地元民への調査記録・振り向くな山

「こんな小さい新聞、国会図書館にもデジタル化されてないですよね」


 坂井遥香は地元の郷土資料室の机に資料の山を積みながら、げんなりした顔をしていた。

 信州・伊那市の古びた図書館。昭和の空気がそのまま残った木製の机に、日焼けした地方紙の縮刷版が無造作に綴じられている。ある程度までの古い記事ならまだデジタルで残っているが数十年前の、しかも地方新聞ともなると発行数も少なく、現物で保管されていることも少なくない。


 三上は背を丸め、ルーペ片手にその一つひとつを追っていた。


「地図にない集落ってキーワード、昭和40年代の記述が多い。長谷川のノートにも1971年って日付があっただろ?」


「ありましたね。あと南阿智村って書き込みが……今は合併されて地名ごと消えてますけど。阿智村はありますけどね。確か日本で一番星空が綺麗な場所でしたっけ?」


「それだ。だからこのへんの新聞が一番可能性高い。今回もそんなロマンチックな話だったら良かったな」


 二人は半日近くを資料室で過ごしていた。午前中から始めた作業は、すでに夕方の薄暗さを帯びていた。

 蛍光灯がチカチカと瞬き、紙をめくる指先がかすかに震える。


「……あった」


 三上が、小さく呟いた。


 坂井が覗き込むと、昭和46年6月3日付の『信濃南日報』夕刊。その社会面に掲載された、1段囲みの記事が目に飛び込んできた。



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『信濃南日報』昭和46年6月3日夕刊・社会面より抜粋


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「消えた集落、地図にない六軒」


 ――山中に残る隠し集落の噂、地元住民が語る奇妙な体験


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【南阿智村・記者:望月司】

 先月下旬、本紙記者は南阿智村(現・阿智村)西部にて奇妙な話を聞いた。

 地元住民・市川信吉さん(当時72歳)が語ったのは、「戦後まもなくまで存在したが、公式な地図には載っていなかった六軒の集落」の存在である。


「わしらは“ヒトヤマ”と呼んでた。川沿いを3時間ほど歩いて、道が二股に別れると、誰にも見えんように小さな橋があってな。そこを渡ると、ぽつぽつと家が見えてきたんじゃ」


 市川氏によればその集落には明かりが灯っており、夜になると子どもの笑い声のようなものが谷に響いたという。

 しかし、昭和29年のダム建設以降、その場所には人が近づかなくなった。


「ある晩、村の若いもんが面白半分で行ってな。戻ってきたんは二人。ひとりは誰かに見られていたとずっと震えとった。もうひとりは……目ぇが虚ろで、女の子の声がした、うしろからって何度も言うとった」


 公式記録では、その集落の存在は確認されておらず、また当時の地図にも記載されていない。

「わしが覚えてるのは、決して振り向いてはいけないということだけや」と、市川氏は語る。


 その後記者が詳しい話を聞こうとしたが、市川氏はそれ以上語ることはなかった。


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「……振り向くな、ってまた……長谷川のメモと一致してる」


 三上が記事をじっと見つめながら呟く。坂井も、冷たい息を飲み込んだ。


「この記事、今じゃデジタルにも残ってないですよ。完全に埋もれてる」


「保存する。コピーとって、スキャンもな」


 三上はその場でスマホを取り出し、撮影しながら言った。


「それとこの市川って爺さん、もう亡くなっているだろうが誰かインタビューした形跡があるか探そう。録音とか、地元の公民館とか……」


「……実は、昨日その問い合わせしました」


 坂井は小さなICレコーダーをカバンから取り出した。


「阿智村の郷土史研究会ってとこで、昔の住民にインタビューしたカセットテープが保管されてたんです。ダビングさせてもらいました。……たぶん、市川信吉さんの声です」


「マジか……お前中々やるな」


「え、今まで私ってどんな人だと思われてたんですか?」


 問いただしてくる坂井をまぁまぁ、と宥めながら三上はそれを受け取り、ヘッドホンをつける。




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〔再生開始音〕


〔記録:1984年3月17日/場所:阿智村公民館/話し手:市川信吉(当時85歳)/聞き手:不明〕


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「……あー、マイク、これでええんかいの? ……あーあー」


