六
気が付くと、俺は覚えのある布団に横になっていた。少し頭が痛い。死んでいない? 検証が終わった? しかし、確かに俺の身体は頭から地面に叩きつけられたはずだ。あの高さから落ちれば、頭蓋も原型を留めないだろう。
「ごめんね。僕がもう少し注意していれば……」
頭上からキモ山さんの声が聞こえる。落ち着く……。嗚呼、何がどうなったか分からないが、キモ山さんがどうにかしてくれたのだろう。俺は脳裏に浮かぶ投身死体と化した自分を掻き消すべく、キモ山さんの声に耳を傾ける。
「死人は殺せないからね。最悪でしょ、アイツ」
「……なるほど、最悪ですね」
顔も見ていないが、件の第三者は性格が最悪だ。何が目的かも分からない。いや、あまりもう、分かりたくもないかも知れない。死人は殺せない。それを知っていれば、俺はもう少し冷静になれたかも知れない。時既に遅し。いや、俺のことだ、もう死なないと知っていても、どうせ死の近似を目の当たりにして発狂していたに違いあるまい。
周りを見渡す。キモ山さんが隣で横になっている。俺の首の下に腕を回していた。腕枕だ。反対の手で頭を撫でてくれている。強烈な父性を感じてしまう。多分、こうやって頭を撫でられることに強烈な快楽を感じる辺りは、俺の性癖なのだろう。
「ああ、申し訳ないのだけれど、服が血だらけになってしまって……。僕の服を着せてもいいのか分からなかったから……」
嫌なことを言い出した。血だらけの服を着たままベッドに潜ってしまっているのか。初日の靴といい、俺は何度粗相をやらかせばいいんだ。顎を引き、服を見る。ん? そこにあるべき布がない。人色が露出している。手で下半身を確認すると、ズボンも穿いていない。……下着も。
「えっと、かなり恥ずかしいかも知れません」
「あはは、ごめんね。今洗濯をしているから、少しそのままか、僕の着替えを貸すかい?」
「着替えを……。下着、脱がしましたか?」
「ごめんね、その、脱がし慣れてるもんだから、何も気にせず脱がしてしまった。後からちょっと、やっちゃったって」
脱がし慣れている? これは訊いてもいいのだろうか……。気になる……。いや、危険だ。それに、どうせキモ山さんにならば見られても良い、と思い始めている。言うまでもなく、俺は今、裸でキモ山さんに抱かれている。きっと、一般にはこの様な不貞は忌避されるものだろうが、今の俺は安心感と、ほんの少しの興奮があった。
「あはは、君みたいな子供がいてね」
「え、ああ、結婚していらしたんですね……」
「残念かい?」
「え、いや、あの、少し……」
俺の恥が混じった正直な物言いに、キモ山さんは少しいやらしい笑みを浮かべ、こちらを見つめている。頭を優しく撫で、
「よかった。落ち着けているね。結婚はしてないよ。同性の相手がいて、養子がいるんだ」
「同性……」
「ちなみに、恋愛関係になければ肉体関係は容認されているよ」
ニヤニヤ、という表現がぴったりと合う飛び切りいやらしい表情をこちらに向け、キモ山さんが言う。手の愛撫が頭から耳もとに変わる。くすぐったい。
「少し、考えさせて下さい……」
「あははははは! 拒まないんだね。ダメだよ、自分を大事にしなくちゃ。君はただでさえ、苦しんだんだから」
キモ山さんの表情からいやらしさが消え、ただ優しさだけが蓄えられた笑みになる。珍しく意地悪な様子に、なおも惹かれていることを自覚する。まあ、吊り橋効果、なのだろうが、別段この快楽に身を委ねない理由もなかった。何せ、俺はもう死んでいる。元の場所へ戻るなどないだろう。このひと時が刹那か、まだ続いてくれるのかは知らないが、どうでもいい。今が幸福であることが重要だ。
「キモ山さんなら、大事にしてくれます」
キモ山さんが驚いた顔をする。顎に手を当て何かを考えた後、手が首元から肩、腹と滑り、臀部に伸びてきた。ゆっくりと撫でたり、揉んだりする。くすぐったく、気持ちがいい。
「あっ」
思わず声が出る。顔が熱い。流石に照れを隠せない。
「まさか可愛い軽口を叩けるまでになってるとは。恋愛感情じゃなければ、喜んでまた後で」
「多分、感じてるのは母性とか父性だと思うので……」
「それはよかった。いやいいのか? あはは、まあ、そうだね。君の言うとおり、恋とはまた違いそうだ」
