05_Reverse: Black Swan - 02

 警察がその別荘へ押し寄せてきたとき、彼らはその枯れ木のような遺体を見て、誰もが何が起きたのかを理解できなかった。


 刑事たち、そして鑑識職員たちも一様に首を傾げた。誰も信じやしないだろう。俺が〝死んだ〟と認識した瞬間──遺体が突然白煙をあげて木乃伊になった、など。

 俺もいまだに眼前で起きた出来事を咀嚼できず、ぐらつく思考の中で必死に己の意識を研いでいるような気持ちでいたのだから。



「明らかに人為的な処理がされた形跡があると思うんですがねえ」


 刑事──鬼頭慶次きとうけいじはそう言って、俺に横目を向ける。俺を疑っているというよりも、どこか憐れんでいるような色すらあった。

 恐らく椿の死についても聞かされているのだろう。四宮椿が背後から銃撃されて死んだ、と。警視庁のマル暴であるこの男が動くなら、十中八九椿の事件に反社会的勢力が関わっていると踏んでいるからだ。


 間違いではない。この事件の背後には天界魔教という魔術結社が──そして、その天界魔教とは神榮会という香港系マフィアがある。

 そういうニオイを嗅ぎつけるのが抜群にうまかったことを、俺は今更のように思い出していた。


「しかし驚きましたよ市ノ瀬さん」

「血筋だけです。……俺はなんの力も持っとらん。魔術の腕だって人並み以下や」


 そこそこマシなはずの呪言もうまくかかるときとかからない時の差が激しい。嘴馬にうまくかかったのは、彼が人の目をしっかり見て話す質だったからだろう。

 尤も、医学特区という場所の影響も強く受けているのだろう。あの都市が魔術を起こすのに誂えられたような場所ということは、最早疑いようがなかった。


「果たして本当にそうですかねえ。あなたの呪言はかかったら凄まじい効力を発揮するのでは?」

「……否定は、しません」

「大城さんに色々聞きましたがね」


 鬼頭はそう言って、ジャケットの内ポケットに右手を突っ込んだ。


「市ノ瀬さん。あなた、まだ安静にしとけって言われてるのに病院を脱走したそうじゃないですか」

「許可は貰っています」

「またまた。どうせ適当に言いくるめて脱走したんでしょ」


 否定できないのが悲しい所だった。俺は一つ溜息を返すに留める。

 もしかしたら大城は、拳銃に仕込まれたGPSの位置情報で俺の行動を把握しているのかもしれない。螺旋捜査官は医学特区外ではただの一般職公務員に成り下がる。準警察権限は飾りだ。

 そんなことを考えていれば、俺の思考を読み取った鬼頭が「それもあるでしょうが、」と口火を切った。


「あの人、俺に連絡してきたんですよ。『市ノ瀬君が無茶苦茶なことしそうで怖いから、ちょっと気にしてて』ってな具合でね」

「……、自分の責任ぐらい自分で取るのに」


 そう悪態をついても、上司である彼には部下を守る責任があった。ままならないものだと思いながら俺は必死に考える。


 神原信近には何らかの呪いがかけられていたと考えるべきだ。だが一度は、呪歌を──椿が解いたはずだが。そして椿は彼に暗示をかけた。『心疾患で死ぬことはない』と。

 しかし彼は胸を押さえ、明らかに心臓の病変が見て取れた。持病だろうか。だがそうだとしたら、この木乃伊化現象が説明できない。


 考える。椿の魔術は、魔術的な改竄を加えられた生命体を元の状態に巻き戻せる。つまり土台が幻想である場合、より強く作用する。

 つまり、椿が殺害されたことで魔術の効力が切れ、上書きという形で抑え込まれていた呪いが息を吹き返したのだ。


 客間の奥に置かれた二人掛けのソファでぼうっとしている雪島は、捜査官からの問いかけに何も応じない。完全に茫然自失としており、目の焦点は合わず、彼女から何かを聞こうというのは不可能と思われた。



「しかし妙ですね。いや、妙じゃない事の方が少ないですが……」


 鬼頭は呆れたような声色でぼやきながら、現場の奥へ視線を投げる。そこでは鑑識が忙しなく動き回り、客間の惨事を記録していた。


「神原信近は、口封じに殺された可能性があります」

「伺いましょうか」

「……椿の殺害が、魔術儀式の一部である可能性があります。神原は多分それを知っとった」

「成程。つまりですよ、市ノ瀬さん。真犯人は神原信近と接触したことがあるかもしれない。そして……四宮先生をも殺したかもしれない、と」

「つうか、そうやろ」


 思った以上に冷え切った声が出ていると気づいたのは言葉を放り出してからだった。俺は自分で思っている以上に椿を殺した真犯人を憎悪し、なんとか見つけ出して罪を償わせてやりたいと──そう思っているらしかった。


