第2章:ことばにならない名前

第6節:見えない火、消えない名


 白い祠の前で立ち尽くしたまま、蓮は胸の奥に冷えたものを抱えていた。


 ——なんで、自分でもわからないのに。


 あの木札に、どうしてあんなに反応してしまったのか。手放したくない、見られたくない、でも、知りたくてたまらない。胸の奥に燻るその火は、祠のまわりの湿った空気とはまるで反対に、どこまでも乾いていた。


「……怒ってる?」


 遼馬の声が落ちてきたのは、そんなときだった。ふと顔を上げると、彼は祠の反対側の石段に腰かけて、腕をついてこちらを見ていた。


 蓮は返事をせず、そっと木札を懐に戻した。


「……別に」


 自分でも気づかぬうちに、声がやや尖っていた。遼馬はそれを受け止めるでもなく、ただ空を見上げて言った。


「さっき、祠の前でさ。なんだか火が見える気がしたんだ」


「……は?」


「目に見える火じゃない。空気がゆらいでる、っていうか、もっと……匂いの奥のほうで。」


 蓮はぎこちなく目を細めた。


 ——この人は、何を言ってるんだ。


 けれどその感覚は、どこか、自分の感じていた“違和感”と隣り合わせな気もした。あの木札を前にしたとき、自分の中で燃え上がりそうになった、あの得体の知れない熱。名づけようのない、けれど確かに「在った」と言えるそれ。


 遼馬は続けた。


「おれ、名前って不思議だなって思うんだよ。名乗られなくても、どっかで“誰か”を感じることって、あるだろ。匂いとか、視線とか、空気の温度とか。そういうのって、目に見えない名前、みたいなもんじゃないかって。」


 蓮は、ふっと息を吸った。


 ——この人、ほんとうに都の人間か?


 この感覚。ほたる婆の話を聞いたときに近い。物の名前ではなく、「気配」や「気」に宿る何かを感じ取ろうとする態度。薄民のあいだでは当たり前だった、でも都では嘲られるような、そんな感性。


 遼馬の視線はまっすぐで、そこに軽さはなかった。


「……じゃあ、おまえは、何を感じたんだよ」


 自分でも意図せず問い返していた。遼馬は、しばらく黙ったあと、ぽつりと呟いた。


「名のない火。……燃えてるけど、誰にも見えないやつ」


 蓮の心が、ひとつ小さく脈打った。


 ——それは、まるで自分のことみたいだった。


「……くだらないな」


 口に出したその言葉は、たしかに言ったはずなのに、どこか震えていた。遼馬は笑わなかった。ただ、まっすぐな声で、静かに言った。


「そうかもしれない。でも、おまえのこと、少しわかった気がした」


 風が、木々を揺らした。葉が鳴り、空気が流れ、ふたりのあいだに沈黙が落ちる。


 けれどその沈黙は、どこか、前よりもやわらかかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る