まだ戻らない日々にて
はるか かなた
1話完結
電車に乗るのは、三ヶ月ぶりだった。
午前十時、平日の各駅停車。混雑することのない時間帯を選んだはずなのに、吊り革をつかんだ手のひらは、汗で濡れていた。
座席の端に座る学生の笑い声が耳に刺さる。
あんなふうに笑っていた自分を、もう思い出せない。
派遣会社の面談に行くための外出だった。
履歴書は何度も書き直したが、そこに「どうして前職を辞めたのか」は、とうとう書けなかった。
——あれを言葉にしてしまったら、たぶん、もう立っていられなくなる。
私が今日この駅で降りるのは、面談のついでに寄ろうと決めた小さなビルの三階。
偶然見かけたチラシが、財布の奥から出てきたのだ。
「女性のためのカウンセリングルーム」——という名前は、正直、ちょっと構えてしまう。
でもその下に書かれていた言葉だけが、なぜかひっかかっていた。
「話したくないことは、話さなくて大丈夫です。」
何も話さなくていいなら、行ってもいいかもしれない。
そんな理屈にもならない理由で、私はこの駅で降りた。
小さなドアのベルが鳴ると、受付にいた女性が顔を上げた。
白いシャツにやさしい目元の人だった。
「こんにちは」とだけ言って、こちらから何も聞かないその声が、なぜか懐かしかった。
「……はじめまして。予約していないんですけど、大丈夫ですか?」
そのときの自分の声が、少しだけ震えていたことを、私はあとになって気づいた。
「今日は、暑いですね」
杉本明日香が差し出したのは、冷たい麦茶だった。
カウンセリングルームといっても、部屋の中にあるのはテーブルと椅子がふたつ。壁には風景写真が何枚か、優しい色合いで並んでいるだけだった。
私はそれを受け取って、「はい」とだけ答えた。
それ以上は何も話せなかった。
「無理に話さなくて大丈夫ですよ。ここはそういう場所なので」
そう言われると、逆に何かを言わなきゃいけない気がして、居心地が悪くなるかと思っていた。
けれど不思議なことに、その言葉は私の中のどこかに、すっと入ってきた。
——ここは、黙っていても咎められない場所なんだ。
それが新鮮だった。
この数ヶ月、私はどこへ行っても「元気そうにふるまうこと」が求められる気がしていた。
コンビニのレジでも、派遣会社の面談でも、実家の電話でも。
「大丈夫」と言えば済むし、「大丈夫じゃない」と言っても何も変わらなかった。
けれどこの場所では、「大丈夫」と言わなくても、誰も黙った私を責めない。
そのことが、驚くほど心をほどいていく。
麦茶を飲み終わる頃、明日香が小さく笑った。
「……気が向いたら、また来てくださいね。お名前、無理に言わなくても大丈夫です」
私は黙ってうなずいて、そのまま部屋を出た。
ビルを出ると、夏の陽射しが強くて、思わず目を細めた。
さっきより、ほんの少しだけ、呼吸がしやすくなっていた。
扉を出てから、五日が経った。
そのあいだ、私はカウンセリングルームのことを何度も思い出していた。
明日香さんの声も、壁の写真も、麦茶の冷たさも。
全部が、とても「音の少ない記憶」として残っていた。
一度きり、行くつもりだった。
「私は大丈夫です」って顔をして、面談も終えて、また仕事が始まれば、きっと忘れられると。
でも、そうじゃなかった。
夜になると、胸の奥に何かが詰まっているような感じがして、寝返りを打つたび、あの職場の名前がふっと頭をかすめた。
電気ポットの湯が沸く音にびくっとしたり、部屋のチャイムが鳴ると心臓が跳ねたり。
そんなことのひとつひとつが、まだ私は「戻っていない」のだと教えてくる。
それでも、誰かに話したいとは思えなかった。
話したところで、「それはハラスメントなの?」「証拠は?」「言い返せばよかったのに」
そんな言葉が返ってくるんじゃないかと、思ってしまう。
