雨が止む頃、君は居ない。

酔止。

花火大会。

青い風が吹き溜まる、六畳半の小さな角部屋。

真夏の茹だるような暑さに嫌気がさす。

去年から片付けていない毛布に汗でじっとりとした肌が触れるのが何だか鬱陶しくて、ボクは乱雑にそれを放り投げ、薄い綿のバスタオルに包まった。

だがクーラーをつける金もない部屋は一日中風が吹きさらしているとはいえ、まるでサウナのように暑く、一分もしないうちにボクはそれすらも邪魔そうに取っ払って玄関先にある洗面台の蛇口を捻った。

蛇口から出てくるのはひんやりとした冷水ではなく、人肌程度に温められた生温い水だ。だがそれでも安全な水が出るだけマシだろうかと考え顔を濯ぎ、歯を磨く。

ふと、歯ブラシを咥えながら曇った鏡に視線を移すとそこに居たのは碌に手入れもされてない髪に無精髭を生やした、昨年より五歳は老けて見える自分だった。

「おはよう、理央!」

少し立て付けの悪いドアが無理矢理開け放たれる。元気で威勢のいい声がして、ボクはだらしなく腹を掻きながらそちらに目をやる。

「……海莉」

「また朝寝坊? ってかここ暑いね、お婆ちゃんにやっぱエアコンは必要だって言おっか」

「良いよ、すぐ出ていくしつもりだし」

「アテはあるの?」

「ないけど」

「ふぅん、じゃあ今日もデートしよ?」

「……あぁ」

彼女、海莉とは所謂、偽装恋人の関係だ。

ボクは四年生大学を卒業後、特に人生の目標もやりたいこともなく適当に入社した会社がドブラックの暗黒企業で、パワハラに給与未払い、過労死寸前のサビ残に耐えかね、半年と経たずに鬱で退職。それから社会復帰が上手くいかずにズルズルと無職を続け、家賃滞納でアパートを引き払わざる負えなくなった頃には、いつの間にか地元へ帰る路銀も尽きていた。

そんな先の見えない人生と人並みに生きられない自分の情けなさに絶望し、電車への飛び込みを図っていたところでボクの手を引いたのが、高校時代のクラスメイト、橘海莉だ。

高校時代、彼女とボクにはこれといった接点はなかった。それどころか、水と油。夏と冬。彼女が青春ならボクは白秋。

 そう例えたくなるぐらいには真逆の高校生活を送っていて、もし三年夏休み前の席替えの時に彼女がボクの隣席になることがなければ、お互い顔すら覚えてすらいなかったと断言できるほどだ。




「あの後何があった? 修学旅行は、どこに行ったの?」

 デートと称した散歩先、河岸の甘味処で、彼女はかき氷をつつきながら首を傾げる。

 あの時、席替えの三日後——彼女は突然学校に来なくなった。当時は教師も何も言わなかったから転校か何かだろうと思っていたが、最近になって理由を知った。

 彼女は不治の病を患っている。

「京都、清水寺とか行ったかな——山本さんって覚えてる? あの派手な」

「あぁ、悠真くん?」

 親しげに名前を呼ぶ彼女に対して言い表せない感情が一瞬浮かぶが、その胸の気持ち悪いものを振り払って話を続ける。

「あの人が木刀買って、それで怒られてた」

「あはは、悠真くんらしいね」

彼女は寂しそうに笑った。

もし、あの時出会ったのがボクじゃなければきっと彼女は他のやつに声をかけただろう。

——死ぬ前に、恋人を作ってみたい。

そんなささやかな願いを叶えるため、彼女が死ぬまでの間恋人として付き合う代わりに、彼女の祖母が所有する古いマンションの一室に居候させてもらう契約。最初は死ぬ予定の人間と恋人ごっこなんて、と思っていたが海莉は底抜けに明るく、嫌味ひとつない性格で、陰鬱なボクなんかにはごっこ遊びでも勿体無いぐらいの人間だった。

 今思えば、彼女からの哀れみだったような気もする。人生に絶望した寂しい男への同情、死ぬ前の慈善行為。もしそうだとしたらボクは彼女がどう言おうといっとう最低な人間だ。

 彼女が幸せになるはずだった時間を、ボクという屈折した存在が奪っている。

「理央」

「何」

「理央はまだ、死にたい?」

 チリン、と軽やかに店先の風鈴が鳴る。自転車が甘味処の前を通り過ぎて、少し離れたところで子供が嬌声をあげた。そんな喧騒は、ボクにとってどこか離人感を伴っていて、孤独が強まるのを感じる。でもただ孤独であることが死ぬ理由にはきっとならないだろう。

だから、答えた。

「わからない」

「そっか」

そもそもお前は本当に死にたかったのか?

