果実の波止場

雨涙

果実の波止場

 僕は世間でいう『引きこもり』と言われるような人だ。ネットで配信を定期的にしながらその収益で何とかお金を賄っている。とはいえ全く出ない訳ではなく、お弁当や飲み物を買うために週に1回ほどコンビニに向かっている。

今日も僕は狭いアパートの中から古びた冷蔵庫の中から昼ごはんを食べようと扉を開ける。しかし中は伽藍堂だ。重たい足を動かしながら5分程かけて近くのコンビニへ向かった。途中、曇天の空を見て天気予報で雨が降るとか流れていたような気もすると思ったが歩く距離が増えるよりはマシだろうと考え、そのまま歩くことにした。行くタイミングはいつも同じってことではないがほぼ必ずと言ってもいいほど見慣れた店員がいる。20代後半くらいであろう男性店員だ。その人に沢山のお弁当とりんごジュースを渡して会計を済ませる。言わなくてもレジ袋をつけてくれるくらいにはずっとこの生活を繰り返している。だいた5年くらいだろうか。ある程度バランスに気をつけながらお弁当を選んでいるが飲み物は必ずりんごジュースを買う。お茶も珈琲も幼少期に苦いと感じて以来トラウマになってずっと飲もうとしていない。りんごジュースが1番好きというのもあって別に飽きることも無い。確実に美味しいものを選んでいるだけだ。重いレジ袋を手に持って自動ドアを出ると予想通り雨が降っていた。コンビニの中で雨音が微かに聴こえていたからビニール傘も買おうと思ったがこれくらいなら濡れても構わない。節約の方が大切だ。だが、しばらく歩いていると雨が横殴りになってきて車も水飛沫をあげるようになっていた。流石に雨宿りをした方がいいと感じた僕は近くの喫茶店へと入った。


「いらっしゃいませ」


お洒落な店内の奥からから1人の女性が現れる。店内は珈琲の匂いで包まれていた。その匂いは、ほとんど珈琲を飲んだことのない僕にとっては新鮮でどこか切なく感じさせた。僕は案内された窓側の席に座る。元から何かを頼む気もなかったが倫理的なことも考えると1つくらい注文しておかないと気が引ける。立てかけてあったメニュー表の中を見ても特に飲みたいものも見つからない。僕はメニュー表の下の方に書いてあったフレンチトーストを注文した。普段からお弁当しか食べていない僕の舌にはあまり合わなかった。ほのかに香る甘さ、柔らかな食感。その全てがまるで店内で自分だけを孤立させるような感覚がする。昔から孤立してきた僕にとって慣れているはずなのにどうしてか心が痛んだ。雨模様も無くなり、フレンチトーストを食べ終えた僕は一目散にその店内から出ようとした。途中、担当してくれた店員とすれ違った。一瞬、珈琲の匂いが僕の鼻に入る。その時に気がついた。このお店に入った時に感じたあの匂いはお店に広がる珈琲のものではなく接客してくれた彼女の香水のものだと。そんな彼女をどこか魅力的に感じていたのだろう。それからしばらくの間ふと彼女のことを思い出す、そんな時がたまに訪れようになった。



 いつものように僕は1週間分の食べ物を買いにコンビニへ来た。最近配信の調子も良くなくお金が足りなくなってきている。目に留まった張り紙にはコンビニバイトの募集のことが書かれていた。必要な書類をレジ袋の中のお弁当と一緒に持って帰った。氏名、学歴、理由の欄を記入してそのままレジ袋に囲まれた布団の中で横になった。



そこはまるで異世界のようだった。人と関わりあうとか今まで皆無で最初は不安だったが良くも悪くも新鮮で新たな世界観を僕に分け与えれくれた。陳列などをすると思いのほか沢山の種類のものがコンビニにあることも知った。普段と違う視線から見たコンビニでのバイトはかなり上手く行うことが出来た。先輩のおかげだろう。谷置夢たにおきゆめ、僕より少し年上でコンビニバイト経験は長い。谷置という苗字は僕も同じでそんなことから僕は勝手に親近感を抱いていた。長くて美しい黒髪を持つ夢先輩はコンビニの中でも人気になるほど妖艶だった。そんな先輩に丁寧に優しく教えてもらいながら必死にお金を稼いだ。


