第3話 第二音楽室の怪

 改めて三人分のお茶を準備しつつ、犬童はのんびりと話し始める。


「本格的に探すのは来週からかな。筑紫くんも転入してきたばっかりだし。あ、お茶どうぞ」

「ありがとうございます」

「ありがとーございますー」

 たけると豊国はそれぞれお茶を受け取り、少し冷ましながら飲み始めたが、隼人はお茶はそこそこに机の上に残っていたおはぎを摘んだ。


「軍毅殿頂きますねぇーんー旨い」

「おい隼人、そのおはぎは軍毅殿に奉納するために作ったんだぞ。勝手に食べるな」

「えっ!おはぎ筑紫くんの手作りだったの!?」

 赤みの引いた顔を再び赤く染めながら犬童は驚嘆した。どこかの有名店で買ってきたのかと思うほど、美味いおはぎだったからだ。


「筑紫は料理とかいけばなとか好きなんですよぉ。前食べた筑前煮も絶品だったしねぇ」

「へえ、そっちもぜひ食べてみたいね!」

「…軍毅殿がお望みでしたら今度作ってきます」

 意外そうな表情を浮かべるでもなく、食べたいと言われたのは(隼人以外では)初めてだった。

 この体格や顔のせいで、好奇の目を向けられるのが常だったから。じわりと喜びが胸を満たす。


「うん、楽しみにしてるね。あっ急かしてるわけじゃないから!」

「はい、分かりました。好きな物も教えてください」

 にこりと微笑む筑紫の顔に、犬童と隼人は妙な声を上げつつ胸を押さえる。


「さ、さっきもそうだけど、固い表情からのギャップが凄いね」

「ぐうぅ、同意しますよ軍毅殿ぉ」

「勘弁してください…」

 隼人はいつもの事だが、犬童にも言われると何だか恥ずかしかった。


「ん、ん、ゴホン。じゃあ軽く今分かってる怪談発生源の話だけしようかな。第二音楽室の噂を小耳に挟んでるんだ」

「あ、ウチそれ知ってる!なんかぁクラスの女の子達が騒いでたよー」

 ちゃっかりおはぎを食べていた豊国は、勢いよく手を上げた。四人の目が豊国を見る。


 ――曰く。

 第二音楽室は吹奏楽部の部室で、部員以外が入室することはない。

 だが休みのはずの日や、誰もいないはずの時間に物悲しげなチャイムの音が響くという。


「…なぜチャイムなんでしょうか。ピアノが定番では?」

「隣の第一音楽室ならピアノあるんだけど、第二にはないんだよね」

「答えが分かるなら、何だっていいじゃん。本来なら怪談発生源探すとこからだしぃ?」

 何とも言えない表情で、微妙にズレたやり取りを行う二人に、隼人は呆れたように突っ込んだ。


「それもそうだね。じゃあ今日はお開きにしようか。来週の金曜放課後にまた社会科準備室に来てもらえるかな?」

「分かりました。よろしくお願いいたします」

 四人とも頷くとぺこりと頭を下げた。健と豊国は部屋を出ていき、筑紫と隼人だけが部屋に残る。


「これからオレが学園案内してあげるねぇ。まずは学食かなぁ?」

「はぁ…結局こうなるのか。これも縁か。学食より図書室から行きたい」

「オッケー!相変わらず本も好きだよねぇ」

 隼人は幼い頃からはよく筑紫にくっついてきた。それは中学生まで続いたが、高校は別になったので頻度は減りこのまま関係は薄くなくなるかと思っていた。別に苦手なわけではないが、あてが外れて筑紫は軽く溜息する。

 硬い雰囲気のせいで友人がほぼいない筑紫には、友人が多い隼人が自分にばかり気を向ける理由が分からなかった。


「じゃ、失礼しますねぇ軍毅殿。おはぎご馳走様でした」

「失礼します。また金曜日に」

「うん、二人も気をつけてね」

 二人を見送りながら犬童は微笑んだ。夕焼けの入り始めた部屋に、犬童の白い髪が反射して煌めいている。

 どこか懐かしさを覚えながら、筑紫は部屋を後にした。


「図書室で何読むのぉ?」

「ああ、軍毅殿の伝記を改めて知っておきたいと思ってな。蔵書が多いと聞いたし『白日別記しらひわけき』以外もここならあるかもしれない」

「あ〜〜なるほどねぇ。真面目だね筑紫は」

『白日別記』は千数百年前にこの地に起こった実話を綴った伝記だ。本のタイトル『白日別しらひわけ』は当時実在した犬童に仕えた防人の一人の名であり、都督府学園の前身である学校院という施設を建立した人物でもある。そして何より筑紫達一族の祖先にあたる。

