第二章 §2 「無詠唱の囁き」
街路はまだ賑やかな活気を残していた。
夕暮れの柔らかな光が石畳に反射し、通りを行き交う人々の影を長く引き延ばす。
商人たちの掛け声、香辛料の強い匂い、帝国兵たちの鋭い視線──
そのすべてが、この異国の現実を物語っていた。
(なるほど……これが商業都市の活気か)
都市の中心部は整然と整備されているが、少し外れると景色は一変する。
雑然とした市場、流れ者たちがひっそりと通り過ぎる路地裏、
遠巻きに様子を伺う浮浪児たち。
(……どこの世界にも、こうした影はあるのだな)
だが、それらの存在こそが「この都市を動かしている力」だと感じ取れる。
商業の盛況と裏でひっそりと動く不穏な力、その両方を肌で感じることができた。
やがて、レイはダリウスが教えてくれた場所、《蛇の牙亭》に到達した。
店の看板には、確かに蛇が牙をむくような絵が描かれている。
古びた外観だが、特に目立つことはない。
ただ、扉の隙間から漏れ出す賑やかな声と、香ばしい料理の匂いが非常に魅力的だった。
軋む扉を開けると、温かな空気が一気に流れ込んできた。
店内は、冒険者たちのざわめきで満ちており、
酒が交わされ、笑い声が絶え間なく響いている。照明は薄暗く、煙草の煙が漂う。
だが、その煙すらも、この店の居心地の良さを引き立てているように感じられた。
(この場にいる者たちは、単なる表の顔では語れない何かがある)
レイは空いている席を見つけて腰を下ろし、周囲を静かに観察した。
いくつかのテーブルでは、冒険者たちが酒を酌み交わしながら笑っているが、
その目には、どこか計算高い冷徹さが垣間見える。
彼らはただの酒飲みではない。
情報を収集し、何かを狙っているのだろう。
隣のテーブルから、男たちが小声で話しているのが聞こえてきた──その言葉の中に
「魔法」や「無詠唱」といった、興味深い単語が混じっていた。
無詠唱魔法──それは、異世界の魔法体系でも極めて高度な技術である。
主人公は耳を澄ませ、何とかその会話を拾おうとする。
「無詠唱か……」
ひとりの男が静かに呟いた。
「だがな、そんな技術、簡単に手に入るわけがない。あれは……」
その続きを聞き取る前に、隣のテーブルから響いた笑い声がすべてをかき消した。
けれど、レイの耳は確かにあの言葉の余韻を捉えていた。
心の奥に静かに沈み込んだそれは、表面の雑音とはまるで別の層にあるようで、
無視することができなかった。
(……“無詠唱”か)
わずかに残ったその断片に、レイの思考は絡みつくように吸い寄せられていく。
なんとかして、この酒場に漂う情報を引き出せないか——
その思いが、内側でじわじわと熱を帯びていく。
目の前に置かれた飲み物を静かに手に取る。
グラスの縁に触れた冷たさが、思考を現実へと引き戻すようだった。
周囲を観察するふりをしながら、レイは気配と声、視線の流れを探った。
男たちの会話は続いている。
だが、その言葉の中に具体的な情報は混ざらず、煙のように曖昧だった。
それでも、この街には明らかに何かがある。
それは、ダリウスがかつて口にした「秘密」という言葉と重なっていた。
(あの“秘密”とは、何を指している?
そして、それは今ここで交わされている話と……繋がっているのか?)
思考の渦中、ふいに隣の椅子が軋み、隣席の男が声をかけてきた。
「……お前さん、どこから来たんだ?」
レイは顔を向けず、視線だけで相手を探る。
粗野な服装に、飲み慣れた手つき。
そして、その目は妙に鋭く、警戒心を包み隠してはいなかった。
だが、こちらもそれなりに慣れている。
レイは表情を変えず、あくまで淡々と答えた。
「さほど重要な場所じゃない。ただ、この街を少し見て回っているだけだ」
「ふうん、そうかい」
男は唇の端をわずかに上げ、グラスを軽く傾けた。
「なら、ここで酒でも飲んでいくといい。情報ってのは、
思ったより酒の底に沈んでいたりするものだからな」
軽口に見せかけたその言葉に、レイはごくわずかに眉を動かした。
皮肉か、本気か。それとも、何か含みを持たせたのか。
相手の真意を測りかねながらも、この店がただの酒場ではないことを、改めて確信する。
(……ここには、何かが隠されている)
それは単なる予感ではない。 空気の層がどこか歪んでいる。
耳に入る言葉、視線の交差、そのすべてが“通常”からわずかにずれていた。
ダリウスが言っていた「秘密」。
あれがこの街のどこかにあるのなら、手がかりはきっとここにある。
そしてそれこそが、自分がこの場所に足を踏み入れた理由なのだろう。
今はまだ散らばった破片に過ぎないが、いずれ繋がる時が来るだろう。
そう直感しながら、レイは静かに席を立った。
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