『はい、大丈夫です。そのまま話していただければ。じゃあ、例の“集落”について……』


「そや、あそこはな、村なんてもんじゃなかった。六軒しかない。けど、わしらは行ってはいかん場所て思うとった……」


『どうしてですか?』


「誰が住んどるのか、わからんのや。昼に行っても誰もおらん。けど、夜になると、焚き火の明かりが見えるんや。子どもの笑い声みたいなのが……そら、谷にこだまするんや」


溜息のような音。


「わしの兄貴がな、一度だけ中まで入ってったんじゃ。橋を渡ってな。……ほんで、三日帰ってこんかった」


『……そのあと、どうなったんですか?」』


「ふつうの顔して戻ってきたんじゃが、目が、目がな……違った。なんつうか向こうから帰ってきた、いうか……あの目ぇはどこか別のとこ、見とった。お袋が泣いてしもうてな」


『その集落の名前は?』


「名前なんて、あったかどうか。……わしらは振り向くな山て呼んどった。子どもらには行ったらあかん、て叩き込んだんや。捻りもねぇ名前だが子どもに言い聞かせるには分かりやすいだろ」


『どうして“振り向くな”なんです?』


「聞いた話やけどな。ある若いもんが、ふと気になって振り返ったんや。……背中に、“お前は知らん顔じゃないな”って声がしたんやと」


『……それって、女の声ですか?』


「わからん……けど、その子はそれから三日後に死んだ。納屋で首吊っとった」


『う……』


「それ以来、村のもんは誰も近づかんようになった。地図にも載せんかった。わしらの代で、完全に忘れられたんや」


『……消された、という感じですかね』


「いや、消したんや。自分たちの手で。あんなとこ、誰も知らんでええ」


(ノイズ)……ジジジ……


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「……これ、本当に1984年の録音か?」


 三上はヘッドホンを外した手を震わせた。坂井は黙って頷く。


「確かに、この六軒の集落があったとされる場所――おそらくこの“振り向くな山”ってのが、長谷川のメモにあった第三観測点の座標と近いんです。直線距離で800メートルくらい」


「……そんな偶然、あるかよ」


 三上は言いながらも、指先で座標を再確認する。


「35.9641978, 138.8057659……ここから北西に、昭和29年に沈んだ旧ダム湖の跡地がある。おそらく、その下に村があった」


「今は……山しか残ってませんけど」


「行くか?」


 坂井の顔が、こわばる。


「今すぐは無理です。6月入ったら、道が開きます。……それまでに、他にも“あそこ”に繋がる話、集めましょう」


「……そうだな。長谷川の調査資料、まだ一部しか見てないしな」


 ⸻


【4. 調査メモとの照合】


 三上はホテルに戻ると、長谷川の遺品の中から、再びメモ帳を開いた。


《1971年6月/南阿智村/消された集落》

 ・名称不明(“ヒトヤマ”?)

 ・住民登録なし

 ・橋あり(現在は撤去済み?)

 ・“夜になると、こども”

 ・地元高齢者“決して振り向くな”


 →地図には存在しない

 →場所:ダム湖の北岸、林道から分岐(要再調査)


 坂井がノートを覗き込む。


「これ、やっぱり一致してますよ。市川信吉の証言と、ほとんど一致する」


 三上は天井を仰いだ。


「長谷川は……なにを調べてたんだ?」


「気になりますね。でも、この人……」


 坂井が、もう一枚のページを開く。そこには、長谷川自身が打ち込んだらしい、メールの下書きが貼りつけられていた。


 ⸻


 差出人:h.nagasawa@g**

 件名:【取材の件・至急】


 やっぱり、あの場所は“誰かに見られている”感じがする。

 写真のフィルムも、3枚焼き付き。変なノイズ音。

「声がする」のは俺だけじゃないはず。

 正直、これ以上は深入りしない方がいい。


 ただ、もし万が一俺に何かあったら――

 あの座標を追ってくれ。

 あの場所に、何かいる。


 ⸻


 坂井がそっと呟いた。


「……何かいる」


 三上はしばらく沈黙していたが、やがてぽつりと呟く。


「……行かないわけにはいかないな。あいつが命かけて調べてた場所だ」


 坂井も、小さく頷いた。


 ⸻


【5. 夜の走り書き】


 その夜、三上は宿のデスクで、一日の記録を音声でメモしていた。


「6月5日、午後10時13分。


 長野県阿智村。消えた集落、地図にない六軒の存在を、昭和46年の地方紙と1984年の録音音声で確認。

 ダム建設後に完全に沈んだ村の存在。


 不自然なのは、誰も正確な名前を覚えていないこと。

 古老の証言では“振り向いてはいけない”――


 ……振り向いた者は、死んでいる」


 三上はふと、背筋に冷たいものが走った。


 部屋の窓の外――木々の影が、風に揺れていた。

 窓ガラスに、かすかに“何か”の輪郭が映った気がして、彼は一瞬、振り返りかけ――


「……振り向くな」


 自分で自分にそう言って、口を噤んだ。

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