第7話『ゆっくり、やさしく、舞台の上で』




ピアノ教室の発表会は、近くの市民ホールの中にある、小さな多目的室で行われた。


木の床に並ぶ折りたたみ椅子。

舞台と呼ぶにはささやかな、少し高くなった演奏スペース。

派手な照明も飾りもなく、窓から入る自然光がやさしく室内を包んでいた。


「陽菜ちゃんのお名前、まもなくお呼びしますね」


案内の先生の声に、陽菜の肩がぴくりと動く。

だけどすぐに、深呼吸をして、胸の前で両手をぎゅっと握った。


「大丈夫。ゆっくり弾けば、ちゃんと届くよ」


隣で声をかけると、小さくうなずく。


結月と涼は客席の後方に座って、娘の小さな背中をそっと見守っていた。



名前が呼ばれたあと、陽菜は静かに立ち上がり、舞台の中央へと歩いていく。

足取りはゆっくり。でも、しっかりと前を見ていた。


白くてやわらかなベージュのドレスが、光を受けてふんわりと揺れる。

低い位置で結んだ髪に付けた小さなリボンが、ふとした瞬間にきらりと光った。


椅子に座り、背筋を伸ばす。

ほんの一瞬、客席を見た。結月と目が合った。


(がんばって)


その視線に、ほんの少しだけ笑った気がした。


陽菜が選んだのは、クラシックの古い小品。

子どもでも演奏しやすく、だけど「音の表情」がしっかり伝わるやさしい旋律。


最初の和音が、ぽろん、と響いた。


そこから始まるのは、ひとつひとつの音を大切に置いていくような、

ゆっくりとした演奏。


力強さはない。けれど、どの音もきちんと呼吸していて、

聴いている人の気持ちが、すっと引きこまれていくような、不思議なあたたかさがあった。



結月は、ただただその音に耳を傾けていた。


途中で小さなミスタッチがあったけれど、陽菜は止まらなかった。

少しだけ息を整えて、そのまま先へ進む。


(えらい……)


そんな言葉が、自然と胸の中に浮かんできた。


たった二分ほどの演奏。

けれど、その時間が、ものすごく尊いものに思えた。


曲の最後の和音が静かに終わったあと、客席はほんの一瞬の沈黙のあと――

控えめな、でもしっかりとした拍手に包まれた。


陽菜は、ぺこりと丁寧にお辞儀をして、ゆっくりと椅子を離れる。



控室に戻ってきた娘を、結月は笑顔で迎えた。


「すごく、すてきだったよ」


「……ちょっと間違えちゃったけど……さいごまでひけたよ」


「うん。それがいちばん大事。ママ、ほんとうにうれしかった」


涼も、珍しく言葉少なに、でも優しい笑みを浮かべて娘の頭をなでた。


先生からも「ちゃんと音に気持ちがこもっていましたよ」と言ってもらえた。


拍手の量が多かったわけじゃない。誰かに“すごいね”と騒がれたわけでもない。


でも――

伝えたい気持ちが、ちゃんと音に乗ったこと。

それが、今日いちばんの“すごいこと”だった。



帰り道。

結月は、陽菜の手をそっと握りながら、ぽつりとつぶやいた。


「今日みたいな日が、あるからね。ママ、これからもがんばれるよ」


「え? ママも?」


「うん。ひなに負けないように、ママも、いろんなもの作るんだ」


「じゃあ、次は……なんだろうねっ?」


「ふふ、楽しみにしてて」


娘の笑顔は、舞台の上とは違って、少しだけほぐれていた。


それは、ただの“終わった安心”じゃなくて――

きっと、ひとつ階段をのぼったあとの、晴れ晴れとした笑顔だった。





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