第28話 夜



 事が起きたのは、それから数日後の真夜中だった。



「まいこ~っっ!! どこだーっ。出て来い、まいこ~~っ!!」


 男の叫び。

 いや、金切り声が響き渡る。


 ぱちりと万衣子は目を開いた。


 夢?

 いや、違う。


「まいこ~っっ! どこに隠れてやがる~っっ!」


 現実だ。


「はっ……っ」


 ベッドから飛び起きる。

 それと同時にふすまの向こうから梅本の声がした。


「先輩、起きた?」


「うん、あれ、もしかしてたき…」


 ベッドから降りてカーテンに手をかけようとすると、いつの間にか背後に梅本がいて、まいこの手首をつかんだ。


「窓を開けちゃだめだ!」


「でも、こんな夜中に…近所迷惑…」


 時計の針は二時半を指していた。

 こうしている間にも、滝川の叫び声が団地中に響いている。


「それでも、だめだ」


「でも、でも…」


「シー…」


 梅本は羽織っていたパーカーをフードから被せて万衣子を包み込み、両肩に手を置いてゆっくりと畳に座らせた。

 うっすらと街灯の光がカーテンに隙間から差し込む部屋で二人はひざを突き合わせて向かい合う。


「万衣子さん、落ち着いて。多分、もう誰かが通報したと思う」


「え…」


「これだけたくさんの人が住んでいる団地だと、こういうことも時にはあるよ。昔俺たちが住んでいたところでも。実際、俺の父親がこんな時間に酔っ払って同じようなことをして、周囲に迷惑かけたことがあった」


「…そう…なん…だ」


 そういえば姉が以前、母親と団地を去った梅本を心配していたと言ったのは。

 こんな夜があったからなのか。


「まいこ~…」


 滝川の叫びはだんだん遠ざかっていく。


「おそらく、さっきうちの前で彼が叫んだのはここを突き止めたからじゃない。たまたま通っただけだ」


「たまたま…」


 梅本の推測が正しいのか、どんどん滝川の声は小さくなってやがてきれぎれにしか聞こえなくなった。


「団地中歩き回って適当に叫んでみたら、真面目な万衣子さんならきっと慌てて出てくると踏んだのだろうな。まあ、酔っ払っているにしてはそこのところは鋭いね」


「でも、どうしよう。警察…。それに…」


 眠りを妨げられたたくさんの人。

 明日大事な予定があったかも知れない。

 やっと眠ってくれた赤ちゃんや不眠症の人、それに、それから…。


 万衣子の胃のあたりがきゅっと痛む。


「これは、滝川だけのせいであって。万衣子さんのせいじゃない。万衣子さんは被害者なのだから」


 フードの上から頭を撫でられて、万衣子はうつむいた。


 やがて。

 遠くの方でパトカーのサイレンが聞こえてくる。


「やっと来たか…」


 梅本は閉じたままのカーテンを見つめて呟いた。


 まるで、何もかも見えているかのような声。

 何もかも、慣れているかのような様子で。

 ただただ優しく、万衣子の頭を撫で続けた。



 夜は、まだ深く。


 万衣子は強く目をつぶった。


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