introduction: the beginning - 01


 危険域を知らせるバイタルアラームが響いている。

 少女の体から溢れ出る血液は止まることを知らず、真っ赤に染め上げていた。


 患者は八歳になろうかという少女だった。逆走する飲酒運転の車と正面衝突という、凄惨な事故に巻き込まれたのだ。

 止血しようと腹を開けば突如体温が上がり始め、遂には四十三度にも到達していた。


 疑いようもなかった。少女は悪性高熱症を起こしていた。


 まだ青い心臓外科医──嘴馬遼士郎はしまりょうしろうは、麻酔科医にダントロレンを投与しろと指示を飛ばす。彼も嘴馬同様に若い麻酔科医だったが、冷静に状況を把握し既に薬剤の投与を行っていた。


 地獄のような言葉が絶え間なく手術室に響き渡る。

 血は止まらない。血圧は下がり続けている。人工心肺は作動していたが、バイタルの異常を知らせるアラームが鳴りやむことはない。麻酔科医が泣きそうなほどに悲痛な声で熱が下がらない、と叫んだ。


 絶え間なく溢れる血液を外へ捨て去り、海堂は必死に術野を確保した。

 僧帽弁の再形成、止血、損傷した心筋の保護と動脈の置換、破裂した脾臓、肝臓の摘出と止血。

 すべてが同時に進んでいく。助けられる。どんなに困難でも諦めるわけにはいかない。



「ダントロレンは!?」 嘴馬が叫ぶ。

「も、もうない……」



 直後心電図の波形が、横一本の線に変わった。


 ──心臓が止まった。


 必死で心臓マッサージを行う。動け、動いてくれ。その一心で。数分間の間、必死に心臓を押し込む。自分で拍動してくれ。


 何度、神に祈ったか分からない。

 こんな理不尽なことがあってたまるか。神がいるのならこの子を救ってくれ。



「嘴馬……」



 眼前に立つ外科医の声が遠くで響いていた。


 バイタルモニターの全てに『0』の数字が浮かんでいる。

 嘴馬は血で染まった己の手を、少女の心臓を、交互に見た。


 生命の円環から外れた心臓。

 無音の手術室にあるのは死の気配だけである。


 嘴馬はふらふらと手術台から離れた。既に少女は死んでいる。

 ダントロレンが効いたわけではなく、死によって体温は緩やかに降下していた。


「何か手はないのか」

「……嘴馬。よせ。わかるだろう」


 壮年の男が彼を諫める。

 嘴馬はマスクの下で唇をかみしめて、看護師からひったくるように持針器を受け取る。

 閉腹して、遺体を引き渡すのだ。


 少女を──沖田つばきを、嘴馬遼士郎は良く知っていた。

 無論、彼女の両親も。必死に感情を押し殺し、薄い皮膚へと針を入れようとしたが、それは阻まれた。


 もう一人の青──海堂霧雨かいどうきりうの右手に針が突き刺さっている。


「な、なにやってんだお前!?」

「まだ、手はある。この子を救う手段だ」

「何を言って……心臓が止まって、呼吸もねえんだぞ!? もう五分以上経った! 何莫迦な事言ってんだ!」

「私を信じてくれ、嘴馬」


 海堂が見せたシリンジを満たしているのは鮮やかな緋色の液体だった。血液ではないことは分かる。液体の中に、奇妙な文字列が浮いて見えるのだ。時折それは認識できる形を作るが、ふっと霧散して赤に溶け込む。


