第一章「風の噂と召集状」(後半)
その頃、桂家の奥座敷でもまた、風が揺れていた。
柚葉は、父の枕元で膝を折っていた。座敷に流れる静けさは、梅雨前の湿気と共に、彼女の呼吸を重くする。
「お父様……お薬の時間です」
差し出した茶碗を、病の進んだ父は震える手で受け取ろうとするが、指が力を失い、茶が零れた。柚葉は慌ててその手をとり、そっと添えて飲ませた。
「……すまんな、柚葉。こんな身体になってしまって……」
「お気になさらないでください。父上の名に恥じぬよう、私が家を守ります」
桂家は、かつては名高き武家だった。だが、戦の終焉と共に資産を失い、今や人払いの絶えた屋敷で細々と命脈を保っていた。使用人も去り、残されたのは彼女と、病の父と、数冊の由緒書のみ。
そんな時――
「姉様!」
中庭を駆けてきたのは、桂家門弟の春輝だった。年若くも真面目な彼は、手にした布包みを柚葉に突き出した。
「陰陽部からの使いです。……召集状と、誓約書が」
柚葉は包みを受け取る手が、思わず震えた。開けばそこには、金の封蝋がされた正式な命令書と、“補陣誓約書”と記された一通の文書が納められていた。
――蒼家の三男・蒼翔との、一年限りの契約結婚。
「……ふ、ふざけているの……?」
思わず声が漏れた。
蒼家。桂家が最も忌むべき家。かつて兄が決闘の果てに命を落とした相手の家。五十年、口も聞かず、婚礼の話など一切なかったというのに。
「どうして……」
「姉様。これには、桂家再興の予算案まで添えられております。もし受ければ、京洛の補助金と、家屋修繕費、さらに式神道場の復興も――」
「でも……っ!」
彼女の中で何かが叫んでいた。常識? 誇り? それとも、復讐の念か。蒼家に嫁ぐなど、自分がどう思われるか――いや、自分自身をどう保てばいいのか、まるで分からない。
だが、父の病室を振り返れば、その答えは一つしかなかった。
「……私が、桂を守る」
その一言とともに、柚葉は墨を取り、誓約書へ名を記した。
「柚葉、行ってまいります」
その声は、梅雨入り前の空へ、まっすぐに伸びていった。
京洛の空は、不思議なほど晴れていた。
翌日、宮廷陰陽部の大広間には、蒼翔と柚葉――契約夫婦となる二人が、初めて顔を合わせた。どこか居心地の悪い沈黙が流れる。
「桂柚葉です。……どうぞ、お手柔らかに」
「蒼翔。まあ、喧嘩さえ売られなきゃ、平和にやりましょうや」
それぞれの言葉の背後には、互いに引きずる家の因縁があった。
玉座の前に進み出た二人は、中央に置かれた“誓紙”に、血判を押す。
「――一年限り、離縁自由、再婚不可」
礼典の宣誓に続き、式神の札が両者に手渡される。風と樹、二つの式が交わる瞬間。
「誓約、成立」
その瞬間、広間の結界が微かに揺れた。風と樹の氣が交わり、新たな“双魂陣”の核が生まれたのだ。
だが、その兆しに――誰もが気づいていなかった。
彼らの運命が、もはや後戻りのできぬ“愛と魔障”の渦に、足を踏み入れたことに。
第1章 完。
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