"ある夏の記憶" 作:あ
@cac_scenario
ある夏の記憶
奥の白いレースカーテンが揺れた。
夏の爽やかな、暑さを置き去りにしたかのような風が長く伸びた君の髪を幾本か乱れさせる。
ベッドの上、僕の左隣に座った君がくすぐったそうに少しの笑みと声を漏らすも、後方の窓で輝く太陽から零れた光のせいでよく見えない。ただ、笑っていることだけは分かった。
右手に持つ珈琲の湯気が陽炎のように揺らめき、それは幻のように僕の視界を揺らす。
君の体温と珈琲の温もりが心地よく融和し、眼前に広がった騒がしいテレビの音がいつしか遠く、朧げになったここは、僕だけの幸せな世界になり始める。
君の唇がゆっくりと開いて、心地のいい音程で、僕の心をかき乱すリズムで、意味のある言葉を紡いでいく。魂に直接響くような慈愛に満ちた低い声が、どうでもいいような話題を語り、その答えを僕に求める。それに応える僕は何を言ったんだろうか。
しばらく他愛のない話題で話し合った僕らは、手と手を触れ合わせて、その鼻が、吐息が感覚で伝わる距離になって、しかしそれでも僕は君の顔が見えない。自分の顔が熱いことだけが分かる。
カーテンがもう一度揺れた。
先ほどよりも強い風が吹いて、そして、もう一度君の髪が靡く。
涼やかなそよ風が僕の耳を撫でて、その時に初めて鮮明に君の顔が見えた。
その美しさに、思わず息をすることを忘れる。
真珠のように輝いた瞳に、凛と伸びた鼻筋、紅玉のように彩られた唇、頬は 4 月の桜のように淡い青春を込めた、その全てが色鮮やかに僕の目を刺激して、そこで初めて、君以外に色が無いことを知る。
何故だか君の顔は初めて見るようで、けれどもどこか懐かしくて、どうしても僕の中では処理することの出来ない感情が奔流して、熱く火照った体は加速した想いを自らの胸へとひたすらに流動させていく。
早鐘を打った鼓動の音と、自然と頬を伝う熱い感覚が現実のものとなっていくと同時に、そうして、これが何なのかを知る。
急速に気温が下がり、同時に生暖かい熱を体に取り戻す。
夢が覚めた。
それは何ら比喩表現でない。ただ現実としての説明であり、それは純然たる事実である表現としての、夢が覚めたのだ。
今は、最悪な気分だった。
幸福な世界の中で、甘く蕩ける様な麻薬を吸わされていた時間が終わってしまったのだから、それは最悪としか呼べない。
早鐘を打ったままの心臓は収まりを見せずに、頬を濡らした涙は少し乾いて、惨めにも口元に塩をもたらす。
開いた窓からは、およそ爽やかとは呼べぬ湿度に落とされた微風がそよぎ、誰もいない部屋の中には、埃をかぶった安っぽい時計が秒針を働かしている音だけが響く。
濡れた目を擦り、そこに付随した汚い屑を取捨てる。起き上がらせた体は節々に痛みを感じるほどに劣化して、漏れた声は掠れて、しかしそれでも、声を発さずにはいられない。
「惨めだ」
ああ、惨めだった。
机の上に置かれた依存を手に取り、口元に取り出した葉を噛んで、色褪せたライターで火を付ければ、まずい不味い煙が噴き出る。
昨晩に淹れた珈琲を無造作に飲む。
飲みながら、不格好な煙を吐き捨てるその姿からは、およそ他者には見せられぬほどに無様という言葉が似合うだろうと自嘲せざるを得ない。
しばらく一時しのぎの快楽に浸って、そして、郷愁に喘いで、もう一度涙が流れた。
存在するはずのない、二度と会えぬ愛した女のために、またも無意味な涙が流れるのだ。
どちらが夢ならば良かっただろうかと、陳腐な感想を述べるほどにはセンチメンタルに心が荒んで、不甲斐ないほどに堕ちきったベッドの上の自分に吐き気を催す。
パチと、草の中の虫が死んだ音がした。
夢から降りて、洗面所で顔を洗って、鏡に向かった俺の顔を眺めて、純真無垢に幼少期の無知な幸福を噛みしめていた「僕」の面影が既に今では消え去ったことを今に知る。
そして、幼少期の記憶と夢は同じだと、今悟る。
それは、無知ゆえに先行きゆかぬ、苦しく醜く、驚くほどに廃れていく自分の限界点を見せつけられる世界を知らないという点での、今という夢へと無邪気に浸れるという点での同じなのだ。
部屋に干して、クローゼットへと仕舞うことさえ諦めた服を取り、それへと着替える。不気味な音を小さく発する冷蔵庫に仕舞われた昨夜の残りを解凍して食べる。
色も、栄養素も、全てが汚い飯。
暗い部屋で、汚い飯を食って、無造作な服を着て、陰気な顔で家を出る。
その頭には学術的思考を詰めずに、ただただ現状を嘆く他責の思考を詰めて。
俺は大学へと行くのだ。
繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し。
それを繰り返して、その先の現在に至って、これを考える。
あの日の存在しない記憶を、あの日の夢を、あの日の幸せを。
あったかもしれない可能性と、存在したかもしれない過去を考えて、そして夢へと逃げている今の俺の姿を日々繰り返して考える。
結論は出ない。ただただ脳内の思考が鈍痛に阻まれて、そして繰り返し考えるのだ。
それは果たして「ある」のではないのか。あったのではないのかと。
幸せな記憶を保持したまま、その日に心を奪われて苦悩し続ける俺の今の姿は、果たして、過去に不幸を負った記憶を持つ男と何ら変わりはないのではないかと。
だからこそ、それは当然過去に存在した、「ある」記憶なのではないかと俺は考え続ける。
現実に存在した出来事の記憶と、夢の中で体験した記憶に何の違いがあるのか。
繰り返し、繰り返し、繰り返し、
希望のない現実の中で、何も行動できなかったが故の未来の中で、努力を怠った者のみが辿り着くどうしようもない末路の先で、俺は考え続けていた。
そう。
そういえば。
話は変わるが昨日、川辺を歩いたんだ。
綺麗な世界を歩いた。
桜が咲き誇って、ちらほらと花見をしている学生たちがいる。その皆が笑顔で、春先の心地の良い風に、流れる川の音がささやかな BGM と化して、その全てが世界を彩っていた。
しばらく、僕は歩いていた。
歩き続けて、いつまで歩いたかは知らないが、川の先の先にたどり着いたとき。
人がほとんどいなくなった川の上の所で、彼女と出会った。
いつかの過去の人、僕が愛していた人。
真珠のように輝いた瞳に、凛と伸びた鼻筋、紅玉のように彩られた唇、頬は今咲き誇っている桜のように淡い色をした彼女に、また出会えたんだよ。
あの時のままの彼女が、こちらを見て、その顔を綻ばせて、待っていたのだというような表情で、駆け寄ってくる。
その姿が愛おしくて、離したくなくて、儚くて。
駆け寄る彼女の姿が朧げになり、その理由が自分の目から流れる涙なのなのだと気づいた。
僕は彼女と抱き合い、久方ぶりの再開を喜んで、確かに「ある」記憶であったのだと安堵して、そして。
僕は過去に確かに在った記憶を噛みしめて、彼女とキスをした。
それが君だろうと君じゃなかろうとも、俺にも僕にも、ほんの些細な誤差なのだ。
"ある夏の記憶" 作:あ @cac_scenario
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