第三章 すれ違いのアンサンブル
第11話「波音の午後」
春の午後、教室の窓から差し込む光は、穏やかで少しだけまぶしい。
三原晴人は、手の中のカセットテープをじっと見つめていた。
今日は体育の授業もなければ、バンドの練習もない。
友達の誘いも断って、ひとり教室に残る。
理由はうまく言えない。
ただ、昼休みにふと下駄箱の上に置かれていたこのカセットが、なぜか気になって仕方がなかった。
表に貼られた細いラベルには、淡い色鉛筆で「Shion」とだけ書かれている。
(春日さん……だよな)
同じ学年の、物静かなあの子。
ピアノの音が、春の放課後に響くのを、何度か廊下越しに耳にしたことがあった。
でも、話したことはない。
彼女のカセットには、一体どんな“音”が入っているのか――
それだけが、今の晴人の心を不思議に引き寄せていた。
窓の外では、午後の光が桜の枝を透かし、風に花びらが舞っている。
晴人は席を立ち、イヤホンを片耳に挿し込む。
カセットウォークマンの再生ボタンをそっと押すと、
小さな「カチッ」という音とともに、テープの回転するかすかな音が流れ始めた。
――最初に聞こえたのは、ピアノの音だった。
優しいけれど、どこか頼りなくて、
たどたどしい旋律が、春の午後の空気の中に溶けていく。
その後に続いたのは、
消え入りそうな、けれどまっすぐな少女の声だった。
「……私は、春日詩音。
本当は、誰かとちゃんと話してみたい。
でも、言葉にしようとすると、うまく出てこない……
昨日、千紗が手紙をくれたのに、ありがとうって、ちゃんと言えなかった」
晴人は、自然と呼吸を止めて聴き入っていた。
(……こんなふうに、自分の本音をテープに吹き込むなんて、考えたこともなかった)
詩音の声は、震えながらも、その分だけ誠実で、
まるで心の奥の本当の音を隠さずに差し出しているように思えた。
晴人は、ふと自分の手のひらを見つめる。
この一年、バンドのリーダーとして、
みんなの前では明るく、強く振る舞うことばかりだった。
けれど、本当の自分はどうだっただろう。
期待されるたびに、どこかで「本当の自分」を置き去りにしてきた気がする。
(俺も……何かを誰かに伝えたくて音楽をやってるのに)
誰にも話せない思い、
弱さや不安を、全部音に変えられるなら――
今の自分にも、春日さんみたいに何か「本当の音」が作れるだろうか。
イヤホンを外して、カセットをそっと手のひらに包み込む。
窓の外、校舎の向こうからは、運動部の歓声と遠く波の音が混じって聞こえてくる。
この町は、丘の向こうに海が広がっていて、
潮風のにおいが春の午後をやさしく包む。
晴人は静かに教室を出て、
グラウンドを横切り、小さな防波堤の見える公園まで歩いていった。
防波堤の上に腰かけて、もう一度カセットを再生する。
詩音の声とピアノが、春の海風の中に溶けていく。
――「これが、私の声」
彼女の小さなつぶやきが、
どうしようもなく胸に刺さる。
(……俺も、本当の自分の声を探したい)
ふと、カセットに吹き込まれた音の向こう側で、
波音が春の午後を満たしていく。
*挿入歌(晴人)
♪
潮風が運ぶ午後の匂い
誰かの声が心を揺らす
強がる自分も 本当は弱くて
見せたくないものばかり増えていく
でも今、波の音とピアノのメロディ
心の奥に触れたんだ
“本当の自分”を
もう一度、探し始める
♪
防波堤の向こう、春の空はどこまでも澄んでいた。
晴人は、ポケットの中のカセットテープを強く握りしめる。
(いつか――俺も、自分の声を誰かに伝えられたらいい)
そんな想いが、波の音とともに胸の奥で静かに広がっていった。
この春の午後が、
晴人にとっても新しい“始まり”になった気がした。
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