今回ばかりは、キモ山さんの読心に救われた。恋慕があれば、これ以上キモ山さんと戯れられない。今は、それが一番の不幸だ。
「じゃあ、雰囲気を壊して申し訳ないけれど、何があったか話せる範囲で教えてくれるかい?」
鼠蹊部を撫でていたキモ山さんの手が、頭へ移動する。名残惜しいが、仕方がない。俺はキモ山さんの手を取り、顔に移動させ、頬擦りする。嫌なことを思い出し、語るのだ、これくらいは許されるだろう。
キモ山さんは、第三者が介入してきたことは理解しているものの、何故俺が血みどろで倒れていたかは分かっていない様だった。電気が消えた後、命令通りに屋上へ向かって、突き落とされたことを話す。キモ山さんは終始、静かに聴いていた。少し、空気がピリつくのを感じる。キモ山さんの額に青筋が浮かんでいる。怒りだ。
「僕、言ったんだけどな。ただじゃ置かないって」
溜め息を吐き、うんざりとした様子でぼやく。初めて見る表情だ。多分、いや間違いなく、俺のために怒っているのだろう。思い通りにいかなかったことそれ自体に怒る性分ではあるまい。それですら、俺には嬉しく、安心材料となっていた。
「俺、多分、自殺したんですよね。死ぬのが怖くて、自殺した」
「なるほど、それが君の答えだね?」
「答えというか、分からないんですけど、しっくりくる仮説に感じています」
少し黙り、キモ山さんは続ける。
「死は平等に恐ろしい。僕も怖いよ。だから皆、何かしらの形で心の整理を付けている。それが、君には難しかったのかも知れないね」
頬を撫でてくれる。死ぬ前の俺は、ある種の錯乱にあったのかも知れない。それはともすれば、吊り縄を目の当たりにしたり、突き落とされたりした時に走り抜けた思考より、もっと支離滅裂なものだったろう。少なくともそう思うくらいには、死を選ぶという選択肢が俺には信じられなかった。その癖、湾曲した思索の果て、取り返しのつかない方法に手を出したのだ。何故なら、死ねば死ななくて済むのだから。
「そう! そうさ! キモ山くんの言う通り、死とは平等に恐ろしい!」
急に大きな声が耳元に響く。ギョッとして声の方に首を向けると、布団が奇妙に膨らんでいる。キモ山さんが布団を勢いよく捲ると、橙色の異形が、ベッドに入り込んでいた。
「そして、少年、君は死を誰よりも恐れているにも関わらず、本来ならば取り得ない自死という自制手段を取ったのだ!」
「お前、何っ――」
「お前、とはなかなか不躾じゃないかね? ああ、いや、自己紹介がまだだったね! 申し訳ない! 小生は死神! 謝罪のできる陽気な死神さ!」
死神を名乗る橙色が俺の身体に跨り、少し身体をくねらせながら手を握る。抵抗する力が湧かない。思った以上に体力を消耗しているらしい。あるいは、不意の異常に脳が追従出来ていないのか。
「すまないね、二輪の百合、いやこの場合は薔薇かな? その間に挟まる様な真似をしてしまって!」
「じゃあもう少し大人しくしてはどうかな? あと服を着なさい」
「まあまあキモ山くん! 君はまだこの少年とねっとり絡み合ってもいないのだ! そう気にすることではないさ! それに服は着ているよ! この褌が見えないのかね!」
キモ山さんの顔に呆れの感情が張り付いている。また、初めて見る表情だ。そこからうるさい異形に顔を向けると、俺よりも少し小柄な身体が膝立っていた。少年の様な体躯で腰を突き出し、褌を強調している。褌、というより、これは前掛けか? 身体を揺らしているため、垂れた布が小さくはためき、布に包まれていない中身が時折見える……。
「それは服、というより下着だよ。いや、下着の意味も成してない」
「いいじゃないかいいじゃないか! 君の息子くんだって、年がら年中扇情的な格好をしているのだしね!」
異形は掛け布団から出、俺に跨ったままツルッとした四肢を伸ばしてポーズをとって見せる。伏した俺からは、もう既に股間が丸見えだ。ところで、聞き捨てならないことを聞いた気がする。問い質そうかと思ったが叶わず、騒がしい橙色が、
