第49話 闇の王の誕生
ラン草原を覆う空は、すでに夕暮れの色を失っていた。焦げた鉄のような暗雲が広がり、まるで世界の終わりを予告するかのように、空気そのものが重く沈んでいる。
――ズン……ッ!
大地を震わせるほどの衝撃とともに、黒き閃光が戦場の中央を貫いた。それは天から降り注いだ一条の闇――否、闇の槍とも呼ぶべき、禍々しき力の奔流だった。
「……っ、来たか」
最前線で憤怒ラグドと対峙していたグラザルドが、わずかに顔をしかめる。だが怒りではない。恐れでもない。その表情には、理性を取り戻した獣の静けさがあった。
「……ルトス様からの合図か」
彼は、己の肩を貫いた灼熱の爪をそのままに、数歩下がる。そして闇の槍が突き刺さった地を振り返ることもなく、背を向けた。
「今回はここで引かせてもらう。」
「てめぇ!待ちやがれ!」
そう言い残し、叫ぶラグドを無視してグラザルドは戦線を離脱した。荒れ狂うラグドの業火が背後で爆ぜても、それを気に留める様子はない。
この闇の槍こそ、ルトス陣営からの合図だった。戦況を見極めた彼の判断。これ以上この場に留まれば、被害がグラザルドが討たれる可能性があると考え、最低限の仕事はしたとルトスが判断したからだ。
そしてその判断がルトスたちを厄災から遠ざけることに成功した。
***
それは戦場の真ん中にあった。それは死の底、死の正解にいた。肉体は焼け、魔核は砕け、魂は引き裂かれた。しかしそれでも肉体は動いていた。
ぐちゅぐちゅと音を立てながら人型へと変化していく。あるはずのない暗黒の底に沈んだそれの意識は、ある一点に集中していた。
食べた魂。
人間のもの、魔族のもの、魔獣のもの。名もなき兵士、知恵ある魔法使い、死の淵で叫ぶ者たち。その断片が、無数の声と記憶となってグリオルの意識に流れ込んでいた。そして魂を把握していく。
――喰った。俺は喰らった。何百、何千と。
それならば材料は揃っている。
その全てを、グリオルは再構築に利用した。あらゆる魂の記憶を照合し、自身の核を再設計する。まるで、知識と記憶のパズルを組み上げるかのように。
…まだだ、まだ喰い足りねェ……俺は、まだ……終わっちゃいねェ……!
心の意思が理を変えていく。
引き裂かれた魂の欠片が、重力のない闇の底で収束していく。異様な波動。常軌を逸した飢えが、虚無から形を成し始める。
そして、それが完成したとき――
ズゥン……ッ!
虚空が悲鳴を上げた。
グリオルの魂が、完璧に自己を取り戻した瞬間だった。これはもはや暴食という名にとどまらない。生前を超えた、異形の暴食のグリオルではない暴食のグリオルの目覚めだった。
彼の肉体は、破壊された旧躯ではない。魂が結びついた新たなる核が肉を与え、再びこの世界に現出させた。
そしてグリオルが立ち上がり周りを見渡す。
復活。完全なる、グリオルの第二の生だった。
だが――
その直後、グリオルの顔が歪む。
「ぐっ……ああ……ぐぅぅおおおおっ!!」
全身を裂くような苦しみが走る。叫びは地を這い、空を裂いた。
目に見えない何かが、彼の内側から這い出ようとしていた。
闇は彼を見ていた。
彼が理をねじ曲げ自身の存在を証明したことを。
グリオルが目を見開いた瞬間、漆黒の空の向こう――時空の狭間に眼があった。
それは、この世の理とは相容れぬ存在。感情も理性もない、ただ力のみを司るもの。人智を超えた原初の闇――
《闇の神》。
貴様か……我が瘴気を操るに値する器は……
その声は言葉でなく、波動だった。グリオルは直接魂を揺さぶる感覚を得た。
次の瞬間、グリオルの身体を、黒き瘴気が貫いた。
「ッがぁぁあああああ!!!!!」
悲鳴は、彼の意識したものではなかった。魂が痛みを超える、根源的な苦悶。そして永劫とも思える叫び声が終えた時グリオルの体から闇が、瘴気が溢れ出した。
彼は――《闇の王》として、生まれ変わった。
闇の神より授けられし瘴気の支配者。味方も敵も分け隔てなく、すべてを静寂へと還す存在。闇の神持つ世界を無に返す機能の一部を得たもの。
