感性ユキヒョウと理性オオカミが出会ったら、雪がふたりを優しく抱きしめた。
板橋真生
プロローグ 琥珀の再会が、止まっていた雪を動かした夜
私は失った、何もかも。
私が母としてあの子にしてやれたことは、
結局あれっぽっち程度のことでしかなかった。
どれだけ抗っても抜け出せない深い後悔が、
私をどんどん闇の方へ引きずり込んでいく。
「もうこの街では暮らせない――あの子と並んで歩いた、この街では。」
本来であれば懲戒免職だったであろう私は、
それまでの実績に免じて、
自主退職という形で
捜査一課を去ることを許された。
それから数年の間、
私は過去の全てを忘れ去るように、
息を潜めながら生きていた。
いつものように一人店で飲んでいたある秋の夜、
琥珀色のウイスキーのグラスを置いたところで、
よく知った気配が横へ座るのを感じた。
「…ここにいたのか、探したよ。」
重厚な体躯のシンリンオオカミ、
深い目には研ぎ澄まされた思考が静かに揺れている。
「冷徹なカリスマ」と謳われた、
かつての私の直属の上司。
どんなに警察官として経験を積み重ねても、「この人には敵わない」と思わせ続けられる存在だ。
「…滝川さん、お久しぶりです。…どうしてこんなところへ。」
「君の携帯、解約したのか?」
「…随分前に、海へ放り投げました。」
「はは、相変わらず『感性と直感』の君らしいな。」
深い色の少し硬い毛並み、
私の口にしている酒と同じ、琥珀色の瞳。
久しぶりに会うこの上司は、
やはり変わらず私が深く信じられる人だが、
同時に私生活を一切見せない、
謎めいた人でもあった。
「…なあ、君にしか頼めない案件があるんだ。警察組織に戻る気はないか。」
「嫌ですよ、私は…警察官としての自分の無力さに、つくづく嫌気が差したんです。」
「そうか、そう言われるとは思ったが…」
滝川さんはゆっくりと言葉を選ぶと言った。
「…実はとある人物から内々に相談がきていてな、まあ半ば、所謂内部通報みたいなものだ。」
「…そうやってじわじわ巻き込むの、
やめてもらえませんか。」
「まあまあ、きっと君のお眼鏡に敵う仕事さ。」
「…はあ、滝川さんがそうおっしゃるなら…少しお話を聞くだけなら。」
「おお、それはありがたいな。」
彼はそれまでの柔らかく装った雰囲気を急に押し殺すと、低い声で言った。
「…いじめに関する問題なんだがな。」
滝川さんは私の目を真っすぐ見ると、
はっきりとした声でそう言った。
思わず私の耳がピクリと揺れ動く。
「…詳しくは正式に採用決定してからにはなるが…私には君以上の適任は思いつかない。」
心の奥で、何かがはっきりと揺れた。
もうそんな問題には一切関わりたくないと心が叫ぶ反面、断りの言葉が出て来なくなる。
「…なあ、君が嫌気が差したのは、警察官って職業じゃない。あの頃の君自身だったんじゃないのか。」
畳みかけるように、でもゆっくりと確信を持って、滝川さんは続けた。
私が答えに窮していると、その様子を見た滝川さんはふと表情を緩めて言った。
「勤務地は仙晶市だ、いいぞ~、君の大好きな雪の降る白い街。おまけに食い物も美味い。」
「………美味いお酒も、飲めるんですよね。」
滝川さんはふっと口元を綻ばせると言った。
「新しい携帯、契約しとけよ。」
それだけ言うと、
彼は音も無く静かに立ち去った。
残されたグラスに、
熔けかけた氷と琥珀色の酒が残っていた。
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