く、ローブに加えて最低限の防具だけ。


 それでも、荷物の中には“思い出”の詰まったノートがあった。


 


 記憶を失っていた間に、何度も繰り返し綴った日記。


 思い出せない誰かへの想いを、ぼんやりと記した言葉たち。


 


(もう、わかってる。全部、ディランのことだった)


 


 それを胸ポケットにしまい、こはるはゆっくりと息を吐いた。


 


「行ってきます」


 


 小さな声は、空に吸い込まれていった。


 一方その頃――。


 北の荒野を進むディランの馬車が、凍土の中を進んでいた。


 風は冷たく、息が白く舞った。


 


 彼の目は前を向いたまま、何も言わなかった。


 ただ、胸の奥で何度も、こはるの名を呼んでいた。


 


(あいつ……思い出しただろうか)


(俺のこと、少しでも)


 


 でも、自分の手でそれを確かめることはしなかった。


 なぜなら――


 


「……俺なんかじゃ、ダメだって思ったからだよ」


 


 呟いた声は、誰にも聞こえないはずだった。


 


 けれど、どこか遠くで、こはるもまた――


 


「君じゃなきゃ、ダメなんだって……言いたいのに」


 


 同じ空の下で、誰にも聞こえない言葉を、こぼしていた。


 北の玄関口とも呼ばれる町――ブランセル。


 こはるは早朝、白銀の霧に包まれたその町に足を踏み入れた。


 


 小さな宿屋、露店のパン屋、静かな教会。


 どこか懐かしい匂いがする町だった。


 


(ディランは、ここを通ったはず)


 


 情報通の老店主に話を聞くと、すぐに「ああ、あの銀髪の若者か」と反応が返った。


 


「剣の使い手だな。昨日の朝、うちの宿に立ち寄ったよ。ほら、こいつ、置いていったんだ」


 


 手渡されたのは、一枚の紙切れだった。


 そこには、簡単な魔法陣と“風の流れに逆らうな”という文字。


 


「何これ……」


 


 意味不明なメモ――けれど、それを見つめるこはるの胸が、奇妙に高鳴った。


 


(ディランの字だ)


(僕、知ってる。この筆跡……)


 


 記憶は曖昧でも、身体が覚えていた。


 


 彼がいた場所に、自分が立っている。


 たったそれだけで、涙が出そうだった。



 町を歩くうちに、こはるは数人の旅人から同じ言葉を聞いた。


 


「あの銀髪の青年な、宿代を余計に払って“誰かが来たら泊めてやってくれ”って言ってたよ」


 


「若い魔法使いが来るって言ってた。繊細そうで、綺麗な子だって」


 


 こはるの喉が詰まった。


 


(……僕のことだ)


 


 あんな男のくせに、優しいところがあるから、ずるい。


 それを言葉に出せば、絶対「は? 勘違いすんな」って鼻で笑うくせに。


 


 そう思うのに、胸が苦しかった。


 


(やっぱり、僕……あいつのこと)


 教会の前の石畳に座って、こはるは紙切れを指でなぞっていた。


 魔法陣はおそらく“風読み”の応用呪文だ。


 それはつまり、“僕に向かって風を読め”ってこと。


 


「もう、ほんとにアイツってば……!」


 


 ツンが爆発した。


 でも、口元がゆるんでいた。


 


「待っててよ、ディラン」


 


 こはるは立ち上がった。


 旅はまだ、始まったばかりだ。


 ブランセルの外れ。


 風の鳴る丘に、ディランはひとり立っていた。


 


 背を向ける町の方から、魔力の気配がした。


 澄んだ魔力。見覚えのある感覚。


 


(来たのか……こはる)


 


 心臓が、馬鹿みたいに高鳴った。


 


 けれど、足は一歩も動かなかった。


 


(会っちゃダメだ)


(今、会ったら……全部、壊れる)


 


 距離をとるために、彼はわざと痕跡を残した。


 メモを置き、宿代を払って、あえて“出会いに行く余地”を残した。


 どこかで、見つけてほしいと願っていた自分がいた。


 


「……ふざけんなよ、俺」


 


 呟いた声が、風にかき消された。



 旅を続ける中、ディランは何度も考えた。


 


 ――なんで、こはるじゃなきゃダメなんだ。


 


 女には困ったことがない。


 美人しか相手にしなかった。


 恋愛なんて、いつも飽きるまでの“暇つぶし”だった。


 


 なのに、あいつだけは。


 あんなに文句ばかりで、やたら理屈っぽくて、生意気で。


 


 ――でも、誰よりも可愛かった。


 


 寝顔すら憎たらしいくらいに、綺麗だった。


 意地悪に口を尖らせる姿すら、抱きしめたくなった。


 


「俺、どうかしてんのか……?」


 


 唇を噛む。


 でも、否定はできなかった。



 ふと、町の鐘が鳴った。


 その音に、こはるの声が重なる気がした。


 


