彼女のツンデレは、僕の心を殺した。〜完璧な彼女が壊した、ただ一つの居場所〜

@flameflame

第一話:優等生の裏側と歪んだ愛情

日向ミオは、まぶしいほどに完璧だった。


朝、通学路の桜峰高校までの道すがら、彼女の姿は常に絵になっていた。手入れの行き届いた長い黒髪は、朝日に当たると天使の輪のように輝き、制服はまるでオーダーメイドであるかのように彼女のすらりとした肢体にぴったりと沿っていた。白い肌は陶器のようで、大きな瞳は常に知性と優しさを湛えている。すれ違う生徒たちは皆、一度ならず二度、三度と振り返った。彼女の後ろ姿を見送る彼らの瞳には、羨望、憧憬、そしてわずかな諦めが混じり合っていた。


ミオは、その視線に気づかないふりをして、真っすぐに前を見て歩いた。顔にはごく薄い微笑みが浮かんでいる。それは、教科書に載っている偉人の像のような、あるいは美術室に飾られたデスマスクのような、寸分の狂いもない「完璧」な笑顔だった。だが、彼女の心臓の奥底では、微細な歯車が常に軋みを上げていた。


「おはよう、ミオちゃん!」


前から小走りにやってきた女子生徒が、溌溂とした声で話しかけてくる。クラスのムードメーカー、藤田サキだ。彼女はミオの完璧さを素直に称賛するタイプの人間で、その無邪気な瞳に、ミオはいつもわずかな安心感を覚えていた。


「おはよう、サキちゃん。今日も元気ね」


ミオは笑顔を深め、応じる。声のトーンも、表情も、完璧だ。昨日寝る前に鏡の前で練習した通りの、教科書に載っている「理想の女子高生」そのものだった。彼女は常にそうあろうと努めていた。努力ではない。それはもはや、息をするのと同じくらい自然な、生きていく上での絶対的なルールだった。


なぜなら、ミオは「完璧」でなければ、存在を許されないと知っていたからだ。


幼い頃から、両親はミオにそう教えてきた。良い子でいなさい。賢くありなさい。美しくありなさい。彼女の存在は、常に誰かの期待に応えることで肯定されてきた。テストで満点を取れば「さすがミオ!」と褒められ、行儀良く振る舞えば「お利口さんね」と頭を撫でられた。逆に、少しでも失敗すれば、あるいは感情を露わにすれば、両親の顔には落胆の色が浮かんだ。それは叱責よりも、何よりもミオを苦しめた。まるで、自分が愛されているのは「完璧なミオ」であって、「欠点のあるミオ」ではないのだと、無言のうちに告げられているようだった。


だから、ミオは決して完璧な仮面を外すことはなかった。学校でも、家でも、常に「日向ミオ」という理想の偶像を演じ続けた。その仮面の下で、彼女の心は常に不安定な均衡を保っていた。少しの失敗で崩れ去りそうな脆さと、それを誰にも見られたくないという強いプライドが、彼女の内部で渦巻いていた。


******


教室に入ると、ミオは自分の席に向かった。窓際の一番後ろ、陽光が差し込む特等席。そこは、成績優秀で容姿端麗なミオに与えられた、ある種の王座のような場所だった。


「日向さん、おはよう」


静かな声が聞こえた。振り返ると、隣の席に、黒縁メガネをかけた少年が座っていた。桜井ユウキ。クラスの隅で目立たない存在。ミオとは対照的に、彼は常に地味な影を纏っていた。成績は中の上、運動も得意ではない。外見も特徴がなく、クラスメイトのほとんどは彼の存在を意識することもなかった。


しかし、ミオにとって、ユウキは特別だった。


「桜井くん。おはよう」


ミオは、わずかに声のトーンを変えた。普段、誰にでも見せる完璧な笑顔ではなく、ごく微かに、そして不自然なほどに冷たい響きを声に混ぜる。ユウキは、ミオの真の姿を知る数少ない人間だった。幼い頃から、ミオがどんなに強がっても、どんなに完璧を装っても、ユウキだけは彼女の心の奥底にある不安や寂しさを見抜いていた。彼は、ミオが唯一、仮面を外せる相手であり、心から安らぎを感じられる心の拠り所だった。


だからこそ、ミオは彼にだけは素直になれなかった。


「今日、古典の小テストあるの、知ってる?」


ユウキは、教科書を開きながらミオに尋ねた。彼の視線は、ミオの瞳ではなく、開かれた教科書に注がれている。その控えめな態度が、ミオの心にざわめきをもたらした。彼は何もかも知っている。ミオがどれほど、自分を大切に思っているか。ミオがどれほど、自分の本当の姿を彼にだけは見せたいと願っているか。


「へえ、そうなんだ。知らなかった。桜井くんは完璧だから、どうせ満点なんでしょ?」


ミオの声には、明らかな皮肉が混じっていた。わざと、ユウキの顔を見ないように視線を逸らす。心臓がトクン、と不規則な音を立てた。本当は、知っている。ユウキが努力家で、真面目なことを。そして、彼が決して「完璧」ではないことも。


ユウキは、わずかに顔を上げた。その黒縁メガネの奥の瞳が、一瞬だけミオを捉える。そこに、寂しさのような感情がよぎったようにミオには見えた。だが、それはすぐに消え、ユウキは再び教科書に視線を落とした。


「いや、僕もまだ自信ないよ。日向さんは大丈夫だと思うけど」


その言葉に、ミオの心臓はさらに強く跳ねた。大丈夫じゃない。本当は不安だ。完璧な自分を演じ続けることが、どれほど重圧であるか。ユウキにだけは、それを知ってほしい。だが、口から出たのは、全く違う言葉だった。


「ふん。当たり前でしょ。誰かさんみたいに、予習もせずに焦ったりしないから」


ミオは鼻を鳴らし、ユウキの顔をちらりと見た。ユウキは何も言わず、ただ静かに教科書を読んでいた。その姿に、ミオは小さな苛立ちを覚えた。どうして、何も言い返さないの?どうして、私の本心を見抜いて、止めてくれないの?