 その日から懸命に働いてある程度のお金が貯まり、何かに使ってみよう、そんな気持ちが芽生えてきた。


「どこかオススメのところないですか?」


夢先輩に聞いてみる。


「じゃあバイト終わったら一緒に行こう」


そう言われて着いた場所は喫茶店だった。ここは1度だけ来たことがある。


「何頼むんですか?」


「ホットコーヒーでいいかな。あとフレンチトースト」


「じゃあ同じの頼みます」


少し背伸びをして珈琲を頼んでしまったが、無理をしてでも飲むしかない。格好つけたいが食べる時のルールもイマイチよく分かっていない。夢先輩が、食べている様子をちらっと見てそれを真似して食べる。


「今日は奢ってくれてありがとうね」


「えっそんなこと言ってないんですけど...」


まあ満足そうな夢先輩の姿を見れただけで良かった。仕方なく2人分のお金を店員に渡した。店員はすこし気まずそうな顔をしていたが、僕はそれには気づかなかった。



――――



あの日のことがふと頭をよぎる。当時学校でいじめられていた私は酷くやつれていた。どうしようもない。言い返そうとする度胸もない。そんな私に嫌気がさして高架橋から飛び降りようと思っていた。柵に足を掛けて乗り越えようとした時、仄かに香る珈琲の匂いに気がついた。自殺をするなら人がいなくなってからの方がいい。夜の空がもうすっかり藍色に染まっている。


「何をしているの?」


大学生に見える女の子に話しかけられた。仄かな珈琲の香りがする。


「なんで飛び降りようとするの?」


「うるさい!あなたには関係ないでしょ!」


「関係なくないよ。私も自殺をしにここまで来た」


「えっ?」


「両親が交通事故に巻き込まれてなくなった。それまで親にすがって生きてきたせいで技術も才能も何も無い。あるのは死亡保険のお金だけ。就活も少ししたけど全然手応えがなかった。だから生きるのが大変で。犯人はまだ見つかってないから最後に犯人を探したかったけどね」


「そうなんだ...。犯人の顔とかは覚えてるの?」


「いや、全く」


彼女から香る珈琲の匂いが無意識に私の心を落ち着かせる。死にたいという感情も収まった。2人のため息が重なる。



――――



そんな彼女を見てとある1つの案がふと頭の中に現れた。


「それじゃ1つお願いがあるんだけど」


「なに?」


「結構変な話を言うけど。私と君で入れ替えない?」


「どういうこと?」


「私が君として暮らして、君が私として暮らすっていうこと。」


「でもなんで?」


「私が君の両親を殺した犯人を見つけ出す。実際の子供だと危険があるかもしれない。私も一人暮らしで誰にも意識されていないから変えてもバレないと思う。環境が変われば落ち着くと思うよ。多少お金も渡すし」


「まあ分かったよ」


「名前は?」


葉山恋華はやまれんか


「私は谷置夢。よろしくね」


「うん。いろいろありがとう」


その時の思いつきで変な提案をしてしまったがそれは本当に正しいのだろうか。ただ、一度言ってしまったからにはそうするしか道は残されていない。これからの生活に少し不安を抱いた。



――――



 夢先輩とは週に何度も遊びに行くほど仲良くなっていた。夢先輩は珈琲の香水に思い入れがあるらしく、会う時は必ずその匂いを辺りに漂わせている。1度なんで好きなのか尋ねて見た事があったが軽く流すようにして話してくれなかった。ただ、「この匂いは心を救ってくれる。」