 そのため『白日別記』は実家にあるが、それ以外で犬童が登場する書物はない。


「白日別は俺にとってご先祖様だけど、お前も何だかんだ詳しかったよな?」

「…まあねぇ。軍毅殿に仕えてたんだよね白日別サンは。ま、今日は遅くなる前に帰ろうねぇ」

 少し遠くを見るような目で語る隼人だったが、ぱっといつもの表情に戻ると、図書室に筑紫を案内するべく歩き始めた。



 そこからの一週間は早かった。クラスではまだ話せる友人はできそうにない筑紫だったが、レベルが高い授業内容にそれどころではなかった。

 昼休みに必ず教室を訪れる隼人に連れられて、学園のあちこちを見ていた筑紫は、生徒通用口から入って真正面の階段の後ろにある中庭を見て歩みを止める。

 中庭には御影石で正方形に囲まれた枠があり、その中を白い玉砂利が埋めていた。その中心には一本の南天の木がある。


「あれが『産土神うぶすながみよりたまいしふしる一木の南天、此の血をもってほうず』とされてる産土神のもたらした封印か?」

「あの一文覚えてんのぉ?あそこ入れないようになってるけどねぇ」

 隼人が言う通り、廊下に囲まれた中庭に入るための入口は存在していない。だが、手入れされているように塵一つないそこは、場が澄み切っているのを感じる。


「凄いな。あの南天の木一つで、かなり強力な結界になっている」

「流石都督府学園って感じだよねぇ。まあここはいいから学食行こう学食ぅ」

「お前そればっかだな。まあ腹も減ったし行くか」

 興味なさげな隼人の様子に、筑紫は呆れたように笑いながら歩き出した。


「…軍毅、いや、犬童先生?」

「あっ二人も今日は学食?都督府学園の学食は美味しいし量もあるよ!」

 都督府学園の学食はバイキング式で、好きな料理を選ぶことができる。生徒共にバイキングの列に並んでいた犬童に声をかけられて、二人揃って会釈した。

 犬童の皿にはその小柄な体のどこに入るのかと聞きたくなるほど、多種多様なおかずと白米が山盛りになっている。


「折角だし一緒に食べる?先に席取っとくよ」

「ありがとうございます。では食事を取ってきますね」

「あっ筑紫っちに隼人っち!ウチも一緒に食べるー」

「珍しい組み合わせだなあ。俺達もご一緒しても?犬童先生」

 気づけば防人四人全員が集合していた。犬童はにこりと微笑むと楽しげに席を確保しに行く。四人はトレイの上に乗せた皿に、思い思いに料理を乗せていく。


「いやしかし犬童先生、意外と食べるんだなあ」

「あんな小ちゃいのにねーどこに入るんだろ?」

「小さいは余計だろ。まあ不思議ではあるが」

「あっ青椒肉絲チンジャオロースあるじゃん。ここの中華美味いんだよぉ」

 好きなように話している四人を、周りの生徒は不思議そうな顔で遠巻きに見ている。学年もタイプも全く違う。親戚だと知る者は当然いないため、はたから見ると違和感しかなかった。