「推測ですが、犯人は処女懐胎事件をことにしたんやと思います」

「利用──ですか」


 鬼頭は顎髭に触れる。往年の刑事の勘が働いているのか、臙脂色の瞳の奥で思考の火花が散っていた。


「ああ、なるほど。熾天使連続殺人事件と呼ばれているものは、実際のところ複数の事件が同時に起きているだけで同一の犯人による事件ではない」

「より正確に言えば、その複数の事件が一つの事件に見えるよう、誘導したんです」


 俺はぼそりと呟く。鬼頭は俺の方へひとつ棒付きの飴を差し出した。正直甘いものを口にしたいと思う気分ではなかったが、貰わないのも礼節に欠ける。渋々受け取ってポケットへ突っ込む。


「……成程、追いかけるべきは四宮椿、そして神原信近を殺害した人物……ん? ということはもしや、犯人の目的はあくまで四宮先生の殺害、この一点のみだったわけですか」

「そう考えています」


 椿はいち早くこの〝熾天使連続殺人事件〟が、ご大層な名前とは裏腹に、実際は複数の事件が寄せ集めにされたものだと気づいていたのだろうか。


 だから、解くのをやめたのか。


 俺は漸く納得を得る。彼女は犯人の目的が自身の殺害であると気づいた。だから──


『私にできることはもう何もない。あとは咲良、お前がどうにかしろ』


 そう言って、匙を投げた。


『どうにか』って何かちゃ。

 死んじまったらどうにもできんやろうが。


 隣のサトリに内心を読まれるとか、そんなことに気を向けている余裕はなかった。押し寄せてくる感情の濁流が、俺の激しい後悔を強く認識させる。押し殺していた心が溢れそうになる。


「市ノ瀬さん」 鬼頭が俺の背に右手をあてた。「大丈夫ですか」

「大丈夫、です。……」


 必死に呼吸を整える。まだ立ち止まるわけにはいかなかった。全てを明かすにはピースが足りない。

 犯人はきっと、すぐそばにいる。しかしそれを糾弾するには、全ての要素を徹底的に明かさなければならない。


 俺は緋色に彩られた、椿の後ろ姿へ想いを馳せる。

 問題はいくつかあった。十三年前に起きた『第四手術室の惨劇』、それ以前にも。

 犯人が椿を殺す理由は何だ? そしてなぜ今なのか? 俺は眩暈を訴える脳に檄を飛ばして思考を回す。

 考えられるとすればやはり、彼女が繰り返し主張した『事象遺伝子説』だろう。


 神秘解明に繋がりかねない魔術は唾棄すべきだとする向きは確かにある。特に古典的な魔術を好む者はそういう傾向が強い。

 だが同時に、理屈の面で神秘解明が危険すぎる行為であるというのは、陰陽庁と公安局の中で共有されていることだ。逆に言えば陰陽庁と公安局以外の魔術師にとって、神秘解明は別に忌むべき例題ではない。忌む派閥がある、というだけで。


 そもそも魔術師は誰もが神秘へ触れ、神秘の編纂へ至ることを夢想している。

 神秘を編纂できるようになれば、己の制約などお構いなしに世界へ干渉できるようになるからだ。


 己の信じた仮構を現実にする力。


 椿はただ『解明したい』という知的好奇心だけで、その力へ指をかけた。



「十三年前……交通事故であいつは東医へ運び込まれて手術を受けたそうですね」


 俺は鬼頭へ顔を向けて、そう問いただす。意図を測りかねたのか、「ええ」 と一つ短い返事だけがあった。


「交通事故を起こした奴は捕まったんですか」

「いいことを聞きますねえ」


 刑事は自嘲気味に鼻で笑った。捕まっていないのだろう。


「犯人は逃走。車が公用車だったもんで、まあわかるでしょ」

「……隠蔽されたんですね」

「ま、捕まれば危険運転致死だけじゃなく、殺人罪も適用されると思いますよ」


 鬼頭は口に棒付きキャンディを突っ込む。いよいよ禁煙の圧力は彼にもかかったらしかった。


「何せ、亡くなってますからねえ。四宮先生のご両親」

「…………は?」

「事件記録はご覧になりましたか」


 鬼頭は固まっている俺に対し、実に軽妙な口調で言ってのけた。それよりも──椿の両親がすでに死んでいる?

