異能夫婦の大正ご飯~治癒の異能で契約結婚はじめました~
狭倉朏
異能夫婦の大正ご飯
第1章 涼子の結婚
第1話 没落寸前の典堂家
「お姉ちゃーん! 指切っちゃったー!」
「
典堂
これはこれで「典堂家のご令嬢が廊下なんて走るんじゃありません」と、叱られそうだが、典堂家の廊下は何がご令嬢だという有様なので、気にしない。
色あせた縞の着物をたくし上げ、腐った板を踏み抜いてしまいそうな縁側を走り抜けると、雅信はエンエンと庭で泣いていた。
雅信はまだ5歳。涼子とは一回りも年が違う。そんな弟は両親にとっては遅くできた跡取り息子。猫かわいがりされて育った甘えん坊だ。
子守のミドリが抱き上げて宥めているが、まだ泣いている。
「葉っぱで切ったんです」
ミドリは困った顔をしながら、そう言った。
「もう……」
ミドリの向こう、庭の奥を見れば、秋も近いというのに手入れもされずにボーボー生えたススキの葉がキラリと鋭く光っている。
「見苦しい……。全部燃やしちゃおうかしら」
「せめて刈ってください。お嬢様」
ミドリの冷静なつっこみを聞きながら、雅信の指をひょいと持ち上げる。切り傷がひとつ、まだ血が流れていた。
「――水に流されよ、滴りし血――」
涼子がそう唱えると、雅信の指がキラキラと光り、その光が消えるころには、血が止まっていた。
切り傷の跡は残っているけれど、痛みはもうないはずだ。
「ありがとう、お姉ちゃん」
雅信はさっきまで泣いていたのが嘘みたいにニコニコと微笑んだ。
「はいはい」
怪我を瞬く間に治す。先祖代々伝わってきたその異能は、すごい能力のはずだった。
けれども大正の今、その力は言うほど役に立たない。
理由は三つ。
一つ目は西洋医学の広まり。民間にも多くの医学が広まった。ヨードチンキだのなんだのが今や簡単に手に入る。
二つ目は異能規制法案。文明開化に伴い、異能の力は『遅れている』とされ、諸外国に対し隠しておくため、緊急時を除いた公共の場での使用が禁じられた。
そして三つ目は
元々あやかし退治の一族として名高い風月家。彼らの異能は『静かにあやかしを退治する』ことに長けていた。江戸の頃から彼らはその力を伸ばし、明治大正にはあっという間に勢力を増やした。
現当主の風月
気付けば典堂家の需要は減り、順調に没落華族の仲間入りだ。
「今日も傷病者がいないことは、素晴らしい……。けど……」
切実な問題がある。
屋敷がボロボロだとか、着物が母のお下がりで、流行遅れで、色が褪せて、すり切れているだとかはこの際、どうでもいい。
ただ、ただ、ひとつ。
「……お腹、空いた」
まったく涼子は運がない。生まれる時代を間違えた。
一昔前なら、時の為政者だって額ずき、求められただろう力は、今じゃ弟を泣き止ませるくらいでしか、役に立たない。
「お姉ちゃん、ススキあげるー! お昼ー!」
「お坊ちゃま!」
まだ現実を知らない弟が、再びススキに突撃しようとするのをミドリが必死に止めている。
それをボンヤリ見ながら、涼子はため息をつくのだった。
「せめて稲穂だったらなあ」
「いえ、この庭の広さで稲作は……」
暴れる雅信を抱えながら、ミドリが冷静にそう言った。
貧乏暇なし、涼子はそのまま厨房へ向かう。
お昼の支度である。一応、華族の末席にいる典堂家のご令嬢が今日もせっせと飯炊きだ。何がご令嬢だと、着物をまくって廊下を走り出したくもなる。
涼子は料理が嫌いではない。なんならわりと楽しい。けれども米びつの米をせせこましくかき集めていると、どうしても情けない気持ちになる。
朝のうちに握っておいたおにぎりを、あたため直す焼きおにぎり。糠漬け。雅信には卵焼きもつけてやる。
七輪に載せたおにぎりがジュッと音を立て、焼けていく。薄く塗った味噌の香りが漂ってくる。この香りだけでご飯が三杯は食べられる。我が家にそんなにたくさんのご飯はないけれど。
「よーし、いい感じ」
どうせ弟はまだ庭で走り回っているのだろう。今日は天気も良いし縁側で食べるのもいいかもしれない。
そう思って、全部お膳にのせた。一人用のお膳に三人分の食事が軽々のった。これはこれでもの悲しい。
「――ごめんください」
さて、運ぶかと手を掛けたところで、そんな声が正門からした。ハリがあり、よく通る、若い男の声だった。
誰だ。お昼時に訪ねてくるなんて常識がないのか。
「お腹減ってるのに……!」
涼子も雅信も、口にはしないがミドリだって、きっと腹を空かせている。
腹を立てながら涼子は正門へ向かった。
塀が崩れそうな典堂家の正門。年代だけは古い立派な木の門。
「はい、どちらさまですか!」
開けた門の前に立っていたのは、背の高い若い男だった。
目鼻立ちの整った美丈夫。凜々しい表情でじっと前を向いている。
見慣れない軍服を着ている。汚れ一つない軍服。将校だろうか。しかしそのわりには供の一人も連れていない。
軍人にしては線が細いようにも見えるが、すらりと伸びた背筋が服に隠れた筋肉を予感させる。
「……どちらさまですか?」
ちょっと気後れしながらもう一度尋ねた。
男は涼子をまっすぐ見つめた。
「典堂涼子さんか」
先に名乗ればいいのにと心の中で毒づきながら、涼子は返事代わりにうなずいた。声を出してやるのも癪だった。
「俺は風月颯真だ」
鞘にあしらわれた月の家紋を彼は示した。
「風月……」
まさかまさかの風月家当主。
一睨みで鬼が死ぬほどの豪傑。
意外に線が細いし、若い。涼子とそう変わらない年齢に見える。
けれども確かにその目は鋭く、こちらを値踏みするように射貫いている。
「えっと、典堂家に何のご用でしょうか」
じっと颯真を見つめる。
「お怪我、ではなさそうですね」
「わかるのか」
「気の流れと血の流れが見えます」
涼子は生まれつき変なうねうねした線が見えた。青色と赤色。
これは典堂家伝来の技で人体の調子を表しているのだと、教わった。
典堂家でも生まれつき『流れ』が見える人間は希少だ。
家の中では『透視能力』と呼んでいる。
訓練を積んでからは、平常時は能力を封印し、見ない状態にすることができるようになった。そうしていない世界はずいぶんと様相が違うから。
「そうだな、今日は調子が良い」
『今日は』?
堂々たる偉丈夫に見えるが、体調が悪い日もあるのだろうか。
「ええっと、本日は両親とも仕事で不在でして、日を改めていただけますか? 言伝などあれば、お預かりしますが……」
「いや、君に用事があったんだ」
涼子に? 一体何の用事が?
「典堂涼子さん、俺と結婚していただけないだろうか」
突然の申し出に涼子は、ぽかんと立ち尽くした。
何かの冗談だろうかと、颯真の顔を見てみたが、しんと冷たい無表情で、彼はただこちらを見ている。
門を挟んで、涼子と颯真はしばらく向かい合っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます