第50話 混沌の神との会話
焼け落ちた戦場には、もう音ひとつ残っていなかった。風は止み、空は煤け、死者の匂いだけが濃く漂っている。
立ち尽くすルトスの視線の先にはには、肉の破片と魔法の焼き跡が広がっていた。剣も矢も、怒声も、悲鳴も、すでに遠い。
しかしそこには空間の歪みのような何かが、世界に貼り付いたようにそこにあった。
はっきりと見えない。影とも、光ともつかない。ただ確かに、「ある」とわかる。
目を向けるだけで、視界の奥が焼かれるような痛みを感じた。それが敵なのか、災厄なのかすら判断できない。
ただ――異質。
この世界に属していない何かが、生まれてしまった。しかしあれはどこか自身と同質のように感じた。
ルトスはその場から一歩も動かずに、静かに目を細めた。
「……終わったな」
誰に言うでもなく、呟く。
この戦争の形がどうあれ、今――何かが始まったと理解できた。
だが、それを追うことも、手を出すことも、もはや意味をなさなかった。
あれは理屈の外にある。
見れば見るほど、そう確信させられる。
「バルート、転移を頼む」
返事はなかったが、すぐ横でかすかな魔力の揺らぎが立ち上がった。
ひび割れた角、血に濡れた肩。それでも、彼は立っている。
ルトスはその様子を一瞥しただけで、右手をわずかに上げた。
「――かしこまりました。」
空間がわずかに振動し、光を帯びた陣が足元に展開されていく。
ルトスは最後にもう一度、あの何かを見た。
名前も、言葉もつかない。
ただそこに、静かに拒絶が佇んでいる。
数え切れぬ命と死の上に、それは生まれた。
「……わけがわからんな」
そう呟くと同時に、転移魔法が発動した。
視界がぐにゃりと歪み、耳鳴りと圧縮された風が一瞬で全身を包み込む。
そして――
――帰ってきた。
そこは、ルトスが拠点とするダンジョンの最下層だった。
見慣れた石の壁、青く光る魔力水脈。
音も、湿気も、魔力の流れも、いつも通りだった。
何もかもが、自分の支配下にある空間。
誰にも踏み込まれず、誰にも邪魔されない内部。
だが――その光景を目にした瞬間だった。
視界がぐらつく。
重力が消えるような感覚。
足元が抜け落ち、思考が引きずられ、空間の縁が剥がれていく。
喉が動いた。言葉にならない声が漏れた。
「っ……」
世界が裏返る。
目も、耳も、身体も剥がされて、ただ意識だけがどこかへ引きずり込まれた。
……静寂。
息も、音も、重力もない。
ただそこに、声だけがあった。すでに体験したことのある空間であった。
「また来たな、ルトス」
――それはどこか懐かしく、不気味で、温かさを感じさせる声だった。
「ようやく話せるな。長かった。ずっと、見ていたぞ」
その声には輪郭がなかった。
ただ、確かに自分を知っているとわかる響きだけがあった。
「ここは結局どこなんだ…ダンジョンに繋げられるのか?」
言葉が空間に浮かぶように発される。
「お前の内かもしれないし、私の外かもしれない。意味なんて、どちらでもいいさ。
ここは間だよ。思考と現実の間。本来は存在しない空間だ」
「……お前が引きずり込んだんだろ」
「呼んだのは私かもしれん。だが来たのは、お前だ」
言い返す気力はなかった。
ただ、体の奥に不快な感覚が広がる。
何かに触れられているような、記憶を探られているような――
「やめろ」
「ふふ。冗談さ」
しばらく、空気が静かになる。だが音ではない何かが空間を満たし続けていた。
「……あれは、なんだ」
「ようやく聞いたな。あれは、この世界の闇のシステムの一部だな。
押し込められ、見ないふりをされ、吐き捨てられてきたすべての感情。
恐怖、怒り、憎しみ、拒絶、そして絶望。そういったものの集合体だ」
「自然に生まれた?」
「いや、生物が産んだと言えるだろう。長い時間をかけて、見ないふりをし続けた結果、意識の外で育った怪物。生きとし生きるものが作った負債が、ようやく回収に来たってわけだ。まぁ、それを後押し、付与した存在はいるがな。」
ルトスは目を閉じた。
あの存在がただの化け物ではないことは、見た瞬間からわかっていた。
「なら……誰にも止められない?」
「ふふふ、そんなものはこの世界には存在しないさ。全て均衡は保たれている」
沈黙。
空間の中心で、混沌の声だけが響いていた。
そして幾許かの沈黙の後
「……さて。褒美の話をしようか」
「褒美?」
「お前、今回の戦争で殺した数、数えてみたか?」
ルトスは黙った。
数える気もなかった。必要もなかった。ただ、前に進むために、踏み潰しただけだ。
「一万人を超えている。兵、指揮官、民間人。命の重みがどうこうという話はせん。だが、少しは均衡が揺れ動くのは見ていて暇しない。」
「……それがお前の目的か」
「違う。私は目的なんて持たん。ただ在るだけだ。だが、気まぐれでお前に贈り物をしようと思ってな。知識をやろう。お前にはそれが一番だろう?」
静かに言葉が宙に浮かぶように響く。
「お前の傍にいる魔物ども――あれら、まだ進化の途中だ。限界じゃない」
「……どうやって進化させる」
「強い魔物の魔石を喰わせる。できれば、自我を宿した核に近いものを。単なる素材としてではなく、魂の接合だ。
融合すれば、力だけでなく性質まで引き継ぐことがある。
牙が増え、翼が裂け、心が変わる。……面白いだろ?」
ルトスの目が細くなる。
「ただの強化じゃないな」
「当たり前だ。命を交えた融合だ。それもダンジョンの機能が必要な。成功すれば、唯一無二の存在になる。失敗すれば、発狂して死ぬか、自我を失う」
「リスクはある」
「だが、それをやるに足る器を、お前の側には二体もいる。バルート。グラザルド。
特にあの鬼はいい、器としては悪くない。
……その気があれば、世界に存在しない魔物を生み出せるぞ」
しばしの沈黙。
ルトスはその情報を飲み込んだ。
「……ふむ」
「加えて、だ」
混沌の声が、どこか愉快そうに揺れる。
「この強化法は、お前にも使える」
「……俺に?」
「驚いたか?」
「いや、なんとなく……予感はあった」
「ふふ。そう、勘のいいやつだ」
空間がわずかに震える。
「貴様は、すでに人ではない。……少なくとも、この世界が定義する“人間”ではない」
言葉はやけに静かだった。
ルトスは動じなかった。ただ、わずかに瞼を伏せた。
「いつから、だ」
「最初からだと思っていたか? 違う。お前が初めて命を踏みにじり、それを後悔しなかった日からだ。元の本質からかけ離れ始めたお前の魂は、少しずつ削れた。
自我は残ったが、価値の中身が変わった」
「……」
「今の貴様は、魔石を取り込める。
ただし肉体には合わん。意識の核に叩き込む必要がある。つまり……自分を喰う覚悟がいるということだ」
「……それをすれば、何が変わる」
「全てが変わる」
淡々と混沌は言う。
「肉体は強くなり、魔力の性質が変質する。新しい術が根付く可能性もある。
そして何より、お前という概念が、この世界で例外として扱われ始める」
「……なるほど。神話の怪物みたいなものか」
「いや、理を外れた存在だな。お前は、何者でもなくなる。それが力となる。だが、孤独も深くなる」
ルトスは黙ったまま、しばらく何も言わなかった。
静寂が続いた。
やがて、混沌の声が再び落ち着いた調子で囁く。
「選べばいい。拒むも、進むも、面白い。私はどちらでも構わん。
だが、お前にはまだ役割がある。闇が動き始めた今……世界の基準は、また一つ書き換わる」
「光の勇者、というのも出てくるんだったな」
「そうだ。だがその話はまた後にしよう。これ以上はお前の精神が耐えられんしな。
今はまず、貴様がどこまで歪められるか、それを楽しもうではないか」
ルトスの姿が、空間の揺らぎと共に薄れていく。彼の意識は現実へと引き戻され、気配はこの間の空間から完全に消えた。
ただ一人、そこに残された存在――混沌の神は、ゆっくりと空間を漂う。
「ふふ……ようやく、動き始めたか。長かったな、実に」
言葉に応じる者はいない。だがその声は、自らに向けられたものではなかった。
「負の感情を抱えた闇の王は誕生し、希望にみちた光の勇者はその対として現れる……ただそれだけの均衡に、何の面白みがある?」
微かに笑う。
「だがあの男、ルトス――。あいつはバランスを壊す素質がある。光にも闇にも属さず、それでいて両者と深く関わっていく……あれは、歪みだ。まさに、私の好む形だ」
空間の奥で、何かが揺らいだ。
「光の勇者……この世界が、光のやつが最後に用意した修正 の一手。
だがその剣先は、闇の王だけでなく、ルトス、お前にも向けられるだろう。それに闇の王は感情の集まるところに向けて移動する。ダンジョンに来ないとは限らん。」
声が低くなる。
「それに気づくのは、もう少し先だな。どちらが先に歪むか……ふふ、楽しみだ」
沈黙。
空間は、やがて波紋のように薄れ始める。すべてが静かに崩れ、霧のように消えていく。
そして、最後の一言だけが、世界に滲むように残された。
「壊すために生まれた者と、壊さずに残された者――さて、どちらが世界を変えるか」
間は、完全に閉じられた。
—————————————————————皆様のおかげて50話まで書けました!
もう少しして私生活が落ち着いたらまた毎日投稿に戻しますので飽きずに読んでいただけると嬉しいです!
何話まで書くのか、書けるのかはまだわかりませんがどうぞ今後も楽しんでください!
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