 何より一緒に席についた犬童がかなり小柄なため、180cmを超える四人といると最早巨人に囲まれた子犬のようだった。


「みんなご飯選んだ?天地あめつちの恵みと、多くの人々の働きに感謝して、命のもとを謹んで戴きます」

「いただきます」

 滔々とうとうそらんじると、両手を合わせてから犬童は早速巨大な唐揚げを食べ始めた。


「んふ〜美味しいね!すだちと味噌汁も最高だし、はあ〜幸せ」

「犬童先生は食事が好きなんですね」

「うん!食べ物があるのはとても良い事だよね。誰も飢えてないのを見られるだけで良かったなって思うよ」

「…犬童先生が産まれた時代は、飢饉や戦が多くあったと学びました」

 先日図書室で読んだのこの国は、時代が時代なだけに今のような平和とは程遠い様相だった。

 貴族の文化は花開き様々な文学が生まれる一方で、平民が教育を受けることなどまず不可能。明日をも知れぬ生活がまだまだ続く時代だった。


「うん、あの頃はひどかったよ。お貴族様はさて置き、平民が道端で人が飢えて死んでるのが日常だった。人の命が羽根より軽い時代だったね」

「今からは考えられないですね」

「誰も飢えなんてない日が、いつか来たらいいなってずっと思ってた。そのためにも学びが必要だって、ね」

 そんな思いから生まれた都督府学園は、時代とともにレベルが上がっていく。卒業生は軒並み国立大学や難関私大に進学していて、大学への進学率はほぼ100%だった。


「…学びは大事だと重々承知してますが、本当にこの学園はレベルが高いですね。授業についていくだけで精一杯です」

「あはは、よく頑張って編入したね筑紫くん。あ、そうだ。分からないことは隼人くんに聞いてみたら?入試から今まで不動の学年首位だったよね?」

 犬童は思い出したように隼人に目を向けた。ちらりと顔を上げると隼人は不満そうに唇を尖らせる。


「ええまあ、そうですけどぉ。筑紫ならいくらでも教えるって言ってるのに、あんま聞いてきてくれないんですよねぇ」

「お前の教え方は分かりやすいんだが、余計なスキンシップが多すぎる」

「ええ〜いいじゃん別にぃ」

 青椒肉絲を摘みながら不満げに頬を膨らませる隼人を、犬童はまるで保護者のような笑みで見やる。


「はー美味しかった!ご馳走様さまでした」

 食事を終えた犬童は、両手を合わせてぺこりと頭を下げた。後片付けをしながら四人にだけ聞こえるよう、声を落として話しかける。


「いよいよ明日だね。各々必要な武具があったら持ってきてね。学園の許可は得てるから」

「分かりました。明日よろしくお願いします」

「うん、じゃあまた」

 小さく頷くと犬童は席を後にした。残された四人も食事を終えつつある。


「武具かー俺は母に日本刀借りるかな」

「タケルは刀ぁ?オレはつるぎだけど微妙にかぶるなよなぁ」

「ウチは剛弓かなー筑紫っちは何遣うの?」

「俺は無手だ。武具よりこっちの方がやりやすい」

 筑紫は言いながらぐ、と拳を握りしめる。筑紫達は一族の方針で武道を一通り納めているが、筑紫は拳で戦う事を好んでいた。


「なんか意外だねー筑紫っち、あんま殴るのとか好きそうに見えないのにー」

「相手のダメージも分かりやすいし、俺自身も無茶しなくていいからな」

 戦いで痛みを覚えるなら双方に。それが筑紫の妙な拘りだった。


「ま、今日は早めに休んで明日に備えよう」

「はい、お役目頑張りましょう」

 四人は頷くとそれぞれ席を立つ。初めての任務まであと一日。





 授業終了後の学園は、人気がほぼなくしんとしていた。夕方から業者を入れての全校清掃日という体で生徒は全員帰宅しているからだ。


「やあ、みんな集まったね。今日は事情を知る教師以外、誰もいないから気兼ねなくやろうね!」

「はい、では第二音楽室へ行きましょう」

 ぞろぞろと五人で連れ立って歩き始める。犬童と筑紫以外各々が武具を背負っており、剥き身ではないとはいえ異様さが更に際立っていた。


「鍵は借りてるからね、っと」

「…普通の音楽室ですね、と言いたいところですが」

「何かイヤ〜な感じするねぇ」

 部活で使われるパイプ椅子は、今は音楽室特有の壁に立てかけるように片付けられている。

 少しだけ高い壇上に所狭しと置かれた打楽器があり、その一番奥の窓際に問題のチャイムがあった。他の楽器には毛布が掛けられていたが、チャイムにかかっていたであろう毛布は床にくしゃりと落ちている。


