第2章:ことばにならない名前

第7節『ふれそうで、ふれない』


 森を出る道は、行きよりも静かだった。


 ただ、耳が慣れただけなのかもしれない。

 あるいは──蓮の心が、さっきよりずっと落ち着かないせいかもしれなかった。


 すぐ後ろから、一定の歩幅でついてくる足音。

 それが思ったよりも近くて、蓮はふと、歩調を速める。

 小石を蹴ってしまい、カツ、と高い音が森に響いた。


 追いつこうとしているのではない。

 ただ──足音の気配が、妙に、肌に近すぎて。


 さっきの沈黙が、まだ喉に残っていた。

 口を開けば、何かが壊れてしまいそうで、怖かった。


 後ろから、遼馬の声がかけられる。


「なあ」


 その声音には、からかうような軽さはなかった。

 たぶん何かを言いかけたのだろう。けれど、


「──いや、やっぱりいいや」


 それきり、また静かになる。


 森を抜け、道がひらけて、畑のにおいが鼻に届いてきたころには、日がすっかり傾いていた。


 村に戻る直前、蓮は足を止めた。


「……ここまででいい。あとは一人で帰る」


「そうか」


 遼馬は引きとめようともしなかった。

 けれど、ひとこと添えるようにして、ふっと笑って言った。


「……おまえ、今日ずっと名前で呼ばれなかったの、気づいてた?」


 蓮はぎくりとして振り返る。


 遼馬はまっすぐに立っていた。

 森のなかでは気づかなかったけれど、その目には、何かを確かめるような光があった。


「……じゃあな、祝子(ほうりご)の子」


 冗談めかした口調だったが、名前を呼ばなかったことだけは、ほんとうだった。


 蓮はその場から逃げるように歩き出す。

 その背中に、遼馬はそれ以上何も言わなかった。


◇ ◇ ◇


 家に帰ると、ほたる婆が囲炉裏の前で湯をあたためていた。


 蓮が戸口をくぐると、婆はちらりと顔をあげた。


 何も言わなかった。

 けれど、何も知らないふうでもなかった。


 蓮は思わず目をそらす。


 湯気のにおいと、炭のはぜる音。

 それらが妙にまっすぐに胸に差し込んできて、息がつまった。


** ──そこには、もういないはずの婆の気配があった。**


「……ただいま」


 ようやくそれだけを言うと、婆はひとつうなずいた。


 ──それだけだった。


 それだけなのに、蓮は、自分の顔がまともに見せられるものじゃないと知っていた。

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