とだけ言っていた。



 そして今日は夢先輩と初めて旅行に行くことになっている。向かう先は長崎にあるハウステンボスだ。花が綺麗でオランダの景色が再現されたその場所は夢先輩に似合うと思って僕が選んだ。少し胸をドキドキさせながらも新幹線の車内でゲームなど、着く前から盛り上がった。しかし僕には使命がある。この旅の途中、夢先輩に今の想いを伝えなければならない。タイミングを伺いながら夢先輩との会話を楽しんだ。ハウステンボスはパンジーをはじめとする沢山の花が咲いていて、写真で見た時よりも何倍も美しかった。思わず見蕩れてしまう。でも、1番良かったのは夜のイルミネーションだ。一面を着飾る光、まるで異世界のような光景だった。僕達は空いている場所に座り水上パレードを見た。幻想的な空間が広がっていて社会に前より馴染めたような感覚が湧き出てきた。家から出てこんな素敵なものを見る日が来るとは思ってもいなかった。そんな景色を横目に夢先輩の顔を見る。一日中遊んだせいか珈琲の匂いはほとんどなくなっていた。夢先輩の目に反射する光。妖艶な夢先輩の姿が光り輝いて見えた。そんな夢先輩のことを思うと想いを伝えることができなくなってしまった。本当に僕でいいのだろうか。今までの関係が壊れてしまうのではないか。僕はポケットで落ち着かない手を動かしながら光り輝く景色を眺めていた。ホテルのチェックアウトを済ませて昼ごはんを食べて新幹線に乗って家に帰る。あとそれだけの時間でこの想いを伝える覚悟ができるだろうか。想像すると緊張と恥ずかしさで頭が真っ白になってしまう。新幹線に乗って席に座ったぼ僕は勇気を振り絞って夢先輩に話しかける。


「あのさ」


「なに?」


ダメだ。どうしてもこの先の言葉を話すことが出来ない。


「ごめん。なんでもない」


「そっか」


モヤモヤとしかものが胸に残るまま新幹線は終点へと向かっていく。夢先輩から香る珈琲が僕の鼻を突き刺す。


 夢先輩と別れたあと仄暗い街の中を歩く。夜風が町の木々を震わす。駅から家まで遠くないので肌寒いのは我慢できるだろう。途中、喫茶店の看板がやけに目に付いた。



 家に着くと僕はすぐに異変に気がついた。中から電気が漏れだしていた。ドアに手を掛ける。鍵もかかっていない。この家の鍵を持っているのは僕しかいない。他に入れる人がいるはずがないのだ。不審に思った僕は玄関のドアに耳を当てて中の音を少し聞くことにした。静寂の中にところどころ聞こえる2人の声。1人は男性、もう1人は女性だろう。強盗とかならもっと雑音が聞こえてくるはず。もしくは僕の存在に気づいたのか。あらゆる可能性を考えたがどうしても非現実的なものになってしまう。僕は恐る恐る玄関を開けて物音をあまり立てないようにしてリビングへと向かった。2人の姿が見えた。バレないように覗いていると女性の方が自分の方へ歩きてきた。すぐに隠れようとしたが間に合わず見つかってしまった。女性はとても驚いたような、でもどこか嬉しいような顔で僕を見た。


「ねえ。リビングで話しましょう」


自己紹介もせずに最初に言うことではないだろうと思いながらもその人についていく。誰だろう。強盗なのだろうか。2人は僕の方を見ると少し気まずそうな感じで僕にこう言った。