 確かに彼女の後見人は伯父だった。俺は勝手に、あの惨劇が理由だとばかり思い込んでいた。


「両親ともに、事故、で?」

「いいえ。事故当時、彼女の父親は運転席にいて、対向車線をはみ出してきた公用車と正面衝突したんです。補足しときますがね、この時四宮先生が乗っていた車は路肩に停まっていました」


 鬼頭は鋭く言葉を切った。そして数度ころころと口の中で飴を転がして、もう一度口を開く。


「すぐにでも救急車を呼べば、父親も助かったでしょう。しかし犯人はそうしなかった。車をほっぽって逃げたんです」


 俺が黙ったままなことを確認して、鬼頭は続ける。

 椿が過去を話したがらない最大の理由を垣間見た気がした。


「父親は東医勤務の外科医でした。最後の力を振り絞って、四宮先生の腹部……ド派手な外傷があったそうですが、それを力いっぱい押さえていたと聞いています。それが彼女の命を首の皮一枚で繋いだようです」


 交通事故で損傷する可能性が高いのは、脾臓と肝臓だ。目に見えて出血していたなら、ともかく圧迫止血が最優先だ。


 椿の父は、己の命よりも娘を助けようとした。

 彼女が行動を起こす時、それは誰かを救おうとする時だった。

 俺は思う。椿が神秘を明かそうとした本当の理由。それはきっとこの事故にあるのだと。


「……どこまでも、医者やったんですね」


 椿も、椿の父親も。

 俺は螺旋捜査官となる以前、外科医として警察病院に勤務した。だが医者としては最悪だった。けれど目指した姿はすぐ傍にあって、眩い光に蛾が群がるのと同じで、俺は椿を無条件に信じていた。


 俺は彼女の過去にも、彼女が抱えた闇にも、何にも寄り添えてなどいなかった。

 改めてそれを突きつけられる。



「まあその直後にあの事件ですから、踏んだり蹴ったりもいいところですよ……」


 唇を噛む。口の中に鉄の味が滲んで、それと同時に血が出てますよ、という鬼頭の声が聞こえる。どこか空虚なものだった。


 結果として、あの惨劇を経て椿はこの世に戻ってきた。願いは歪なかたちで叶えられた。

 元の椿を、十三年はただの子供だった『沖田つばき』という少女の人生を、そしてその場にいた医療従事者十一人の命を奪い去る、最悪の方法で。


 しかしそれを糾弾しようにも、すでに神原信近は死んでしまっている。

 俺が真実に辿り着く可能性を考えて、慌てて殺した? そうだとしたら犯行があまりに雑で行き当たりばったりすぎる。

 だがよく考えてみれば、犯人は椿を背後から射殺している。これほど手の込んだ計画を作っておいて、肝心の椿の殺害には拳銃を使う、というのはどうも腑に落ちない。


 そしてもう一つ不可解なことがある。俺がICUに入っていた時に見ていた、あの夢だ。俺が最初に神原信近に会ったとき、彼は椿に対してまるで初対面のように振舞っていた。それは椿も同じだった。

 だが一つ確かなこともある。


『まさか〝医学における万能の天才〟と名高い人物が、このような若い女性だったとは』


 あの時俺が見た光景は、間違いなく真実であるということだ。

 神原信近と四宮椿、両者の間に師弟関係は存在しない。しかし神原は当然のように椿との師弟関係、嘴馬遼士郎の証言を裏付けるような発言をした。まるで当然、真実であるかのように。


 事象の遺伝子の改竄。その影響が及ぶのは、人間の認識──知覚だけだ。魔術を無力化する椿の〈遺伝魔術〉ゲノミクスはその程度の効力しか持たない。

 だが今回は真逆だ。認識の変容を起こし、ありもしない幻想を信じ込ませている。

 幻想を解体するよりも、幻想を真実であると信じ込ませる方が遥かに簡単だ。何故なら人の意識は、信じたいものを信じるようにできているのだから。


 もしもこの考えが正しければ、全ての事象は一人の人間のもとで制御され、俺もまた、そうなのかもしれない。


 俺は本当に、心から椿の死の真相を暴きたいと思っているのだろうか?

 もしも何者かによって敷かれたレールの上を走っているだけなのだとすれば、


(俺の意志は……、一体、どこに、)


 突拍子もない考えであることは理解しているつもりだ。だがそうではないと断じられるだけの材料も、今の俺には無い。

 確かめなければ。嘴馬が何を知っているのか。真実がどこにあるのか。嘴馬を疑いたくないという思いもあった。だが迷っている時間は無い──俺は必死に振り払う。医学特区へ戻り、彼を問い詰める必要がある。

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