雨の夜の囁き

@gptjdwz

東京の裏通り

雨が静かに窓を叩く音が、バー「ミッドナイト・ブルー」の薄暗い店内に響いていた。東京の裏通り、ネオンの光が滲むようなこの場所は、都会の喧騒から一歩離れた隠れ家だった。カウンターの端に座る女、彩花は、琥珀色のウイスキーを指で軽く撫でながら、窓の外を眺めていた。彼女の黒いドレスは、肩から滑らかに落ちるシルクのようで、雨の光を受けてかすかに輝いていた。

バーのドアが軋む音がして、男が入ってきた。スーツの襟を軽く立てた彼、悠真は、濡れた髪から滴る水を払いながら、カウンターに近づいた。バーテンダーに短く注文を告げ、彩花の隣、ちょうど一席空けて腰を下ろした。彼の視線が、ふと彩花の手に触れた瞬間、彼女は小さく息を呑んだ。まるで電流のような、予期せぬ熱が走ったのだ。

「雨、ひどいね」と悠真が低く、柔らかい声で言った。彩花は微笑み、グラスを唇に寄せながら答えた。「そうね。でも、こういう夜は嫌いじゃないわ。どこか秘密めいているから。」

二人の会話は、まるで古いジャズのメロディのように、ゆっくりと、しかし確実に絡み合っていった。悠真の声は深く、時折笑うときに覗く白い歯が、彩花の心を不思議とざわめかせた。彼女の指がグラスを滑るたび、彼の視線がその動きを追う。言葉の端々に、触れそうで触れない距離感が漂っていた。

「ここにはよく来るの?」悠真が尋ね、彩花の方に体を少し傾けた。その動きで、彼の香水—サンダルウッドとシトラスの混ざった、ほのかに刺激的な香り—が彼女を包んだ。彩花は一瞬目を閉じ、その香りに身を委ねるように息を吸った。「時々ね。静かな夜に、頭の中を整理したくなるときに。」

バーの照明が、彼女の頬に柔らかい影を落としていた。悠真は、彼女のその横顔に、思わず見とれた。彩花のまつ毛が、まるで蝶の羽のように軽く震え、唇の端に浮かぶ微笑みが、彼の胸を締め付けた。「君のそういう表情…人を惹きつけるよ」と、彼は思わず口にした。彩花は驚いたように彼を見たが、すぐに目を逸らし、頬がほのかに赤らんだ。

雨は強さを増し、窓の外の世界をぼやけた水彩画のようしていた。二人の距離は、いつの間にか縮まっていた。彩花の手がカウンターに置かれた瞬間、悠真の指が、まるで偶然のように、彼女の指先に触れた。冷たいグラスとは対照的な、温かく、かすかに震える感触。彩花は動かず、ただその触れ合いに身を委ねた。彼女の心臓は、雨の音よりも大きく鼓動していた。

「この雨、いつまで続くと思う?」彩花が囁くように尋ねた。悠真は彼女の目を見つめ、ゆっくりと言った。「わからない。でも、この夜はまだ終わってほしくない。」

バーの奥で流れるサックスの音色が、二人の間に漂う沈黙を優しく包んだ。雨の夜は、まだ始まったばかりだった。

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