「ねえ。覚えてる?慧人けいと


思いもよらぬ言葉に僕は身構える。


「なんで僕の名前を知っているんですか」


「そうか。覚えてないのか。残念だな」


そんなことを言われても記憶にないのだから何も分からない。


「あのね。落ち着いて聞いてね。私達はね、慧人の親なのよ」


「は?」


突然の宣告に僕は動揺を隠せない。子供の頃から、保護施設で育てられた僕にとって親と言う言葉は一切馴染みのないものだ。


「そんなわけないじゃん。嘘はやめてよ」


「嘘じゃないよ。信じてよ」


状況を上手く飲み込めない。今のままだと

僕の心がおかしくなりそう。呼吸を整わせたい。


「それともう1つ。慧人には姉がいるのよ」


「...」


だめだ。何も考えられない。


「ちょっと外行ってきてもいいですか?」


「分かった」


 仄暗い町を歩く。僕が行くのは何度か行ったことのある居心地のいい場所。喫茶店だ。ここの雰囲気はとても落ち着く。夢先輩の香水と同じ珈琲の匂いが広がっている。夜ということもあって人はまばらだ。店内を見渡すと夢先輩の姿が見えた。同じテーブルにもう1人の女性と共に座っている。その女性はこの喫茶店の店員。僕が初めてここに来た時にレジなどをやっていた人だ。それ以来、僕がお店に行った時に何度か話しているが自分のことを一切話さず、どこかミステリアスな雰囲気のある人だ。そんな2人が何を話しているんだろう。盗み聞きするのは良くないが馴染み深い人の声が耳に入ってくるのは気持ち的にも楽になるだろう。2人が座っているひとつ隣りのテーブルに僕は腰掛けた。珈琲の香水の匂いはしてこない。変わりに青白い果実のような香りが微かにする。でも今はそれどころではない。注文を済ましてから、家で起こった出来事に考える。そもそも僕に両親がいるなんてありえない。保護施設で幼少期は育てられられ、大人になってからは親がいないということが原因で就職が上手くいかず保護施設を経営している会社から多少の仕送りを貰って過ごし少し前までは配信で少ないお金で生活していた。静かに考えていると隣から会話が聞こえてくる。


「今のところどう?」


「全然。入れ替わって気は楽になったけど手がかりは一切ない」


「そっか。ありがとう。色々迷惑掛けてごめんね」


「いいよ。こちらこそ。生きる理由が見つかって良かったよ。この珈琲の香水とも出会えたし」


「ラベンダーの香水も素敵だよ」


「ありがとう」


「それで話なんだけど、もう犯人は探さなくていいよ」


「えっ本当にいいの?なんで?」


「うん。犯人が見つかってももう両親は帰って来ない。それなのに探す意味もないのかなって思った」


「分かった。これからどうする?」


「今が1番楽しいから今のままでいいかな?」


「分かった。これからもよろしくね。恋華」


「こちらこそ、夢」


「そういえば最近上手くいってる?」


「仲良い友達が何人か」


「良かったね。私はイラストレーターとバイトの掛け持ちって感じかな」


「そうなんだ。じゃそろそろ帰ろうか」


「うん。ばいばい」


「ばいばい」


2人が話していたのを聞くといくつの違和感が出てくる。多分恋華と言う名前の人のご両親がなにか事件に巻き込まれて亡くなったのだろう。そして普段つけている珈琲の香水はその女性から知って気に入ったものらしい。違和感の正体はあまり分からないが今はそんなことを考えるよりも自分のことを考えなければ。頭を落ち着かせてから家へ向かった。空の藍も深くなり町は閑散としていた。まるで時が止まっているかのようだ。勇気を出して玄関を開ける。


「本当に僕の親なの?」


「信じれないのも分かる。だって育てることが出来なかったから。でも理解して欲しい。詳しい事情は今は話せないけど」


「だから、慧人。これから一緒に生活してくれない?」


「そんなこと急に言われても...」


「そうなる気持ちも分かる。でもどうか信じてほしい」


2人の眼差しは少なくとも嘘を吐いているようには見えなかった。僕はこの瞬間、この非現実的な状況を飲み込まなければならないとそう感じた。


「2人を両親と理解するまで時間はかかると思うけど何とか頑張ってみるよ」


「ありがとう。それともう1つ。慧人に言わないといけないことがある」


「何?」


「慧人には姉がいるんだ」


「えっ」


最初は何も理解が出来なかったが、そういえば初めてこの人たちと出会った時、そんなことを言っていたような気がしなくもない。頭が困惑する。僕は反射的に聞き返してしまう。


「どういうこと?」 


「言葉の通りだよ」


「...」


「会った時には仲良くしてあげてほしい。ちょっと電話してくるね」


そう言ってお父さんは奥にある部屋へと向かった。この家は保護施設から出た時からずっと住んでいる。年齢的に自立できるだろうということで保護施設の人から大量のお金とともにここに案内された。来た時から生活感があり、雑貨や日用品などが置かれていた。二階建てで1人で暮らすにはもったいないくらいの広さだが3人ならちょうどいい。部屋の場所を説明しようとすると、

