華族の娘と使用人

@pChron

序章《回顧と訪問》

―忘れられた屋敷の名をたずねて―

語り手:元一条家の女中・お雪


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華月庵――

その名を耳にすることは、もう久しく耳にいたしません。

かつては大きな屋敷でございましたが、今ではすっかり荒れ果て、門は錆び、鳥すら寄りつかぬ有様と聞いております。


けれど、私は、あの場所を忘れたことなど一度もございません。

あの方が、あの娘が、そこにいたからでございます。



先日、勤め先の奥様から、ひとつ用事を申しつけられました。

「うちの子、最近どうも塞ぎ込んでしまって」と――その娘さんは十四になる年で、頭がよくて気の強いお嬢さん。けれど、友達ができないのだと、ぽつりと打ち明けたのです。


私は、ただ黙って頷きました。

けれど、その姿に、ふと心を刺すような記憶が甦ったのです。


琴音様――

あの方もまた、あまりに気高く、強すぎるがゆえに、人との距離を測ることができなかったお嬢様。

私は気がつけば、何年も開いていなかったあの引き出しを、胸の内でそっと引き抜いていたのでございます。


奥様のご用事は、親戚筋への届け物でした。早朝から身支度を整え、人力車で馬喰町を南に下りました。

荷を渡し、茶を一杯いただいて辞去したのは午後も遅くなってから。けれど、帰り道、なぜかまっすぐ帰る気になれなかったのです。


「歩いて、もうひと駅ほど先まで行こうか――」


何気ない思いつきのように自分に言い訳をしながら、私は別の道を選びました。


そこで、見覚えのある道標が目に入りました。


あの細い私道――

華月庵へと続いていた、苔むした玉砂利の道です。

風に揺れる枝の影が落ちて、まるで過去の影が、私の足元に寄り添うようでございました。


若い頃、あの屋敷に仕えていた日々。

癇癪持ちで、傲慢で、それはそれはお美しいお嬢様――琴音様。

その傍には、常に秋彦という若い書生がおられました。


お嬢様が怒鳴ろうと、突き放そうと、眉ひとつ動かさず従い続けたあの方。

まるで、琴音様の影法師のようでございました。


なぜ、秋彦様はあの方を置いていかなかったのか。

なぜ、お嬢様はあの方にすがられながら、変わらぬ顔でいられたのか。


私は、答えを知らぬまま、年を重ねてまいりました。


けれど、あの娘さんの伏し目がちの横顔に、琴音様の影を重ねてしまったその日――

私はもう、知らぬふりではいられなかったのです。

胸の底に沈んでいたあの音が、ふいに呼び起こされたように思いました。



木々の影が濃くなった私道の奥に、あの屋敷はまだ、眠っているのでしょうか。

琴音様は、秋彦様は――いま、どこに。


それを確かめたくて、私は再び、華月庵の扉をたたこうとしております。

誰に許しを得るでもなく、ただ、懐かしさと、奇妙な胸騒ぎに背を押されるように。


「会いたい」のではありません。

「見届けたい」のでもないのです。


ただ、あのときの問いに、今こそ耳を澄ませたかった――

それだけなのかもしれません。

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