第1話 形代姫は夫から見向きもされない
京は五条の裏通りに、
堀川沿いの材木置き場からほど近いところで、男たちが大声を交わしながら動き回っているのがよく聞こえてくる。八坂神社ゆかりの材木商人や職人やそれらの下働きだとかで、彼らの喧騒を目覚まし代わりに朝を迎えるのが鞠子の日常だった。
「今朝はずいぶんとイライラなさっているわね。もう
屋敷を囲う生垣の向こうで飛び交う怒号や罵声を耳にして、鞠子は呟いた。
雨で川が荒れると木を運べなくなる。穏やかな天気が続いているうちに片付けてしまわないといけないから、〆切りがせまる今の時期には男たちが殺気立ってくるのだ。
「ひぃ様、あのような下品な言葉で季節を感じるものではありません」
背後の乳母が咎めるように言った。
鞠子の長い黒髪を梳かしていた櫛に力が入り、鋭い痛みで頭皮が引き攣る。
「妻としての自覚を持ってくださいませ。今朝は神祇伯様から贈り物が届いたばかりなのですから、気の利いたお礼を申し上げて関心を引かなくては」
「……妻って言っても、十六番目のミソッカスだし」
「ひぃ様!」
うっかり余計なことを言って、お説教が始まってしまった。「そんなだから殿様のお渡りがないのです」だとか「六条の誰々はひぃ様と違って云々」だとか、どす黒い空気を纏った乳母のお小言が降り注ぐ。
鞠子は当代神祇伯である
神祇伯とは神職を監督する『神祇官』の長官である。
木場の近所に住まうような下級貴族の娘にとっては、かなり上等な結婚相手。ただし、向こうからすれば現在二十人近くもいる妾の末席でしかない。裳着からほどなくして娶られて数カ月ほどは鞠子の家に通ってきたものだが、その後はとんと音沙汰がないまま月日ばかりが流れてしまった。
今となっては、義務的に届けられる贈り物によって辛うじて離縁されていないことを確認するだけの関係である。身分も年齢もずっと上の男性なんて寵愛されても恐れ多いので、疎遠でもなんら不満はないというのが本音なのだが、鞠子を除いた家の者は意見が異なるらしい。
「このままでなるものですか! ねぇひぃ様。神祇伯の妻という特別なお役目に誰よりも相応しいのは、天賦の才に恵まれたひぃ様なのだと証明してみせましょう」
お説教と髪の手入れを一通り終えた乳母が、拳を握り締めて吼え猛った。
「そして今度こそ殿様の寵愛を……」と意気軒昂なところに、「別に今のままでもいい」などと失言してひどい目に遭うのは経験済みなので注意深く口をつぐんでおく。
どちらにしろ、贈り物の返礼をしなければならないことに変わりはないのだし。
「では、朝のうちに済ませてしまうから、道具をお願いできる?」
「その意気でございます!」
従順な姿勢で頼むと、乳母は鼻息も荒く立ち上がって去っていき、漆塗りの小箱を大事そうに抱えて戻ってきた。
艶やかに輝く漆黒に、赤い紐で封をした一目で上物とわかる箱である。
鞠子は居住まいを正し、深呼吸して心を落ち着けてから小箱の封を解いた。
中に入っているのは黒い鉄のハサミと、白くて薄い高級な紙の束だ。
「――、――――」
鞠子は紙を一枚取ると、口の中で呪を唱えながら人の形になるように折り曲げる。
折り紙の人形ができあがったら、次は櫛を当てたばかりの長い長い黒髪から一本だけを選り分けて、ハサミを使って切り取ると、紙人形にたすき掛けの要領で巻きつけていく。紙の形を崩さず、しかし緩むことはないようにキツく三重に巻いてから結んで固定し、長さの余った毛先で指二本分ほどの輪っかを作ったら完成だ。
「こんなものかしら?」
「私がお試しいたしましょう」
出来栄えに小首を傾げると、乳母が横から紙人形を取り上げた。
毛先の輪っかに指を通し、少し待つ。
すると――じわり。
真っ白だった紙が、薄墨でも垂らしたみたいに黒ずんだ。
その代わりに、乳母の肩からどす黒い気配が消失し、吊り上がっていたまなじりが穏やかになる。
「まあ、心を淀ませていたものが欠片も残らず……。流石はひぃ様、『形代』の術に関しては非の打ちどころがありませんね」
形代。
人の心身にこびりついた『穢れ』を移し替える術で、これを用いて制作した紙人形を鞠子の夫は贈り物と引き換えに所望していた。
職務上、穢れと隣り合わせだからだろう。
たとえば都の外から結界をすり抜けて悪霊が入ってきたり、内部で呪詛が行われたりした場合、先頭に立って対処するのが神職の役目だ。なかでも神祇伯は、その長である。担当するのは特に重要だったり深刻だったりする事柄であり、あまりに大きな穢れを祓い清めようとすれば、こちらも相応の汚染を受ける危険があった。
穢れを負えば、体は弱り心は荒む。
形代の術はそんな苦痛の元を簡単に取り除いてくれるので、大変に重宝されるのだ。
鞠子が身分の低さや、うりざね顔の美人とは程遠い痩せ型なのを差し置いて、神祇伯の妻に加えられたのは形代の才に恵まれたからなのだった。
「これなら神祇伯様もお喜びくださるわね。同じ物を作ってお届けしましょう」
鞠子は満足して、もう一度紙人形の製作に取りかかる。
ものの流れではあったが、穢れを吸ったおかげで乳母の精神はすっかり落ち着いたようだ。これでしばらくは叱られることも減るだろう、とひそかに胸を撫で下ろしたものだが、安息もつかの間。
「お待ちください、ひぃ様。まさか形代だけをお贈りになるつもりではございませんね? 形代なんて他の女たちも贈っています。品質が良いだけでは埋もれてしまって記憶に残りません。ここはお礼もかねて、文も書きましょう」
「文ですか? えっと、じゃあ……お、贈り物は日々の暮らしの糧にさせていただいています、と」
「なんですか俗っぽい! 生活感あふれる話なんかしたら愛想を尽かされてしまいます。高貴な男性というのは、雅な和歌を詠める姫君をお好みになるのです!」
再び熱を帯びる乳母に叱咤されて、鞠子は泣く泣く筆を取ることとなった。
これが日常。
夫から無視も同然に扱われ、唯一求められる役割は形代のみ。家族はもっともっとを望んでいるようだが、鞠子本人には自信も乗り気もない。もう何年も続いていることで、今後も変わることのないまま年を重ねていくのだと思っていた。
しかしそれは、このすぐ後に崩されることになる。
突然に神祇伯から届けられた手紙に鞠子は、多大な労力の末に完成させた和歌もろとも形代人形を驚きのあまり握り潰してしまった。
手紙の内容は、こうだ。
『正妻の娘の身代わりとして、”石清水の狼”へと嫁入りせよ』
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