第二話:エスカレートする陰と届かない声

あれは、始まりだった。


ユウキが山田ケンタたちにからかわれたあの放課後から、まるで糸が切れたかのように、いじめは静かに、だが確実にエスカレートしていった。最初は無視だった。ユウキがクラスメイトに話しかけても、誰も反応しない。まるでそこに存在しないかのように、彼らはユウキの言葉を空気と一緒に飲み込んだ。彼の問いかけは、空気を震わせることもなく、ただ消えていく。


次には、陰口が始まった。ユウキが席を立った途端、ひそひそと囁き声が聞こえる。彼の外見、彼の挙動、彼の存在そのものが、嘲笑の対象となった。机には落書きが増え、教科書はページが破られるようになった。どれもこれも、決定的な証拠を残さない、巧妙で陰湿な手口だった。


ミオは、その全てを見ていた。教室の片隅で、俯いているユウキ。彼を取り囲む、山田ケンタや佐藤アヤカ、そして彼らに同調するクラスメイトたちの冷たい視線。ミオは、その光景を目にするたびに、心臓が鉛のように重くなるのを感じた。


「ユウキ……」


そう、心の中で何度も呟いた。呼びかけたい。止めに入りたい。彼を守りたい。しかし、口から出る言葉は、いつも喉の奥に引っかかって、一音も発せられなかった。


ある日の昼休み。ユウキは、給食を一人で食べていた。クラスの中心では、山田ケンタが大声で談笑している。その視線が、ふとユウキに向けられた。


「おい、桜井。なんでそんなとこで飯食ってんだよ。もっとこっち来いよ」


山田がニヤニヤしながら呼びかける。ユウキはびくりと肩を震わせたが、顔は上げない。


「来いって言ってんだろ!日向さんも見てるぞ、お前が一人で寂しそうにしてんの」


その言葉に、ミオの心臓が激しく脈打った。山田は、ミオの存在を「いじめの許可証」として利用している。ミオが止めるどころか、冷たい態度を取り続けていることを、彼らは確信しているのだ。ミオは、完璧な笑顔を保ったまま、視線を俯いたユウキに投げかけた。助けて、という無言の訴えが、彼の背中から発せられているように感じた。


だが、ミオは笑った。ごく自然に、楽しそうに笑った。その笑い声は、クラスメイトたちの談笑に溶け込み、誰にも咎められることはない。その瞬間、ユウキが、ふと顔を上げた。彼の黒縁メガネの奥の瞳が、ミオを捉える。その瞳には、一瞬、ミオへの期待が宿っていたように見えた。だが、ミオが笑い続けるのを見て、その期待はすぐに消え失せた。代わりに浮かんだのは、深い失望と、そして諦めの感情だった。


ユウキは、何も言わずに給食のトレイを掴み、そっと立ち上がった。そして、誰にも気づかれないように、教室を出て行った。ミオは、彼の背中を見送ることしかできなかった。彼の背中には、もうミオへの何の期待も、訴えも感じられなかった。それは、完全に閉ざされた扉のようだった。


******


ユウキは、それからというもの、休み時間になるとすぐに教室を出て行くようになった。どこへ行くのか、ミオは知っていた。桜峰市図書館だ。彼はそこで静かに本を読んだり、勉強したりすることで、心の平穏を保っているのだろう。


ミオは、何度か図書館へ足を運んだ。彼の後を、見つからないように、まるでストーカーのように追いかけた。図書館の窓から見えるユウキは、いつも静かに本を読んでいた。彼の周りだけ、時間が止まっているかのように穏やかだった。そんな彼を見ていると、ミオの心はわずかに安らぎを覚えた。しかし、彼に話しかける勇気は、やはりミオにはなかった。


いじめは、さらに陰湿さを増した。


ある日、ユウキの机の上に、一匹の死んだカエルが置かれていた。生徒たちは、それを見て騒ぎ立てるが、誰も手を触れようとはしない。担任教師が駆けつけ、顔を青くしてカエルを片付けたが、犯人は見つからなかった。


ミオは、その光景を呆然と見ていた。胃の奥からこみ上げてくる吐き気に、必死に耐えた。ユウキは、カエルを見ても、表情一つ変えなかった。ただ、無感情な目でそれを見ていた。その無表情さが、ミオの心を深く抉った。彼の心は、もう何も感じなくなっているのか?


その日の放課後、ミオは、いつも通り友人たちと他愛のない会話をしながら下校していた。桜峰高校から駅へ向かう途中にある、桜並木と小さな公園を通り過ぎようとした時、彼女の目に、公園のベンチに座っているユウキの姿が映った。彼は、一人で、うつむいていた。その隣には、彼がいつも持っている、少し古びた文庫本が置かれていた。


ミオの足が、思わず止まった。


「ミオちゃん、どうしたの?」


友人が訝しげに尋ねる。


「ううん、なんでもない」


ミオは、無理に笑顔を作り、足を動かそうとした。だが、体が動かない。吸い寄せられるように、ユウキの方を見てしまう。彼の背中は、ひどく小さく、そして、ひどく寂しそうだった。


まるで、世界の全てから隔絶されているかのように。


その時、ミオの脳裏に、幼い頃の記憶が鮮明に蘇った。この公園で、ユウキと二人、桜の木の下で遊んだ記憶。まだ、仮面を被る前の、無邪気な自分がいた頃の記憶だ。


「ミオ、見て!桜の花びらが雪みたいだ!」


目を輝かせて笑うユウキ。その隣で、ミオも心から笑っていた。あの頃、私たちは何も恐れていなかった。ただ、目の前の世界が美しく、そしてユウキの存在が、何よりも大切だった。


だが、今のユウキは、もうあの頃の笑顔を見せない。彼の瞳からは、ミオへの愛情は消え失せ、深い失望と裏切り感が宿っていることを、ミオは知っていた。彼の閉ざされた心は、もはや彼女の声など届かない、深い闇の中に沈んでいた。


ミオは、奥歯を噛み締めた。その時、ユウキが、ふと顔を上げた。彼の視線が、ミオを捉える。


その瞳には、もう微かな期待すら宿っていなかった。


ただ、冷たい無関心があった。


ミオの心臓は、凍り付いたように感じた。ユウキの視線は、ミオの完璧な外面を透過し、その奥にある、醜い不安と承認欲求を見透かしているかのようだった。彼はもう、ミオの取り繕った笑顔に騙されることはない。彼は、ミオが自分のプライドのために、彼を見捨てたことを、はっきりと理解している。


ユウキは、ミオから目を逸らすと、ゆっくりと立ち上がった。そして、ミオに背を向け、公園の奥へと歩いていく。彼の背中は、遠ざかるほどに小さくなり、やがて視界から消えた。


ミオは、その場に立ち尽くしていた。友人たちは、何も気づかないまま、先に進んでいく。ミオは、まるで自分だけが、異次元に置き去りにされたかのような錯覚に陥った。


冷たい風が吹き、桜の枝を揺らす。もう、春はとっくに過ぎ去ったというのに、ミオの心の中には、冬の嵐が吹き荒れていた。


彼女が被り続けた完璧な仮面は、今、確実に、その表面に深い亀裂を走らせていた。

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