その目に、もはやかつての狂気はない。
ただ、圧倒的な力による終焉だけが、そこにあった。
――そして、彼は歩き出す。
戦場の中心へ。世界を無に返すために。
黒き靄が地を這い、空を覆い、やがて世界そのものを染め始めたようだった。
瘴気。それは魔でも人でもない、死と苦痛と憎悪の濃縮された結晶。
《闇の王》と化したグリオルの歩みに合わせるように、その瘴気は蠢き、広がり、やがて戦場全体を包み込み始めた。
最初に消えたのは、距離の近かった魔族兵の一団だった。彼らはグリオルのかつての同胞――だが今、その瘴気は分別を持たない。咳き込み、叫び、崩れ落ちた彼らは、皮膚が焼け、魂までも削り取られ、跡形もなく霧へと溶けていく。
「ぐ……あ……! な、なんだ、この……!」
「何で…」
一般の魔族兵たちは抗うこともできずに皆朽ちていった。
***
「総員黒い霧に近づくな!」
ラオスが異変に気づくも、すでに剣士たちの足元からも瘴気が湧き上がり始めていた。抗う意思すら削がれるような、重い、深い圧力。空気が、音が、すべてが――止まっていく。
「これは……あれは、グリオルか!?」
ランス連合の魔導士が、遠隔視でその姿をとらえる。見るも無惨な姿で地に伏していた《暴食》が、いまや王冠のような闇を頭上に宿し、背に黒き羽のような瘴気を広げながら、まっすぐ戦場の中央へと向かっている。
「……退け! 全軍退けッ!! あれはもはや、この場で何とかできる相手ではない!」
最前線の指揮官の怒号が響く。彼自身も瘴気の波に触れ、その腕が裂け、蒸発するのを感じていた。己が肉体の再生をもってしても回復が追いつかぬ毒。
「このままでは、我ら全てが……!」
だが、すでに遅かった。
瘴気の拡大はもはや爆発的で、魔族も人間も指揮官も歩兵も関係なく、ただ命あるものを無に還すのみ。そこに意思は存在していなかった。
***
「これはいったい……」
《傲慢》リディアは、自身の遠隔干渉を切り上げながら、呆然と虚空を見つめていた。彼女の視界にもグリオルの姿は届いていた――しかしそこにあるのは、かつての同じ幹部の一人などではない。
「グリオル……どうして、そんな……」
だが、返答はなかった。すでに彼は、名すら持たぬ闇の化身。過去も記憶も関係なく、ただ己を構成した魂たちの苦しみの記録に導かれ、ただ静かに前進を続けるだけ。
「くっ……このままでは、私たちの兵も……!」
リディアの声に応じたかのように、空が裂けた。
《闇の王》の瘴気が天へと昇り、空そのものが暗黒に侵されていく。太陽が隠れ、風が止み、時間さえも凍りついていくようであった。
そして――
膨張
瘴気が波となって弾け、戦場の一角を闇が飲み込んだ。それを見た味方も敵も関係なく、全軍が強制的に終戦へと導かれていく。一刻も早くこの場から逃れるために。
呻き、悲鳴、嘆き――それらすら瘴気に沈み、音のない虚無が広がっていく。
◆
グリオル、いや闇の王は止まらない。
彼は望んで暴れているわけではない。ただ存在し、ただ歩くだけで、世界が終わっていく。
それこそが、《闇の王》の権能。
世界が彼の歩みに抗うことを止めたとき、ついに戦場には誰もいなくなっていた。
兵は撤退した者も、消えた者も、あるいは瘴気の中で変質して別の何かとなった者もいた。
グリオルは立ち止まる。
彼の目の前に広がるのは、無人の大地。
そこには、勝者も敗者もいない。
ただ、終焉が生まれ世界に危機を与え始めた。
そして闇の王は歩み始めた。今後人類、魔族共に大きな被害を与える闇の王の歩みはまだ止まらない。
***
こうして――ラン草原における人類と魔族の激戦は、《闇の王》の出現とその圧倒的瘴気により、強制的な終戦を迎えた。
この戦の名は、後にこう記される。
『闇の審判の日』と。
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