「何かいる…黒い塊のようなものが視えます」

「あれが魑魅魍魎かな。隼人と豊国も視える?」

「ああ、割とハッキリ視えるねぇ。触手のボールみたいのがさぁ」

「うええー気持ち悪いー」

 チャイムの前にふわふわと浮く黒い何かがいる。ソレは口とも何とも言えない虚から、ぼたぼたと粘着質な黒い液体を零して低く唸り始める。


「異界化させようとしてるみたいだけど、まだ力が足りてないっぽいな」

「なるほど。視えないけど状況は分かったよ!じゃあチャイム中心に場を整えようか」

 最後に付け加えられた健の一言に、犬童は満足したように頷くと、四人に背を向けた。


「それじゃ初任務なので、最年長の俺から行きますね」

「…さて、人間達よ。僕に何を祈る?」

 健は背を向けたままの犬童へと向き合うと柏手を一つ打ち、深く一礼しながら目を瞑った。三人ともそれに倣い一礼しつつ目を伏せる。


「…掛けまくも かしこき犬童の神 かしこかしこもうす」

「どうぞ、聞きましょう」

 犬童は返答した瞬間、千年を超えるいにしえよりこの地を守護する神として顕現した。

 目を閉じ何も見えない暗闇の中、健の奏上する祝詞とともに、犬童の神というべき威圧感のある気配がぶわりと膨らんでいくのを感じ、全員の背に怖気が走る。

 初日に感じた圧力など比較にならない。通称では《軍毅》と呼ばれる犬童の、《神》としての本来の気配だと嫌でも思い知らされる。


 神との問答が終わるまで目を開けてはならないと教わっていたが、それを聞いていなくとも誰も目を開けない。得体の知れない何かに、直接魂を掴まれているようなおそれが体を支配していた。


「穢れはらじと 魑魅魍魎を祓え給い清め給えともうす事を こしせとかしこかしこもうす」

「……良いですよ。君の願いはしかと聞き遂げました」

 言い終わるやいな、今度は犬童が柏手を一つ打つ。音を中心に澄み切った空間が広がっていく。


「祓いに相応しい場に変えました。目を開いていいよ」

 四人がゆっくり目を開くと、音楽室だったそこは果ての見えない草原と、晴れ渡る空が広がる空間に変わっていた。空の青さはどことなく犬童の瞳の色に似ている。


「教室じゃ狭くてやりづらいからね。ここならどれだけ壊しても大丈夫だよ」

 振り向いた犬童の服装は生成りの狩衣装束かりぎぬしょうぞくに変化しており、無紋で細身の狩袴かりばかまを履いていた。


「《産土神うぶすながみ》犬童の名にいて穢れを祓う。防人達は怪異の足止めを」

「承知いたしました」

 犬童は袖口から自身の身長を超える大刀たちを取り出し、大地に突き立てる。大刀を中心に真っ白な光が湧き上がり、草地に五芒星を描いていく。

 四人は黒いもやに向かって一斉に武具を構えた。


「うっわ何その弓、ギラッギラじゃん」

「可愛いっしょ?とりあえず一発撃ってみるねー」

 隼人に引かれるも意に介さない豊国は、デコりにデコったその剛弓を軽々と引き絞ると、一気に矢を放った。風を切る高音を響かせ、真っ直ぐに靄の真芯を穿ち地面に縫い付ける。


「弓の見た目はともかく、銃弾みたいな速さだな」

「あれ三人張りじゃない?狙いも正確すぎて凄いな豊国」

「ふっふーん、ウチ無敵だかんね!」

 剛弓は弦をより強く引く事で威力が増す。豊国が使用している剛弓は、三人張りと呼ばれる三人がかりでやっと弓を張れるような代物だったが、豊国は苦もなく一人でそれを扱っていた。

 ギャルらしく可愛らしい格好で過ごしつつも、使命は忘れず修行は怠らない。実は四人の中で一番筋肉量がある漢、それが豊国だった。


「む!みんな避けろ!」

「おっとぉ!」

 射抜かれた靄は一瞬ぶるりと震えたかと思うと、倍以上の大きさに膨らみ、四方八方に黒い触手を弾けさせた。筑紫の言葉に咄嗟に距離を取りつつ、触手を叩き切る隼人と建。上から襲ってくる触手には、豊国が再度剛弓で撃ち落とした。

 遠距離から攻撃する豊国を厄介と見たか、触手が豊国の死角から襲いかかる。視界の端でそれを捉えた筑紫は、咄嗟に豊国の背後に移動し拳を大きく振りかぶると触手を打ち抜いた。


「えぇっパンチしたら爆発したよ筑紫っち!?」

「脆そうなところがあったから、そこを全力で殴っただけだ」

 何事も無いように返す筑紫に、今度は豊国が絶句する。はたから見れば鍛え抜かれた拳も正確無比な剛弓の扱いも異常なのだが、自分にとっては通常通りのため普通だと感じている。


