長い髪がおりるまで
山本京斗
第1話
「どうして朝は青いの?」
少年は不思議そうに空をずっと眺めていた。隣には母親と思われる人が立っていて何か返答していたようだけれど聞こえなかった。
僕は古本屋で働いている。祖師ヶ谷大蔵という駅から15分ほど歩いたところに僕の店はある。僕は小さい頃から本が好きだった。いや、本が好きというよりも本読むという行為に関係する全てが好きだった。本を読むという行為は現代において非生産的だと思う。ただ考えや言葉を取り入れるのであれば音楽や動画の方が圧倒的に効率がいい。無駄な1人の時間を愛するということは自分のことを深く愛しているということだと僕は思う。
『鈴木書店』は11時から18時までやっている。ほとんど客は来ない。最近ではオンラインショップを運営してそっちが主戦場となっている。実店舗は近くに住む老人たちの暇つぶし場所となっていて常連の客がほとんどだ。今日は夕方から雨が降るそうで少しだけ早く店を閉めようと店内に貼るためのPOPを作っていると、
「谷崎いますか?」
身長150cmにも満たない小柄な女性だった。真っ赤な口紅に少し黒めのアイシャドウ、大人っぽいメイクとは反対にあまり陰影はなく(あるいはつけておらず)、少しの幼さも感じた。正直なところ特別美人なわけではないが、何か特別なものを感じた。老人しかいない場に若い女がいることが特別だったのか。僕の自己中心的な、あるいは自慰的な昂りだったのか。定かではないが妙に興奮した。
「谷崎、という従業員はうちにはおりませんがどうかなさいましたか?」
「いえ、谷崎潤一郎です。彼の作品が読みたいんです。」
僕はさらに興奮した。若い女性で谷崎が好きだという女性は珍しかったからだ。
「私、友人に彼の作品を勧められて、それで、来ました。」
彼女は付け加えた。よく話す女だと思った。この人はきっと大して自分に自信がない。1人の時自分をどうやって愛したらいいか知らないのだと思う。
「そういうことですね。あるはずです。
ご案内します。」
彼女が店内にいた時間はほんの15分くらいだった。雑に並べられた本たちが埃を立てて、選ばれた一冊は出荷される前の豚みたいな顔をしていたはずだ。安寧の地から知らない場所へ連れ出される。不幸とは限らないにしろ、慣れない場所へ向かうことは恐怖を伴う。僕はここ3年で色々な資格を取得した。しかし僕はここにいる。まだ少し子供で、一番大人なのかもしれない。
15分のうち、会話を交わしたのはほんの2分程度だろう。それも明日目が覚めたら忘れるような、誰にも言わなくていいようなつまらないこと。それでも僕はあのとき今までにない興奮をした。それが性的なものなのか、未来へ向かうための意思決定のアシストだったのかはよく分からない。ただ僕も自分を愛しているのだろうし、何か期待をしているのだろう。
それから彼女は一週間おきくらいに店に来ることになった。他の常連よりも店に来る頻度は高く、僕のささやかな楽しみとなっていた。しかし、それと同時に終わりが近づいていることも知っていた。うちに置いてある谷崎の作品はあと三冊で、彼女はあと三回しか店に来ないだろうという確信を多く含んだ推測が立てられた。彼女はこれまで本はほとんど読んでこなかったと思う。多分僕よりも外交的だし、無駄な一人の時間を愛するというタイプには見えなかった。だからこそきっと僕の楽しみはあと三回で終わる。僕はそのあとただの紙になる。ただ何かに使われ、風に吹かれ、忘れられる存在になる。たまに反撃してみるけどそれも一瞬で忘れられる。そこに実態はあるけどただそれだけの僕が完成する。
彼女が歌舞伎町の風俗店で働いていることを知ったのは僕が紙になってから二ヶ月後のことだった。