私の感じた“嫌だったこと”は、誰かにとっては「ただの世間話」だったり、「気にしすぎ」と笑われるものなのかもしれない。
だから、黙っていた。
けれど六日目の朝、トーストにマーガリンを塗りながら、ふと「あの人の声がまた聞きたい」と思った。
明日香さんの、あの低くて穏やかな声。
あれを、もう一度聞いたら、私はちょっとだけ、ちゃんと眠れるような気がした。
気がついたら、またあの駅で降りていた。
前と同じく、小さなベルが鳴った。
その音に、私は少しだけほっとしていた。
ここには「時間の流れ方が違う」という感覚が、私の中にもう芽生えていたのだと思う。
受付にいた明日香さんは、私の顔を見ると軽く頷いた。
「いらっしゃいませ」とは言わなかった。
ただ、「今日も暑いですね」と、あの日と同じ口調で言った。
私は無言のまま頷き、椅子に腰を下ろした。
今日は、前よりも少しだけ長く座っていられた。
麦茶の氷が溶ける音が、カップの中でかすかに鳴っている。
「……最近、よく眠れますか?」
その問いは、目を合わせず、ふとしたタイミングで投げかけられた。
私はすぐには答えなかったけれど、しばらくしてから、息を吐くように言った。
「……夜中に、起きちゃうんです」
明日香さんは頷いただけで、「どうして?」とは聞かなかった。
それが、ありがたかった。
私は続けた。
「夢を見るんです。なにを見たかは、覚えてないけど……起きたときに、すごく怖くて。誰かに見られてるような気がして」
その言葉を言いながら、自分でも驚いた。
誰かに話すつもりなんてなかったのに、声になっていた。
明日香さんは、ほんの少しだけ身を乗り出して、静かに言った。
「目が覚めたとき、心が逃げ場を探してるのかもしれませんね。
あなたの中に、安心できる場所が、まだちゃんとつくれていないだけで」
その言葉が、ゆっくりと、胸の奥に沈んでいった。
「まだつくれていないだけ」——その“だけ”が、私を少し救った。
私は、泣きそうだった。
でも泣かなかった。
泣いてしまったら、なにか大切なものが崩れてしまいそうで。
だから、代わりに小さく笑った。ほんのすこしだけ、口角を上げて。
そのとき、明日香さんも同じように笑った。
私たちは、ほとんど何も話していないのに、何かを分け合ったような気がした。
その日は、雨が降っていた。
カウンセリングルームの窓を、やわらかく雨粒が打っていた。
湿気を帯びた空気の中で、部屋の静けさがいっそう濃く感じられた。
私は、前よりも自然に椅子に座っていた。
麦茶の代わりに温かいほうじ茶が置かれていて、それを見ただけで少し心が和んだ。
「……今日は、何か話したいことがあれば」
明日香さんが、いつものように静かに言った。
私はしばらく目を伏せたまま、お茶に口をつけた。
そして、なぜか唐突に、言葉がこぼれた。
「……職場で、すこし前まで働いてたところで……」
声がかすれて、自分でも何を言いたいのか、よくわからなくなった。
けれど、それでも口を閉ざさずにいた。
「上司に……
なんていうか……いやなこと、されてて。
最初はただの冗談だと思ってたけど……
だんだん、断れなくなって……」
言葉はところどころ切れていたけれど、確かにそこに“私の声”があった。
途中で泣くかと思ったけれど、泣かなかった。
それよりも、自分が今話していることが、まるで他人のことのように思えた。
明日香さんは、何も言わなかった。
ただ、こちらをまっすぐに見ていた。
責めるでもなく、驚くでもなく。
そのまなざしは、「私は聞いています」とだけ伝えていた。
私はしばらく俯いたまま、お茶の湯気を見つめていた。
そして、ようやく気づいた。
——誰かに話しても、
世界は壊れなかった。