「こっわー殴られたら死んじゃうねぇ」

「隼人のつるぎも大分重くて怖いけどなあ」

 軽口を叩く二人の剣筋も鋭く重い。数本の触手を斬り飛ばすと、丸い塊になった靄が地面に転がり落ちた。


「軍毅殿!宜しく頼みます!」

 筑紫の叫ぶ声に犬童はニヤリと笑い、突き立てた大刀の柄を両手で握りしめた。膨らんでいた力が全て大刀に注がれて刀身が燿く。


「ははは!重畳ちょうじょうなるかな!!」

 犬童の足元の五芒星が刀身から光を注がれ黄金色こがねいろに輝き、靄を包み込んでいく。大地に押し付けられたように蠢く靄にヒビが入り、中央部に赤黒い玉を晒した。

 犬童が左手でその玉を直接掴むと、最後の抵抗とばかりに鋭い棘がその手を刺し貫いた。真っ赤な血が草地に飛び散る。


「軍毅殿!」

鎮魂みたましずめの神業 犬童の神の名に於いて 霊を祓い清めきらめく」

 刺されている手を顧みることなく、犬童は更に力を込める。次の瞬間玉はガラスのように粉々に砕け散った。破片は地に落ちる前に蒸発したように消えていく。

 握りしめた掌を開くと、犬童の血に塗れた20cmほどの骨片が残されていた。犬童が空いた右手を振るとひらりと一枚の符が現れる。骨片に丁寧に符を巻くと、その手から火柱が上がり符諸共骨片は灰となった。


「これで一つ目の殲滅完了だね。じゃ、場を戻すから目を閉じてもらえるかな」

「…分かりました」

 手についた血と灰を拭いながら犬童はからりと告げる。チクリと痛む心に蓋をして、筑紫は言葉を返すと目を閉じた。

 犬童の柏手で一つで、場の血腥ちなまぐさも何もかもが澄み渡っていく。次に目を開いた時には場が音楽室に戻っていた。チャイム付近からも不穏な空気は消えており、窓から映る空はすっかり暮れて月が見え始めている。


「はい、お疲れ様!思ったよりズレてなくてよかった」

「えっもう外暗い!?何時間経ってるの?!」

 空を見た健は慌ててスマホを取り出し時間を確認する。音楽室へ入室したときは放課後間もない時間だったはずなのに、とっぷり日が暮れている。


「一時間も経ってないよねー!?意味分かんないんだけどー」

「場を変えたことで神隠しみたいな状態だったんだ。時間が実際より早くなったり遅くなったりするみたい。まあ精々数時間とかだから」

「神様やばぁー」

 へらりと悪怯れることなく笑う犬童に、豊国が両腕を擦りながら呟く。犬童の服装も元に戻っており、軽く手を鳴らしながら四人の注目を集める。


「はい!じゃあ今日はこれでお開き!ちょっと遅くなっちゃったけど、明日から土日休みだから、各々ゆっくり休んで英気を養ってね」

「承知しました。では失礼しますね」

「お疲れ様ですーあっ待ってよ健っち!」

 ぺこりと一礼すると二人は武具を片付け部屋を後にする。またしても筑紫と隼人二人を残して。マイペースなのは全員の共通点だった。


「ん?二人はまだ帰らないの?」

「オレは筑紫と帰りますんで。筑紫何か用あるのぉ?」

「…軍毅殿、少しよろしいでしょうか?」

「え、なに……!」

 うそぶく隼人の横を抜けると、筑紫は突然犬童の左手を掴んだ。筑紫の行動に犬童と隼人の動きが止まる。少しひんやりした手だなと考えながら、そのままクルリと犬童の掌を返させた。混乱している犬童に気づかぬまま、しゃがみ込んで鼻がつきそうな距離でじっと見つめる。

 鋭い棘に刺された痕など一切残っていない。血の跡すら。神なのだから当然だと理解していても、頭が追いつかずに取った行動だった。


「あ、あの、どうしたの?」

「……すみません、先程の怪我が気になって。問題ない事は分かっているんですが」

「そ、そうだよ、大丈夫、だから」

 しどろもどろになりながら、犬童は掴まれたままの左手を離そうと軽く引いてみる。しかし筑紫にがっしり掴まれたまま動かせそうになかった。


「何故か嫌なんです。軍毅殿が怪我されるのも、平然とされているのも」

「…ごめんね、これからは気をつけるよ」

「い、いえ!軍毅殿が謝られる必要はないんです!!ただ俺が一方的に気になって」

 奇行に近い行動を取っていると急に自覚した筑紫は、慌てて犬童の手を離した。耳を赤くしながら、犬童は嬉しそうに微笑む。


「なんか心配されるのも久しぶり。ふふ、優しいね筑紫くん」

「筑紫に心配かけないでくださいよ軍毅殿ぉ?」

「軍毅殿に嫌味を吐くなよ隼人…」

 筑紫の行動に固まっていた隼人は、筑紫の慌てる声にいつもの調子に戻ると、早々に犬童に嫌味を吐く。

 少しだけ困ったように、それでも犬童は笑った。

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