「さて、本題だ! 実は君についてはいろいろと悩んでいてね! 自殺をした魂として平生通りの処理したいのだが、如何せん死への恐怖が強すぎる! そんなので何故自死を選んだのか小生には甚だ疑問なのだが、そんなことは今共感しようとしても仕方がない! 世の中には様々な思想があるからね! そう、多様な思想が顕在化したせいでなかなか小生らの仕事も難しくなって来ているのだよ! それはさておき、小生らの仕事は魂の浄化と再分配、廃棄、創成でね! 一先ずは君の魂をどう浄化するかが悩みの種なのさ! しかも君は十六歳! 若い! 小生の半分くらいしか生きていな〜い! お、それはこの死神さん、意外と若いな、と言う表情だね! そうともさ! 小生は若くして死神の第三位まで上り詰めたそこそこの秀才でね! でも今は小生の話はいいのさ! またじっくり教えてあげよう! 君、そう君の話さ! 異常に強い死への恐怖、若さ、これらは魂の扱いをなかなか難しくしていてね……。前者は呪いの様なものだと思ってくれたまえ! 後者はそうだね、魂が成熟していないから、繊細な作業が必要になると思って貰えると良いかな! そこでだ! 君にはまだ生きて貰うことにした!」
と、身体を俺に密着させながら、一気にそう捲し立てた。股間が腹に当たっている。頭が痛い。そう思っていると、キモ山さんが頭を撫でてくれる。安心と憂苦が鬩ぎ合っている。
「話が長いよ」
「まあまあキモ山くん! これでも努力しているのだ! 許してくれたまえ!」
キモ山さんが溜め息をを吐く。キモ山さんの心労は計り知れないが、しかし、今は耳を疑う言葉に脳が揺れた。
「まだ生きて貰うって……」
「そう! 君の罪は死への過剰な恐怖だよ! 故に! 不老不死となって生きることの地獄を味わって貰う! そうだ、まだ生きて貰う、は変だね! まだまだまだまだ生きて貰うよ!」
正直、死神というのも信じていいのか分からない状況で、更に信じがたい発言が飛び出した。不老不死?
「そんなこと出来る訳……」
「できるよ、コイツならね」
「キモ山くん! 何度も身体を重ねた仲じゃないか! 類稀な小生の乱れた姿を直視した仲だろう? コイツ呼ばわりはやめてくれたまえ!」
死神がいやらしく、あるいは恍惚の笑みを浮かべながら言う。
「キモ山さん…」
「これについては後で弁明させてね」
「ははは! キモ山くんに惚れている君にとっては衝撃の事実だったかな? まあ気にしないでいいさ! キモ山くんはモテるからね! 実際、小生もかなり好きだ! でも一旦諦めたまえ! 彼には旦那さんがいるからね! 恋愛はダメだ! でもそれ以外なら大丈夫だよ! 旦那さんもなかなか好きものだからね!」
キモ山さんが溜め息を吐く。釣られて俺も溜め息が出た。
「コイツこんなんだけど、行為の時はしおらしいMだよ」
「あっはっは! 興奮するからやめたまえ!」
「逆効果だったか……」
話が前に進まない。少し盛り上がった褌を強調するバカを、あまり視界に入れない様にする。今訊くべきは、今後俺がどうなるかだ。
「俺、不老不死になるんですか?」
「そうだとも! なかなか悩んだし申請に時間がかかったがね! そして、不老不死になった後はキモ山さんに世話を一任しよう!」
「聞いてないなあ……」
不老不死、という言葉に実感がない。当たり前だ、そんなものはあり得ないのだから。だけれど自分が生きたままに死ななくなることに、不信を掻き消すほどの高揚を覚えていた。それに、これからもキモ山さんと一緒にいられるかも知れない。正直、嬉しい。思わず、顔が綻んでしまう。キモ山さんの方を一瞥すると、こちらを見て驚いた顔をしていた。
「君、笑うんだね」
「あっはっは! 可愛い子だね! あくまで待っているのは地獄なのだけれど! それに、小生の仕事を手伝って貰うからね! 折角の不老不死だ! 利用されてくれたまえ!」
不老不死、やはり実感が湧かない。十数億の年数を経て、太陽が爆ぜるという話を聞くが、俺はそれでも尚、生き続けるということなのだろうか。やはり、実感が湧かない……。しかし、それはきっと孤独で、地獄だろうことは想像できる。けれど、そんなにも長い年月の中で、何も対策を講じられないこともないだろう。嗚呼、俺は今、ワクワクしている。この異常事態に、前向きな俺がいる。
「ほどほどにね」
キモ山さんが苦笑を橙色に投げている。キモ山さんとは、いつまで一緒にいれるだろうか。
「ところでだ! ただじゃ置かない、とは、何をするつもりだったのかね?」
死神がキモ山さんに問う。キモ山さんすぐ様に、
「この一件が終わったら、当分口を聞かない」