そう聞かれたって、ボクはわからないと言うだろう。あの時はただ——この電車に飛び込めばもう何にも迷わなくて済むんだって、そんな気持ちだった。それは恐らくただの衝動で、論理的な思考じゃなかった。

 だから別に、ボクはきっと、死にたいわけじゃなかった。

「ね、川まで降りてみよ」

「うん」

 手を引かれて川べりに降りると、親子が水をかけあって遊んでいる。さきほどの子どもの嬌声はこの声だったのか、幸せそうで良いななんて考えながらその様子を微笑ましく眺めていると突然水をかけられる。

「わっ」

「あははっ」

 素っ頓狂な声をあげるボクに、海莉は悪戯っ子のような笑みを浮かべた。

「夏はね、夏ってだけで全部がキラキラして見えるから好き」

 そういえば席替え直後のオリエンテーションで彼女はボクに夏が好きだと教えてくれた。好きな季節が夏だなんて、珍しい人だなぁと思ったことを思い出す。

「……暑いだけだよ」

「理央が引きこもってばっかりだからだよ」

「電気代もかかるし」

「もう! 悪いことばっかじゃないんだって」

海莉は口を尖らせて、拗ねたように川の中腹にある飛び石に座り込む。それからしばらく黙っていたから、ボクも黙っていた。

沈黙が五分ほど続いたのち、海莉がこともなげにつぶやく。

「……普通の人の平均寿命って知ってる?」

「女性だと八十ぐらい、後半にも差し掛かりそうなんだっけ」

年々伸びていく平均寿命に辟易しながらニュースを見ていた日々を思い出した。

「八十回ってさぁ、少ないよね」

「何が?」

「夏だよ。生涯に味わえる夏」

「……そう言われるとまぁ」

「花火、見たかったなぁ」

「間に合わないの?」

「うん、もうその時には——」

 彼女は少し寂しそうに微笑んで、川のせせらぎに指を曝した。

「きっと見られるよ」

根拠もないことだった。

ボクは医者でも、神様でもない。

こんなのは、気休めにしかならない。

「え?」

「ノストラダムスも予言を外したんだ、余命宣告だって確定の未来じゃない」

無理矢理こじつけた理由は、どうにも不恰好なもんだった。

「——そうだね。じゃあさ」

彼女は小指を差し出し、今度はこぼれんばかりの向日葵のような笑みを浮かべる。

「一緒に浴衣着て、見に行こう? 約束」

「……あぁ」

ボクはその約束に、指切りげんまんはしなかった。とても出来なかった。

「あ、雨」

「ゲリラ豪雨か、最近多いな」

ボクは彼女の手を引いて河岸に戻し、着ていたパーカーを脱いで彼女に着せた。

「体弱いんだから、冷やさないで」

「……うん。ねぇ、理央」

「何」

「君だから、良かったんだよ」


それから数日後のことだ。

海莉の容体が急激に悪化し、あれよあれよという間に彼女は病室のベッドの上で生命維持装置と無数の点滴に繋がれていた。

「ね、理央」

「何」

「また、明日」

明日には彼女は声が出せなくなる。

栄養チューブのために気管を切開するらしい。

「あぁ——また、明日」

海莉は微笑んで目を閉じた。

明日が大嫌いだったボクが、明日を願った。

二度と朝なんて来るなって思ってたのに、朝が来ることを願った。

あの日、電車に飛び込もうとしたのを止めてくれたのは君なのに。

この命も全部——君に貰ったものなのに。

ボクは何も、まだ君に返せていないんだ。

「……花火見たいんだろ」

海莉の掌を、握った。

こんなに痩せてたっけ。こんなに、白くなってたっけ。目頭に、涙が滲んだ。

「起きてくれよ」

次の日、海莉は意識不明の昏睡状態に陥った。


その日からボクは毎日病室に通った。

雨の日も、風の日も。

台風の日も、大雪の日も。

医者に回復は絶望的だと言われた。

彼女の祖母は生活が苦しくて、もう治療費を出せないと言った。後から知ったが彼女は父母を失い、祖母しか家族が居ない身だった。

だからボクはスーツに袖を通して、死に物狂いで働いた。治療費を工面して、絶望的だと言われる生命維持と先進医療に給料のほとんどを注ぎ込んだ。

だって、これは海莉に貰った命なんだ。

「海莉、君のおかげでちゃんとしたところに就職出来たんだ。だから次はボクがお店に連れていってあげる。向日葵が綺麗だったから、買ってきたんだけど——ちょっと大きかったな」

花瓶から零れ落ちそうな向日葵を見て、あーあ格好つかないなぁなんて思った。

「次はガーベラかな? 秋になったら、花を入れ替えなきゃね。でも、ボクにとって海莉は向日葵だから、ボクは——夏が好きだな」

彼女が眠った夏。

その夏の花火大会は雨が降って中止になった。

その次の年の夏も、雨が降った。

その次の時も——また雨が降った。

三年連続、花火が上がらなかった。

ボクは空を見た。

病室の窓から、空を見た。

蒼穹に浮かんだ白い入道雲。予報によると今年の花火大会は雨が降らないらしい。

青い風の吹き溜まり、角部屋の病室に爽やかな夏の匂いがした。何かに導かれるように、ボクは振り返る。

「……おはよう、海莉」

予測に反して、ボクの喉から出たのは、ひどく掠れた声だった。

「花火、見に行こう。雨が止んだから、例年通りに上がるって。二十七回目の夏だよ」

そう伝えた時に綻んだ、酸素マスク越しの海莉の柔らかな唇に、ボクは泣き崩れていた。

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雨が止む頃、君は居ない。 酔止。 @Pumpkin11

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