第2話「秘密のカセット」
春の光が、窓ガラスを透かして教室の床に模様を描いていた。
新学期、最初の授業。先生の声が黒板にチョークで書く文字とともに、教室にゆっくり溶けていく。
周囲の生徒たちが、自己紹介でそれぞれの声を響かせるたび、詩音の心はどんどん小さくなっていった。
「次は、春日さん」
先生の声が教室の空気をすっと切り裂いた。
(ドキン、と心臓が鳴った)
自分の名前が呼ばれるだけで、胸が苦しくなる。
視線が集まる。
詩音は立ち上がり、制服の裾をぎゅっと握る。
「……春日詩音です。……よ、よろしくお願いします」
それだけで精一杯だった。声は、ほとんど聞き取れなかったかもしれない。
席に戻ると、クラスの一部の生徒が小声で話しているのが聞こえた。
「静かだね、あの子」「緊張してるんじゃない?」
詩音は机の中で手を握りしめる。
誰も悪気がないのはわかっている。けれど、その視線のひとつひとつが、どこか遠い檻のように感じてしまう。
(うまく笑えたら、みんなともっと仲良くなれるのかな)
でも、詩音は自分の声にずっと自信がなかった。
小さい頃から音楽だけは好きだったけれど、話すことはどうしても苦手だった。
昼休みになっても、教室のざわめきに混じる勇気は持てず、詩音は窓際でお弁当の包みを開いた。
ふと、制服のポケットに入れたままのカセットテープを指でなぞる。
昨日、音楽室で録音した短いメッセージ。
誰にも聞かれないように、そっとカセットレコーダーを取り出す。
机の上にそっと置き、イヤホンを片耳だけ差し込む。
小さな「カチッ」という再生音とともに、微かに自分の声が聞こえた。
「……今日から、新しい学校に来ました……ちゃんとここで、笑えるようになりたいです」
その声は、想像よりもずっと弱く、震えていた。
だけど、たしかに“自分”だった。
(これが、私の声……)
カセットに吹き込むことで、誰かに話すのとは違う、自分の本当の気持ちに触れた気がした。
午後の授業が終わると、教室はあっという間に騒がしくなる。
クラスメイトたちが連れ立って部活へ、図書室へ、運動場へと走り出していく。
詩音も鞄を持って席を立つ。
どこかへ行かなきゃ、そうしないと、心が追い詰められそうだった。
今日も、足は自然と旧校舎へ向かう。
人気のない廊下。
窓から差し込む夕陽が、床に長い影を落としている。
音楽室の扉を開けると、昨日のままの空気が漂っていた。
古いピアノのそばに腰かけ、カセットレコーダーを机に置く。
(もう一度、ちゃんと自分に話してみよう)
指先が少し震えるけれど、今度はそのまま録音ボタンを押す。
赤いランプが、今の気持ちを封じ込めてくれる気がした。
深呼吸をひとつ。
目を閉じて、心の内側に語りかける。
「……私は、春日詩音。
本当は、誰かとちゃんと話してみたい。
でも、言葉にしようとすると、うまく出てこない。
昨日、千紗が手紙をくれたのに、ありがとうって、ちゃんと言えなかった」
カセットの回転音だけが、小さな部屋に響く。
「……でも、ピアノを弾いてるときだけは、私の心が伝わる気がするの。
だから……ここに、私の本当の気持ちを残します」
詩音は一度だけピアノの鍵盤に手を伸ばす。
小さな音が、部屋の中をやさしく包み込む。
(これが、私の声)
その瞬間だけ、詩音の心は、誰よりも自由だった。
録音を止めて、カセットをそっと取り出す。
それは、誰にも見せられない秘密。
でも、カセットの中には、ほんの少しだけ“強い自分”が残っている気がした。
窓の外、夕陽が金色に染まりはじめていた。
(いつか、この声が、誰かに届きますように)
詩音は胸にカセットをしまい、静かに立ち上がった。
外の世界はまだ少し怖いけれど、
この部屋の中でだけは、確かに「私の音」が響いていた。
*挿入歌(詩音)
♪
言えなかった「ありがとう」
言葉にできない「好き」
本当の声は、カセットの奥
小さな勇気が、回りだすたび
心の鍵が、ひとつ外れていく
♪
校舎の外は、春の夕焼け色に染まっていた。
カセットを抱きしめた詩音の心には、
小さなリフレイン――秘密の旋律が、そっと鳴り響いていた。
(続く……)
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