最終話 寄り添う心

 館の奥、冷えた石床の上。崩れた人骨の欠片が静かに散らばっていた。棺桶の傍でその痕跡をじっと見つめるカレンの横顔は、どこか切なげで、しかしどこか安堵も感じさせていた。


 その人骨――かつて彼女を封印したクリスの亡骸。あの日、封印の呪文を唱えたあと、彼は声すらかけられず、ただ傍らに寄り添いながら命尽きるまでそこにいたのだろう。アレックスは、自然とそう思わずにはいられなかった。


 静寂が降りるその空間の中で、アレックスはふと視線を落とし、深く呼吸した。そして、目の前の吸血鬼――いや、目の前にいる一人の“女性”に、ゆっくりと思いを口にした。


「……俺は、クリスじゃない。君と過ごした日々も、まだほんの短い時間だ。でも……それでも、彼に言われた通り――いや、それ以上に、自分の意思として……君を、幸せにしたいって思ってる。」


 その声に、カレンの肩がわずかに揺れた。目を見開いた彼女は、短く息を呑む。だがアレックスは気づかず、まっすぐに語り続けた。


「正直なところ、最初はただの興味だった。でも……クリスと、君の想いに触れて……そして、君の今の姿を見て……もう他人事じゃないと思ったんだ。」


 彼の言葉は澄んでいて、飾り気がなかった。それは、200年の時を越えて届いた、もう一つの誠意だった。


「俺は、彼と君の過去に残された無念を、少しでも癒したい。そして、君の心に……もう一度、光を取り戻してほしい。今すぐ友達になってほしいとか、恋人になってほしいとか、そんなことは言わない。ただ……君のそばにいさせてほしいんだ。」


 言い終えたアレックスは、静かに口を閉じ、彼女の返事を待った。鼓動が耳に響く。だが、焦りはなかった。


 カレンはその言葉に戸惑いながらも、ゆっくりと視線を上げ、アレックスの顔を見た。その目には迷いもあったが、どこか優しさも宿っていた。


「……お前が、そこまで……私のことを考えてくれているとは思わなかった。」


 かすれた声に、アレックスは小さく笑みを浮かべた。拒絶ではない。むしろ、それは確かな第一歩だった。


 カレンはふと目を伏せる。まるで、自分の中の言葉を探しているようだった。


「私は……長い間、誰も信じられなかった。人間のことも、そしてクリスのことも……今でも、完全に許せたとは言えない。」


 そこには、200年という歳月の重みがあった。痛みも、裏切りも、彼女の中でずっと凝り固まっていた。


「でも……あの時、彼がどれだけ苦しんでいたか……少しだけ、分かる気がする。」


 その声は、かつてないほど穏やかだった。そして、ほんの短い沈黙ののち、カレンは言った。


「それでも、私が再び人間を信じられるようになるかは……分からない。」


 アレックスは、ただ頷いた。彼女の不安も、躊躇いも、理解していた。無理に進ませることなどしない。彼が差し出すのは、強引な救いではなく、ただ“そばにいる”ことだった。


「それでいい。信じるかどうかも、これからどう生きるかも、全部君の自由だよ。……でも、もし俺がそばにいることで、少しでも心が軽くなるなら、それで十分なんだ。」


 その言葉に、カレンは初めて微かに笑った気がした。ごくごく小さな、それでも確かな変化。長い封印の時を経て、彼女の中に初めて差し込んだ灯火のようだった。


「……今は、友人や恋人にはなれない。でも……お前の言う通り、もし本当に……私の心に、また光を取り戻すことができたなら……」


 彼女は一瞬だけ視線を逸らし、それから恥ずかしそうに小さく呟いた。


「その時は……また、考えよう。」


 その言葉に、アレックスは静かに目を細めた。温かな安堵が胸に広がる。彼は何も答えず、ただゆっくりと頷いた。


 森の向こうでは月が昇り始め、木々の隙間から差し込む光が、館の冷たい石床にやわらかく降り注いだ。その光の中で、アレックスとカレンは言葉もなく向かい合っていたが、そこに流れる空気はどこか穏やかだった。


 こうして、アレックスとカレンの新たな関係が静かに始まった。

 信頼も、絆も、すぐには築けない。過去の傷が癒えるには時間が必要だろう。


 だが、確かなのは――カレンの時間が、再び動き出したということ。そして、その傍には、過去の亡霊ではなく、今という時を生きるアレックスがいた。


 凍りついていた心に、わずかずつ光が差し込むように。

 彼女の世界は、ゆっくりと、確かに変わり始めていた。

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館に潜む闇の影 飯田沢うま男 @beaf_takai

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