ミオの心の中では、矛盾した感情が嵐のように吹き荒れていた。ユウキに自分の好意を悟られたくない、というプライド。周囲のクラスメイトに、地味なユウキと仲が良いと知られたくない、という承認欲求。そして何より、彼にだけは自分の弱さを見せてしまいそうで怖い、という本能的な恐怖。それら全てが入り混じり、彼女の「好き」という感情は、毒のような「ツンデレ」へと姿を変えていた。


******


授業が始まり、放課後になった。ミオは友人たちに囲まれ、華やかな笑顔で談笑していた。彼女の周りには常に人が集まり、その中心でミオは輝いていた。


ユウキは、そんなミオの姿を遠巻きに見ていた。彼は友人も少なく、いつも一人でいることが多かった。クラスの隅で、静かに自分の世界に閉じこもっている。


「おい、桜井」


不意に、背後から声が聞こえた。振り返ると、クラスの目立ちたがり屋、山田ケンタがニヤニヤしながら立っていた。その隣には、彼の手下のような男子生徒が数人。


「さっき日向さんが言ってたぞ。『桜井くんは予習もしないから焦ってる』って」


山田は、わざとらしくミオの言葉を真似た。その声には、明らかにユウキを馬鹿にする響きが混じっていた。ユウキは何も言い返さず、ただ俯いた。


「おいおい、図星かよ。日向さんも呆れてたぜ、お前のこと」


山田たちは面白そうに笑った。教室のあちこちから、ちらちらと視線が向けられる。ミオは、その様子を友人たちとの会話の合間にちらりと見た。ユウキが山田にからかわれている。その光景に、ミオの心臓がズキン、と痛んだ。守らなければ。そう、思った。だが、その言葉は、喉の奥に引っかかって出てこない。


その時、山田ケンタの隣に立っていた佐藤アヤカが、クスクスと笑った。


「ていうか、桜井くんっていつも地味だよねー。日向さんがわざわざ話しかけてあげるのも、可哀想だからじゃない?」


佐藤アヤカは、ミオとは別のグループに属する、明るく活発な印象の女子生徒だ。彼女の言葉は、まるで何気ないおしゃべりのようだったが、その裏には明確な悪意が潜んでいた。ミオは、佐藤アヤカの言葉に動揺した。違う。そんなはずない。私は、彼が、好きなのに。


だが、ミオは何も言わなかった。動くことができなかった。もし今、ユウキを庇えば、クラスメイトたちはどう思うだろう?完璧な日向ミオが、なぜあんな地味な生徒を庇うのか?そうすれば、彼らはきっと、ミオのユウキへの「好き」という感情に気づいてしまう。その可能性が、ミオの心を縛り付けた。


そして何より、いじめを止めに入れば、自分のプライドが傷つく。彼らはミオを「完璧な存在」として認めている。その承認を失うのが、彼女は怖かった。


ミオは、自分の心臓の奥底で、何かが冷たく凍り付いていくのを感じた。


「そうだよなー、日向さんがわざわざ構ってやるって言ってんだから、感謝しろよな、桜井」


山田ケンタの声が、教室に響く。ユウキは、やはり何も言わず、ただ黙って俯いていた。彼の背中が、ひどく小さく見えた。


その瞬間、ミオは自分の体が、まるで鉛のように重くなっているのを感じた。喉がからからに乾き、息が詰まる。彼女の心臓は、激しく鼓動を打っていた。それは恐怖だった。ユウキを失うことへの恐怖ではなかった。それは、完璧な仮面が剥がれ落ちる恐怖だった。


彼女は、山田たちのいじめを止めるどころか、むしろ彼らの行動を無意識に助長するような態度を取ってしまった。彼女の沈黙は、山田たちにいじめを続けることを「許可」しているかのように映ったのだ。ミオは、そのことを理解していた。だが、止めることができなかった。


ユウキは、ミオの視線に気づいたのだろうか。彼は、ふと顔を上げ、ミオを見た。その瞳は、相変わらず黒縁メガネの奥に隠されていたが、ミオには、その一瞬の視線の中に、微かな期待と、そして深い失望が同時に浮かんでいるように見えた。


それは、ミオの心に刺さる、小さな氷の破片だった。


ユウキは再び俯き、何も言わずに席を立った。彼の背中は、もうミオに何も語りかけてこなかった。


ミオは、友人たちとの会話に再び戻ろうとしたが、言葉が喉に詰まって出てこない。完璧な笑顔を浮かべようとするが、顔の筋肉がひきつる。


「ミオちゃん、どうしたの?顔色悪いよ?」


藤田サキが心配そうに声をかけてきた。


「なんでもない。ちょっと疲れただけ」


ミオは、無理に笑顔を作り、そう答えた。だが、その笑顔は、もはや完璧ではなかった。どこか歪み、ひび割れているように見えた。まるで、彼女が被り続けた仮面が、少しずつ、音を立てて崩れ始めているかのように。


ユウキは、何も言わずに教室を出て行った。ミオは、その背中をただ見送ることしかできなかった。彼女の心臓の奥底では、軋みを上げていた歯車が、ゆっくりと、しかし確実に、狂い始めていた。

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