「この家のことはよく知っているから大丈夫だよ」

と言われた。もともと僕が来る前に住んでいたらしい。少し本当の両親なのではないかと思ったが信じきれてはいない。


「あのさ。姉の名前ってなんて言うの?」


ふと興味本位に、聞いてみる。お母さんの口から出たのは聞き馴染みのある言葉だった。



 「ねえ、夢先輩」


僕は勇気を振り絞って聞いてみる。


「ご両親ってどんな感じの人なの?」


夢先輩の顔が暗くなる。


「優しかった。でも今はもう...」


「そうなんだ。ごめん、こんなこと聞いて」


「大丈夫」


少しの沈黙のあと僕は夢先輩の目を見る。 


「僕の両親に会って欲しいんだけど、いい?」


「...分かった」



 雨降る町の中に2つの傘が並んで見える。もし僕の予想が合ってるならきっと。


「ただいま」


「お邪魔します」


僕達は机の椅子に座る。


「帰ってくるまであと10分くらいだからそれまで待ってよう」


「うん。でもなんでこんなタイミングで呼んだの?」


「この前家帰ったら急に両親がいて...」


僕はあの日家の中で起こったことを全て話した。


「なんか怪しいね」


話をしていると玄関が開く音が聞こえた。


「おかえり」


「遅くなってごめんね」


母親が帰ってきた。


「紹介するよ。僕の母親の...」


そう言いながら夢先輩の方を見ると、夢先輩の額には汗が流れていてとても驚いているような表情だった。


「大丈夫?」


「ごめん。ちょっと今日はもう帰るね」


珈琲の匂いが僕の鼻を突き刺した。



――――



 私は雨が降る町の中を走り出す。突如脳裏にフラッシュバックしたあの日の光景。私は歩道を家族3人で歩いていた。遊園地の帰り道に悲劇が起こった。横断歩道を渡っていた時、両親ははしゃいでいた自分に付き合ってくれてクタクタだったが、私は早く家で遊びたくて走って先に横断歩道を渡っていた。私が渡り終わる頃にはまだ、両親は真ん中を歩いていた。疲れていた両親は近づいてくる車に気づいていなかったのだろう。車に引かれてしまった。今思えば、ずっと私の事を意識してくれているようで疲労の溜まった両親にそこまで考えることが出来なかったのだろう。車から運転手の男性と助手席に座っていた女性が降りる。私は恐怖でただじっとその光景を見ていることしか出来ない。その2人はすぐに車に戻ってどこかへいなくなってしまった。通行人のお陰で救急車や警察は呼ぶことが出来たが結局その車の2人は未だに誰か分かっていない。でも、あの感覚は間違いない。急に鮮明になったあの日の記憶、あの2人はきっと…。でも、なんであの場所に。家に着いて、すぐに警察に連絡をとったが教えてはくれなかった。ネットを使って探すとある記事が見つかった。過去のひき逃げ事件の犯人が釈放されたというものだ。その記事には顔写真も載っていた。間違いない。その瞬間私の心の中にある何かが壊れた。