その日は地元の友人たちとの年に一度の飲み会の日だった。全員に名前があって全員に生活があって全員に自分がある。僕とは違う。多分僕は周りから見たら綺麗に染まった青色のような人間なんだろうと思う。朝方の人間によって施された雑多な景色の真上にあるもの。無理にたくさんの色を混ぜたんじゃなくてただ一滴、一滴だけ垂らしたような、そんな色。多分それは「みずいろ」で水はもっと深いものだと思ったし、「そらいろ」の方がいいなとも思った。でも今の僕はそんな風ではなくて、離れて見たら尖りのないまっさらの男で、近づいてみると意外と凸凹していて近づき難いようなそんな男。すこしでも声をかけたら吹き飛んでどこまででも飛んでいく。大人数の意見に乗って敵を倒しに行く特攻隊長なのだ。
僕は次の日仕事で朝が早かったため、みんなよりも早めに店を出た。きっかり5000円。それだけ残して新宿駅へと向かった。夜の歌舞伎町はひどく虚しく1人で歩くには心細ささえ覚えた。真っ黒のスーツに身を包んだホスト風の男、原型も取り留めないほどに汚してしまった年齢不詳の女、何も知らないまま、あるいは全てを知ってしまったような顔でダンボールに包まれるホームレス。僕はその中を歩いていた。
「あの、以前店に来ていただいていた方ですよね。」
僕は自然と言葉が出た。誰かの意見に乗るでもなく僕の意思で。
「あ、古本屋さんの。偶然ですね。」
彼女は淡々としていた。以前の彼女のイメージとは全く違っていた。少し背も高く見えたし、前よりももっと派手なメイクをしていた。特に陰影は前よりもくっきりと見えた(夜だからかもしれないが)。それに前よりも淡々としていた。
多分僕と彼女が初めて会うのが今の瞬間だったらなにも感じなかっただろう。そのくらい無愛想な女だったのだ。人は二度死ぬというけれど、反対に何度も生まれると思う。きっとこの女と何回も生まれて今回が何回目かは分からないけれど、少なくとも二度目ではないはずだ。
「実は自分も谷崎の作品が好きでぜひ感想を聞かせていただきたいと思ってたんです。」
それでも僕は彼女に言葉を投げた。傲慢で素直な反面、綺麗にブラッシュアップしたようなそんな言葉で。谷崎が好きなのは本当だが、ただの過去の産物に成り下がった彼女にこれ以上言葉をかける必要はなかった。彼女の言葉か態度があるいはそれ以外かに何か期待を持って僕の言葉は低い弾道で飛んでいった。
「そうだったんですね。正直なところとても難しかったです。言葉もそうですし、考えも。でも本というものの良さはわかりました。最近もいろんな本を読んでます。」
彼女は謙虚だなと思った。素直な言葉を吐けばいいはずなのに。素直な人間しかいないこの町では、僕と彼女だけが浮き上がって見えていたと思う。人間は生まれた時から汚いものである。それは歴史が証明しているし、無駄なものばかりが進化して大切なものは常に退化している。理性が先行すれば何もかもを概念で話そうとする。愛とか夢とか友情とか。存在しないのにそこに情熱を持って語ろうとする。
それ以上彼女と本についての話はしなかった。人は自分が進んだ先に見える未来に落胆するのを常に恐れる。僕もそうで、話を逸らした。
「よかったらこの後少し話しませんか。」
唐突な彼女の誘いに僕は全てを忘れた。明日ある仕事のこと、無理して抜けてきた飲み会のこと、凸凹した醜い自分のこと。同時に僕はひどく興奮した。今までと違って原因はすぐにわかった。彼女は汚いのだ。いやもっとも人間は汚い。それはそうなのだが彼女はもっと汚いのだ。汚いことを理解していないからだ。
この女の隣を歩きたい。あわよくば僕のものにしたい。汚い、醜いこの女を拭き取ってやりたい。人の手垢に塗れて茶色がかったこの女を。
長い髪がおりるまで 山本京斗 @yamamoto-
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