第三章 §7 「緑霧渓谷の兆し」 その1
翠の霧が、まるで生き物のように足元を這い回る。
帝国最南端――“緑霧渓谷”。古代より《龍霊樹》の加護があると伝わるこの地は、
薬草と幻影の温床として知られている。
その霧は視界を奪い、音を歪ませ、時に心を惑わす。
だが、レイたちは怯まなかった。
「足元注意。苔で滑るぞ」
先頭を進むヴィクが、足場の凹凸を確認しつつ、合図の印を手で示す。
彼の歩幅は正確で、足音も極小。罠師としての技量が隠しきれない。
その後を、レイ・エルナ・ガロの順で続く。
「……霧が濃くなってきた」
エルナが囁くように言う。
空気は湿り、喉に絡むような甘い香りが漂っていた。
レイは立ち止まり、手をかざして風の流れを読む。
「北東から風の干渉。自然霧だけではない……微弱な魔力が混じっている」
「罠か?」とガロが問う。
レイは首を横に振る。
「違う、地形と植物起因の幻惑性だ。精神干渉ではない。だが錯覚を引き起こす」
ヴィクが小声で補足する。
「つまり、あんまり派手に動いたら崖から落ちるってことだな」
慎重な前進の末、開けた岩棚に出た。
そこは風の通り道で、霧がわずかに晴れていた。
岩棚を越えた先、谷底へと下る獣道の途中――小さな身影が、木陰に身を寄せていた。
「……誰かいる」
エルナが先に気づくと、レイもわずかに視線を鋭くする。
敵意なし。怯えた、だが確かに人間の気配。
ゆっくりと木陰から現れたのは、灰色のローブをまとった女性だった。
肩まで伸びた栗色の髪に、土と薬草の香りが微かに混じる。
「ご、ごめんなさい……あの、冒険者の方々ですよね? ギルドから来た、護衛の……」
そう言いながら彼女は、手にした採取用の籠を、
ぎゅっと胸元に抱き締めるようにして言葉を続けた。
「わたし、マリー・クラフトといいます。南の村の……薬師をしています」
ガロが眉を上げた。「クラフト……あんたが依頼主か?」
「はい……魔物が出ると知っていて、それでも来なければならなかったんです。
母が……病を患っていて。どうしても、《ヒスイ草》が必要で……」
言葉の端々に、抑えきれない不安と焦りが滲む。
その足元はふらつき、体は緊張と疲労で限界に近かった。
エルナが慌てて支える。「一人でここまで来たんですか? 無茶すぎます……」
「分かっていました。でも……お願いするにも、お金が……。
それに、ヒスイ草の採取時期がもう……」
レイが一歩前に出て、静かに言葉を添える。
「我々が護衛任務に就いている。ここから先は安全を確保したうえで行動する。
まずは霧の薄い斜面まで移動しよう。採取はそこからだ」
マリーは、まるで糸が切れたかのように小さく頷いた。
その頬を一筋、安心の涙が伝っていた。
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