『僕のことなんて、どうでもいいんでしょ?』


 


「どうでもよくねぇよ……!」


 


 叫びたかった。


 でも、できなかった。


 “俺様”のプライドと、“ノンケ”の常識が、足枷のように重かった。


 


 そして――こはるに見透かされるのが、怖かった。


 


(次に会うとき、俺はもう、逃げない)


 


 だから今は、見つからないように。


 そっとその場を離れた。


 

 次の町――レグルスに入って間もなく、事態は起きた。


 


 夕暮れ、鐘の音と共に叫び声が響く。


 森から、突如として魔物が押し寄せてきたのだ。


 


「避難して! 南門から!」


 


 兵士の指示が飛び交う中、こはるは逃げずに立ち尽くしていた。


 魔物は二体。巨大な熊型と、飛行する鳥型。


 


(逃げなきゃ……でも)


(僕、魔術師だろ? なら――やれること、あるはずだ)


 


 震える指先で、杖を構える。


 息を整え、頭の中で呪文を組み立てる。


 


 その瞬間、懐から滑り落ちた紙切れ。


 それは、ブランセルの宿屋で手に入れた、ディランのメモだった。


 


 “風の流れに逆らうな”


 


(……そうだ)


(あの人は、信じてた。僕が、やれるって)


 


 歯を食いしばり、こはるは魔力を解き放った。



 風が巻いた。


 地面の空気が震え、鳥型魔物の翼を折る。


 


「――ウィンド・フォールッ!」


 


 叫ぶと同時に、魔物の身体がバランスを崩し、地面に叩きつけられた。


 


 地面の熊型も動きを止めた。


 こはるの足元から伸びた“封印陣”が、動きを拘束したのだ。


 


 見物していた町の人々が、どよめく。


 


「おい、あの子、すごいぞ!」


 


「魔法で……一人であれを止めた……!」


 


 声が、光のように彼に届いた。


 その光の先に、ひとりの銀髪の青年の影が浮かぶ。


 


(見てた? ディラン……)


(僕、今、ちゃんと君に胸を張れるよ)


 



 魔物の退治が終わった夜。


 こはるは宿のベランダで、空を見上げていた。


 


「君がくれた一言で、僕は立てたよ」


 


 風がそっと吹き、髪を揺らす。


 その風は、彼の言葉をどこかへ運んでいくようだった。


 


(次に会ったとき、ちゃんと言おう)


(君がどれだけ、僕を変えてくれたか)


 


 そのとき、町の門番が走ってきた。


 


「北から急報! 魔王軍の前線が、こちらへ転進中とのこと!」


 


 こはるは立ち上がる。


 


「――そこに、君がいるんだね?」


 


 目指すべき場所が、はっきりと見えた。


 激しい雷鳴が空を裂いた。


 魔王軍の先鋒が、北部山岳地帯を突破し、前線へと襲来。


 


 こはるは急ぎ、移動部隊の一員として向かった。


 そして、炎と鉄が交錯するその戦場で――彼を見つけた。


 


「――ディラン!」


 


 銀髪が、赤い空の中できらめいた。


 その背中は、まるで誰かの盾のように、剣を振るっていた。


 


 こはるの声に、彼はほんの一瞬だけ振り返る。


 


「……なんで来た」


 


「来るに決まってるだろ!」


 


 返事を交わす間もなく、魔物が襲いかかってきた。


 二人は、同時に飛び退き、背中合わせになる。


 


「左から、来る!」


 


「任せろ!」


 


 風が舞い、魔法と剣が交錯する。


 戦場での呼吸は、以前よりずっと、自然だった。



 それでも、言葉は足りなかった。


 


「どうして、何も言わずに行ったの?」


 


「……そういう性分なんだよ」


 


「嘘つき」


 


「俺に期待するな」


 


「もうしてる。とっくに、してるよ!」


 


 剣の軌道が鈍る。


 その隙を狙った魔物の爪が、ディランの肩をかすめた。


 


「っくそ!」


 


「大丈夫!?」


 


「……お前のせいだ」


 


「違う。君が勝手に、僕から逃げたんだ!」


 


 怒鳴り合いながら、互いの背中を守る。


 まるで喧嘩をしている恋人のように。


 だが――恋人ではなかった。


 まだ、なにも始まってなどいなかった。



 やがて、敵の波が引いた。


 こはるは息を整えながら、彼の隣に立った。


 


「君と、ちゃんと話したいんだ」


 


「……今じゃない」


 


「じゃあ、いつ?」


 


「全部、終わったら」


 


 こはるは静かに頷いた。


 その“全部”が、何を指すのかは、きっとどちらもわかっていた。


 


 再び風が吹いた。


 二人の間の距離を、微かに縮める風。


 だが、それでもまだ――届かない。

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