――――



 心配になった僕は夢先輩に連絡をとる。

少し待って返ってきたメールには

『今は1人にさせて』

とだけ書いてあった。あまり深堀するのも良くないと想いそっとスマホの自分の机の上に置いてベットで寝っ転がった。


「少し大事な話があるから来て」


母の呼ぶ声が聞こえる。重い足を引きずりながらリビングへと向かう。気づけば父も帰ってきていてテーブルに座っていた。母が話を切り出す。


「大事な話だからよく聞いてほしい。私達は今まで刑務所にいたの」


「...」


「過去にひき逃げをして2人の人を殺してしまった」


「もう罪はしっかり償って反省してるから許して欲しい」


心の中から湧き出てきたのは怒りと絶望だった。殺人犯が自分の親だと名乗っていたというのか。


「僕はもう両親とは暮らしたくない。二度と姿を現さないで欲しい」


「そうなるのも分かってた。でも自業自得だからね。親として何もしてあげられなくてごめんね」


僕は何も応えず自分のベットの中に潜り込む。ただひたすらに枕を叩きながら泣いた。恵まれない自分が嫌になった。



 その日から1週間僕はバイトを休んだ。ずっとベットの上にいた。知らない間に両親は家を出て言っているみたいだ。物音のしない家が寂しさを感じさせる。

ある日、インターホンがなった。

「また帰ってきたのか」

そんな事を思いながら外を見ると夢先輩の姿が見えた。そういえばあの日以来連絡を取り合っていない。


「どうしたの?」


「前はごめんね。急に帰っちゃって」


「全然大丈夫だよ」


「ありがとう。お邪魔します」


閑散とする家の中に案内する。


「ご両親はまたどこかに?」


「いや、その事なんだけど、殺人犯だったらしい」


「どういうこと?」


「過去にひき逃げをして刑務所にいた。最近釈放されて帰ってきた」


「そうなんだ。大変だったね」


「全くだよ。そういえばバイト行かなくていいの?」


「うん。色々あってクビになっちゃったから」


「そうなの?」


「うん。ごめんね、急に」


「いいよ全然」


「じゃまたね」


「ばいばい」



 あの日以来体調を崩していた僕だが無事バイトに行けるくらいまでに回復した。


「夢先輩ってどうして辞めたんですか?」


バイトリーダーに聞いてみる。


「彼女の履歴書にいくつか不審な点があってその原因がようやく分かったからだ」


「どういうことですか?」


「谷置夢という名前は詐称だったんだ」


「いや、そんなはずは。だって夢は僕の姉のはずじゃ」


「でも君1人っ子だって入る時に聞いたけど」


「それは...最近知ったんです。親から」


「君も何か怪しいね」


「いや...」


その時僕のスマホが振動した。夢先輩からだった。

『この後、来れたら喫茶店で待ち合わせね。』

シンプルな文面が画面に表示される。


「彼女の本名知ってるか?」


「いや、知らないです」


「葉山恋華。まあいい。君のことも少し調べてみるよ。店に影響が出ないようにね。とりあえず今日は用事があるみたいだし帰っていいよ」


「えっ」


「前の反省から一回君のこともしっかり調べたいからね。今日は客も少ないし大丈夫だろ」


「分かりました...」


僕の親は嘘を吐いているのか。それともバイトリーダーが。どっちにしろ良くない状況に傾き始めている。僕は刹那雨に打たれながら喫茶店へと向かった。中は昼だからかほとんど人はいなかった。


「慧人。こっち座って」


そこで待っていたのは夢先輩と前も夢先輩と一緒にいた女の子だ。夢先輩が僕の方を見て目に涙を浮かばせながら叫ぶ。


「君の両親に合わせて!」


その威圧に圧倒されて


「分かった」


と僕は反射的に言った。とはいえもう一度親と連絡を取らなければいけない。

『2人に会いたい人がいるから家に来て欲しい。』

そうメッセージを伝え、しばらくの時が過ぎた。



 「あなた達ですよね。私の両親を殺したのは」


夢先輩が話し出す。今までにないほど真剣な眼差し。数え切れない程の想いが込められているだろう。


「あなたは葉山さん?」


「そうです」


「なるほど。あの件に関しては本当に申し訳ないと思っている。罪が消えるとは思ってないけど反省はしている」


「...」


目線を下の方に向けている。


「1ついいかな?」


「何ですか?」


「隣にいるのは夢だよね」


母親が夢先輩の隣にいる女の子について聞く。


「はい…」


「えっ」


僕は思わず声を出してしまう。夢先輩が本当の名前ではないという話は聞いたことがあるが本当の谷置夢が知り合いにいたとは。


「慧人、前話した慧人の姉だよ。夢、世話をしてあげられなくてごめんね」


「あなた達にそんなことを言われる筋合いはないです。私を、私の心を育てたのは恋華だから」


「どういうこと?」


僕は夢と恋華に訊ねる。


「私達は2人とも自殺しようとしている時に出会った。でもお互いに名前を入れ替えて生きていくことで何とか乗り越えようとした。でもそうして暮らしている間に恋華の両親を殺した犯人が分かった。今まで騙していて悪かったね」