と返した。口を聞かない? その程度のことで、粛清たり得るのだろうか。そう思い、死神を見ると、口をあんぐりと開け、分かりやすく驚愕している。わたわたと腕を振り回し、
「すまない! 本当にすまない! だけれど! あれは必要なことだったんだ! この少年が本当に死の恐怖に囚われているのか、それが死に面しても維持されるのかを確かめなければ、不老不死なんか大仰な烙印は押せないのだよ! 非常に、非常に病的であることを確かめなければ! 諦めないことを確かめなければ! 本当だ! 許してくれ! キモ山さんに嫌われたら、小生の生きる楽しみの六十パーセント減間違いなしだ! キモ山さんに嫌われたら、他の連中も小生に冷たくするだろう! そうしたら生きる意味が百パーセント減だ! 小生は死神というシステムの歯車に成り果ててしまう!」
俺は病的らしい。
「他に方法はなかったのかい?」
「……あった! もっと穏便に死を実感させられればよかった! すまない! 本当にすまない!」
「謝るのは僕ではないだろう?」
橙色は固まり、恥ずかしそうに人差し指を差し合いながら、再度俺の身体に跨ってくる。俺は全裸だし、この死神もほとんど裸だし、下腹部が触れ合っているし、ちょっと、本当に、やめてほしいかも知れない。
「少年、すまなかった。もう、こんなことはしない。悪戯に人の精神を汚濁する様なことは」
打って変わって、死神はしおらしく謝罪を向けてきた。目がかなり潤んでいる。多分だが、これは本心だろう。記憶を遡っても何も思い出せないが、こんなにも
「大丈夫です。許します。不老不死に、してくれるなら」
「もちろん、約束しよう。すでに確定した未来だ。しかし、あまり良いものではないことは覚悟しておいてくれたまえ。これはあくまで愚者への大罰として執行されることになる」
「大丈夫です」
死の恐怖を乗り越えられない、あるいは克服に膨大時間がかかる俺にとって、悠久の時間は、ともすれば必要なものかも知れない。 キモ山さんの存在が心強いのもある。正直なところ、この意味不明な生き物の存在も、少し心強い。少なくとも、俺の敵ではないはずだ。同時に、味方でもないかも知れないが。
「キモ山くん……」
「ああ、分かったよ。この子が許すなら問題ない。でも今後、こういうことはやめなさいね」
「もちろんだとも!」
パァッと明るい顔になった橙色は、俺に身体を密着させ、頭を撫で、頬擦りしてくる。その肌は柔らかくもエナメルの様な質感で、ツルツルとしている。ひんやりと気持ちがいい。いや、なんなんだこの状況は。
「小生が姿を見せられる相手は限られていてね。つい最近までなかなかに孤独だったのだよ。すなわち、少年も、小生と仲良くしてくれると嬉しい」
顔を赤らめ、死神が言う。コロコロと表情が変わる人だ。人? まあ人でいい。きっと、元来寂しがりやなのだろう。キモ山さんの粛清も『ただじゃ置かない』と言うには些か優しいものだった。しかし、この死神には死活問題なのだ。
「分かりました。どの道、何か手伝うことがあるんでしょう?」
「うむ! じゃあ、まず雑談で親密になろうじゃないか! 体位は何が好きかね? 小生は騎乗位で激しくされるのが……」
「教育に悪い」
キモ山さんが勢いよく死神を跳ね飛ばす。布団から転げ落ちた橙色は、頭を抑え暴れている。騎乗位……?
「今は一旦忘れて良いよ」
「一旦、と言うことは、後で教えてくれるんですか?」
「……君、ちょっと意地悪だね……」
苦笑いを見せるキモ山さんが、また頭を撫でてくれる。
「とりあえず、もう少し休もう。この先のことは、休んでから」
「はい」
「あのぉ、小生もご一緒していいかね?」
俺が考える素振りを見せると、死神は慌てた様子で、何もしないから、と繰り返し頭を下げてくる。少し、この生き物の扱いが分かった気がする。
「いいですよ、おいで」
俺が手を伸ばすと、表情を明るくした死神が手を握り、ゆっくりと布団に入ってくる。
「キモ山さんも脱がないのかい?」
「君は脱いでる自覚があったのか」
キモ山さんは当然脱がず、変わらず俺に腕枕をしてくれている。死神は反対側に寝そべり、身体を密着させてくる。手にモノが当たっているが、一旦は気にしない様にしよう。
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