第5話『衣服製作場と、娘のためのやさしいドレス』
発表会まで、あと三週間。
娘・陽菜がピアノの練習をしている様子を、結月はそっと見守っていた。
鍵盤を叩く指先はまだ幼くたどたどしいけれど、音に対する真剣な気持ちは伝わってくる。
(衣装、どうしようか)
市販のドレスでもいいけれど、どこか味気ない。
借り物も選べるけど、ちょっと大きすぎたり派手だったりするものが多い。
「陽菜は、どんなのが着たい?」
「んーとね、ひらひらしたの……でも、まっしろとか、キラキラすぎるのは、ちょっと恥ずかしいかも」
「ふふ、そうだね。ひなはそのくらいが似合うかも」
結月はゆっくりと立ち上がり、寝室へ向かった。
棚の奥に大切にしまってある、あの白い本を手に取る。
ページをめくると、そこにはまだ一度も開いたことのない見開きがあった。
そこにはこう書かれていた。
――《衣服製作場》
ページに指を触れると、ほんのわずかに本が温かくなり、ふわりと景色が変わる。
⸻
そこは静かなアトリエのような場所だった。
広々とした空間の壁には、色とりどりの布地が波のように並んでいて、机には上品な糸巻きやレース、リボン、小さな装飾品が、整然と並べられている。
空気はすこし甘い香りがしていて、不思議と気持ちが落ち着く。
(……ここが、衣服製作場)
中央の作業台の上には、白い小さなトルソーがぽつんと立っていた。
そこに自然と、“娘に着せたい服”のイメージが浮かんでくる。
「落ち着いた色で、やさしくて、ちょっとだけ華やかで……」
そう考えていると、壁の布の中から一枚――
やわらかなサンドベージュの布が、ふわりと宙を舞って、トルソーにかかる。
さらに、襟元には細やかな白レース、ウエストにはくすみピンクの小さなリボンが自然と添えられていく。
丈はひざ下まで。ふんわりとしたAラインで、動くたびにやわらかく揺れる。
(……陽菜にぴったりかも)
全体の印象は、華やかすぎず、でも“晴れの日”の特別感がきちんとある。
仕上げに、同じ色味の薄手カーディガンと、髪飾りとして小さなリボンを添えると、
作業台のそばにあった鏡が、ぱっと淡く光った。
『完成です。現実へ持ち出しますか?』
「はい」
その一言と同時に、ふわりと視界が切り替わり――
気がつけば、自宅の寝室に立っていた。
腕の中には、布の香りがほのかに残る、やさしいベージュのドレス一式が。
⸻
「ママ、それ……!」
「うん。陽菜のために、作ったんだよ」
差し出したドレスを見て、娘の瞳がぱっと輝いた。
「……すごい……これ、着ていいの?」
「もちろん。発表会の日に、これを着て演奏しようね」
陽菜は胸元のリボンをそっと撫でながら、うんっと力強くうなずいた。
(本当に、使ってよかった)
誰かに自慢するためじゃなくて、
家族のために、ほんの少しだけ“特別”なことができる――
それが、結月にとっての“魔法の使い方”だった。
⸻
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