「そうなんだ...」


「今日はもう帰ります。もう会うことはないでしょう」


『夢』は僕の親に向かって言葉を突きつけた後すぐに家の外へ出た。


「ねえ慧人。これあげる」


『恋華』から貰ったのは香水だ。でもいつも使っていた珈琲のものでは無い。


「もう谷置夢じゃないから。恋華として好きだったこの香水を慧人に渡すよ」


「ありがとう」


「じゃまたね」


「ばいばい」


少しの沈黙の間の後母親が言葉を切り出す。


「慧人、これからどうしたい?」


「できることなら夢先輩、いや恋華先輩と過ごしたい。でも彼女のことまで考えると...」


「私達はもう慧人に会わないようにするから」


僕はその言葉に対して何も答えなかった。




 今の彼女の状態を知ったのは夢に教えてもらったからだ。僕はあの日からずっと今までと変わらず1人で暮らしてきた。彼女がいないことを除いて。そこだけだただぽっかりと空虚を生み出している。同じ日々の繰り返し。でも苦痛ではなかった。人生ってこんなもんなんだと改めて思った。


 ある日渋谷のスクランブル交差点で懐かしさのある匂いが鼻に留まった。後ろを振り向くと夢の姿が見えた。


「夢さん!」


僕は思わず声をかける。夢はたった数年でかなり大人びたようだ。


「慧人さん」


静かな声で話し始める。


「恋華についてなんだけど会いに行ってもらってもいい?」


「いいけど行方が分からないし」


「ここに向かえば会える」



 着いた場所は病院だった。受付の人に言われた病室まで向かう。病院には特有の外と切り離されたような雰囲気が漂っていた。ドアとノックしてからドアを開ける。


「慧人です」


中にはベットの上で横たわっていた恋華の姿があった。


「大丈夫?」


僕は恋華の手を優しく握る。手の冷たさに涙が流れる。夢先輩のような明るさはまだない。たまに消えかかった焔のように恋華の手が少し動く。規則的な電子音が病室に響いている。


「なんでこんなことに?」


「不慮の事故だよ」


「えっ。」


ドアから夢が入ってくる。


「交通事故だよ」


僕の胸が締め付けられるように痛い。でも、ようやく恋華に会えたのだから想いを伝えなければ。あの時自分の気持ちを伝えられなかった僕とは違う。何倍にも成長したこの僕の声で恋華に伝える。


「今まで恋華に沢山助けられた。本当にありがとう。だから頑張って、また一緒に。今度は偽りのない心で」


「ありがとう...」


恋華の目から涙が溢れる。


「でもごめんね。もう私は...」


そう言って恋華は目を閉じる。机の上には僕と恋華の似顔絵が置いてある。


「恋華。好きだよ」


僕は窓際に置かれていた香水を指でなぞってから外へ出た。




 「ねぇ、見て」


恋華の明るくてどこか寂しげな声が聞こえる。僕はその声を聞けるだけで嬉しくなる。余命を告げられてから、僕も恋華も枯れゆく葉の色と共に変わってしまった。病室で寝ていた恋華は匂いを失った香水のように儚く、握った手はずっと前から放置されていた珈琲のようにに冷たかった。でも、そんな恋華がこの景色を見れるほどまで回復したのは奇跡と言っていいだろう。信じれば叶う、それのありきたりな言葉を具現化した様な出来事に涙が溢れてくる。あの日から僕は何度もお見舞いに行った。時の流れは残酷だ。笑う君、泣く君、怒る君、今ならどんな恋華でも愛せると思う。恋華の辛さは分からない。でも少しは理解出来るはずだ。僕達はたまたま恵まれなかっただけ。珈琲の花のようにすぐに枯れてしまった。それでも意味のあるものにはなった。


「恋華今までありがとう」


「私も慧人と、一緒に過ごせて嬉しかったよ」


最期の言葉を交わし合う。


〈苦しみも楽しさも辛さも喜びも最後は全て朽ち果て消える〉


僕達は紅葉が咲き乱れる山の湖に飛び込んだ。


〈彼女の珈琲の匂いは水中へと溶け込んだ〉

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果実の波止場 雨涙 @amenamida

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