 嘴馬は直感で『これはこの世に本来あってはならないものだ』と理解した。


 嘴馬は震えながら持針器を金属トレーへ転がし、ずっと器械出しの脇に置かれていた黒い箱へ視線を遣った。

 看護師が視線に気づき、その黒い箱を手に取る。彼女はそっとそれを開けた。

 震える手でそっと箱を置く。中身は目玉だった。真っ赤な虹彩の目玉だ。


 嘴馬は海堂の意図を識る。

 この眼球、そしてあの液体には、屍者をも甦らせる力があるということだろう。



 この世界には、未だ拭い去れない夜が根を下ろしている。

 科学では解明できない神秘が傍に息づく。


 一人の少女を救うために、禁忌を犯して神秘を移植するか? という大きな問題に、目玉が何かを知らぬ者たちも、青い医者たちも、一切迷うことをしなかった。


 緋色の液体を受け取った麻酔科医は迷わず流した。

 ライン全開で流れてゆく、この世ならざる緋色が少女の体内へ送り込まれる。バイタルモニターは未だ『0』の数字を示し、無慈悲な死はそこで息づいている。


 だが。



「……嘘だろ」



 拍動が再開した。ドクン、ドクン、とゆっくりではあるが、間違いなく拍動している。

 嘴馬は己の目を疑った。だが同時に誰もが奇跡だと口々に、これなら助かると歓喜の声を上げている。


 確かに奇跡だ。

 このとき誰一人、この先に巻き起こる厄災になど、意識は向いていなかった。


 海堂が穿たれた右目の眼窩に真っ赤な目玉が留置する。既にバイタルは正常値まで回復していた。

 何が起きているのか誰も理解できていなかったが、間違いなく少女は助かったのだ──ベテランの外科医が良かった、と息を吐きだして閉腹作業の手を止め、嘴馬と交代する。



「ぇう」



 突如嘴馬の視界が真っ赤に染まった。真横で外科医がメスで自分の首を掻き切っている。頸動脈から噴き出した血液が彼の顔にかかったのだ。

 麻酔科医も自分に致死量の筋弛緩剤が入ったシリンジを刺していた。彼は床に転げ落ち、倒れて動かなくなる。


「な……、何が。一体何が起きてんだ? 何が、おい、霧雨」

「私は、ただ救いたかっただけだ。何故──何故? ど、どうしてこんなことに――」


 後ろにいた外科医がメスを手に取り、彼は喉へためらいなく突き刺した。天井まで一気に血液が噴き出す。


「き、君! 外へ出るぞ!」


 我に返ったもう一人が、へたりこんだ看護師の腕を掴み上げる。彼女は完全に腰が抜けていたが、引きずられるように外へ出た。

 誰もがその声に意識を現実へ引き戻し、異常なことが起きていると悟る。



「う、うわあああぁあ!!」



 研修医の一人が手術室の外へ出ようと駆けだす。狂乱が伝播する。



「『 』」



 聲が、あった。


 脳髄をぶん殴るような鮮烈さと、聞かずにはいられない強烈な響きを湛えた声があった。嘴馬は恐怖に顔を歪めたまま、少女を見遣る。



「つばき」



 お前なのか? まだそこにいるのか?



 聲は徐々に形を帯びる。輪郭を求め、ふわりと彷徨う。

 この声を聞いてはいけないという確信があった。嘴馬の視線は手術台で動かぬ少女に固定されたままだった。


 直後、少女の眼が開いた。まだ完全に縫い合わされてはいなかった胸の皮膚が突如網目のように変化し、溶け合うように手術痕をたちどころに消し去った。

 バイタルモニターがエラーを吐き出し始め、ガサガサとカラーノイズで覆われてぶつりと消える。


 あり得ない。気管挿管され、筋弛緩剤と全身麻酔が投与されている。

 指先を僅かに動かす事さえ叶わないはずだ。だが少女は自分の腕を動かし、極めて乱暴にカニューレを喉から引き抜いた。



 そして浮き上がるように──いや、浮き上がった。頭の上に輝く冠を抱いて。


 天使の輪のようなものが、二つ彼女の頭上で浮いている。

 そしてつま先から全身を染め上げるように、皮膚が黒曜石のような黒へ変ずる。耳が覆われるように白い羽が生え、項からも一対の羽が生える。


 海堂と嘴馬は呆然とそれを見つめた。


 目の前で何が起こっているのか、二人は漸く理解した。


 私たちは神秘を受肉させてしまった。

 これから起きる暴虐を、赦さなければならなくなった。



「『答えろ』」

「……ッ、あ、」



 重圧で胸が押しつぶされそうになる。嘴馬は片膝をついてそれを見上げた。



「『私を呼び醒まし、奇跡を求めた愚かな葦はどれだ』」

「わ、私だ!」


 海堂が床に這いつくばりながら叫んだ。

 それは海堂に一瞥もくれず、ただ嘴馬を見ている。


「『陸へ連なる人間よ』」

「お前ッ、……つばきに何をした!?」

「『イアルの野へ渡れぬバーを円環へ戻すには、足りぬ。捧げよ』」

「足りない…………?」


 ふと、死んでいる三人へ目がいった。

 沖田つばきという少女を救うための、命の数が足りないというのなら、この場にいる人間を殺害する以外の選択肢が無い。


 嘴馬は気づく。この神秘は俺を試していると。

 返答如何では全員死ぬ。全員救う方法は恐らく存在しないだろう。海堂も同じことに気付いていた。



「俺たちを使え。それでどうだ」

「『気に入った。──ではお前たちだけを残し、他の者を供物としよう』」



 何が起きたのか、そこからはもう覚えていない。

 それでも、耳の奥で響く声が生々しく残っている。



「『 ころして 』」



 という、少女の声が。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る