明日香さんが沈黙を守ってくれたことで、私の心のどこかが確かにほどけていった。
それは、ほんの少しだけど、「わたしがわたしでいてもいい」という感覚だった。
その日の帰り道、雨はまだ降っていたけれど、傘をさす手は少し軽かった。
街の灯りが、やけににじんで見えたのは、湿気のせいか、それとも——
朝、目覚ましの音で起きることができた。
それだけのことなのに、布団の中で少しだけ嬉しかった。
少し前まで、目覚ましの音にさえ怯えていた。
鳴った瞬間、心臓が跳ねて、胸が苦しくなっていた。
けれど今は、「起きよう」と思える朝が増えてきた。
久しぶりに近所のカフェに行ってみようと思った。
ほんの数分で着く店なのに、何ヶ月も足を向けていなかった。
入口の扉を押す手は少しだけ震えたけれど、
店内に入ると、香ばしいコーヒーの匂いが鼻をくすぐった。
それだけで、少し救われた気がした。
カウンターにいた女性スタッフに、「おはようございます」と言ってみた。
声はかすれていたけれど、それでもちゃんと聞こえる声だった。
「おはようございます」と返ってきた声に、
私は小さく微笑んだ。
注文したのは、以前よく頼んでいたブレンド。
けれど味は、前とは少し違って感じた。
自分の感覚が変わったのかもしれない。
それが「悪い変化」じゃないと思えたことが、ちょっとだけ嬉しかった。
コーヒーを飲みながら、ふと鞄の中を探ると、
折りたたんだままになっていたチラシが出てきた。
「女性のためのカウンセリングルーム」と書かれたそれは、
今ではもう、居場所のように感じる。
私は思った。
——誰にも話さなくてもいいって、信じさせてくれたあの人がいたから、
今、こうしてここに座っている自分がいる。
誰にも言わなかったことを、少しだけ話しても、
世界はちゃんと続いていた。
私の世界は、私のままで、また始まりつつある。
その日も、カウンセリングルームのドアは静かに開いた。
小さなベルが鳴る音に、私はもう驚かなくなっていた。
明日香さんは、変わらず受付の机にいて、「こんにちは」と柔らかく笑った。
私はそれに、少しだけ大きな声で「こんにちは」と返した。
今日は何も話さないつもりだったけど、
椅子に座ってお茶を飲んでいるうちに、自然と口が開いた。
「……前より、眠れるようになりました」
「そっか」と明日香さんは頷いた。
「夢も、まだ見るんですけど」
「うん」
「目が覚めても、すぐに息ができるようになってきました」
それを伝えられた自分に、私は少しだけ驚いていた。
誰かに「大丈夫」と言ってもらわなくても、自分で「大丈夫かもしれない」と思えることがある——
そんな日が来るなんて、想像したこともなかった。
帰り際、私は入口の小さなカゴから、一枚のカードを手に取った。
白地に小さな花のイラストが描かれていて、裏には空欄がある。
部屋に帰ってから、その裏に文字を綴った。
宛名は書かなかった。でも、それは間違いなく、あの人へ向けたものだった。
「たぶん、私はこれからも思い出します。
あの時のことも、あの人の顔も。
だけど、それは“過去”になりつつあります。
今日、私は外に出て、コーヒーを飲みました。
誰のためでもなく、自分のために。
ありがとう。
まだ私は途中だけど、それでもちゃんと、生きています。」
カードを引き出しの中にしまって、私は窓を開けた。
季節は、もう夏の終わりに近づいていた。
外の風が、やわらかく頬を撫でた。
この風のなかで、私は静かに呼吸をした。
深く、ゆっくりと。
今、私はここにいる。
それだけで、今日は少し、誇らしかった。
-終-
まだ戻らない日々にて はるか かなた @JoyWorksDesigns
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