第13話 ラスト・ステージ

 レンリは急いた様子で左手のうちわを振ったが、風は講堂の内側で回るのみ。

 外界と隔離されている。


「ゲームオーバー……か」言って、はあぁ、と息を震わせた。


 ここはもう誰かの手のひらの上。

 逃れられない。


「なっ……」ユワはミチルの言葉を理解すると、見る見る間に顔を青くしていった。「そんな、そんなのズル──」

「ゲームの枠組みだとか、ルールだとか、そんなものは圧倒的な実力差の前では意味を為しません」ミチルはカツ、カツとローファーを鳴らして舞台の中央へ歩いてくる。その分、レンリは舞台奥の方に押しやられた。「シラベちゃんは言わないでしょうけれど。この二人は二人で勝とうとしている。ならば箝口かんこうは叶わない。けれどわたくしは新人戦に出場しなければなりません」


 ミチルが右手をくるりと優雅に回すと、その手に飾り紐が握られた。金色で、透き通った、メルヘンな編み紐。ミチルはそれで自分の髪の毛を結ぶ。ふわふわもこもことしていた毛髪がきゅっと一つに纏められた。

 彼女はずっとフレアクトしており、同時に、自分はフレアクトしていないと偽装していたのである。


「そうとなれば、もう、殺すしかない」そうして、シラベに目を向ける。「そうでしょう?」


 シラベは息を抜いて微笑んだ。


「ううん。仕方ない殺人なんてないよ、ミチルちゃん」

「あらあら、困りましたわね」


 ミチルは口元を隠しつつ、どういたしましょうか、と言う感じでそっぽを向いた。ポニーテールが揺れる。初めて見る耳には、蓮の花のピアスが留められていた。


「私は私の目の前で起こる殺人をぜんぶ止めるんだから」

「貴方を助けたのはわたくしなのに?」

「ミチルちゃんに助けられたからこそ、なんじゃない?」

「貴方が庇っているのが殺人鬼だとしても?」


「私はそんなこと知らない、だって見てないから。なんならちょっと好きなくらいだね。二人で勝つためにここまでするだなんて凄くない?」

「あなたのフレアクトを使えばその過去を見ることもできるのでは?」

「それならそれで、私がその罪を裁いてあげる。私が赦せばどんな過去も帳消しなんだ」

「ふふ、なんて傲慢さ。誰の影響なのでしょう」


 傲慢。

 フブにも言われた言葉だ。


 ──私って、傲慢?

 そうか。確かに、傲慢っちゃあ傲慢なのかも。もう閻魔様気取りだもんね。

 誰の影響って言ったら──。





『もちろんシラベも可愛いけど、ね』

『並』

『実際のところ、ボクはボクよりもシラベさんの方が可愛いと思いますし──シラベさんも自信を持ってください』

『ほんと、自分って、ほら、こんなふつうの人間だからさ。君たちの方が可愛いし……』

『ありがとうございます。貴方も、素敵な前髪ですわね』





 ──みんなのせいだ!


「おかげさまで!」シラベはふふんと頬を上げる。「私ったら可愛いらしいから? 思い上がるのも当然なんだよね!」


 シラベはレンリに目を向ける。


「レンリさん──いや──レンリちゃんも! 自分が可愛いって自信があるんでしょ?」

「え?」レンリはポカンと虚を突かれた様子。「あっ、うん。アタシが一番可愛いね、ダントツで」

「なら勝てるよ、絶対! 私と一緒に戦おう!」


 シラベは言いつつ、あれ、共闘もこれはこれで主人公っぽいかもな、と思った。


「いや勝てないとは思うけど」

「ええっ!?」

「いや、でも……」レンリは少しだけ眉根を寄せた。訝しむわけではなく、少し考える様子で。「『負けない』なら、できる気がする。どうしたらいいかは分からないけど……」


 レンリは舞台の反対側、桃色髪の女の子を見た。


「ユワ、アタシたちはどうしたらいい?」

「えっユワに振るの!?」ユワはガクッと一歩下がる。

「もちろん、ユワはアタシのブレーンなんだから。アタシたちがここを生き残るには、どうしたらいいかな」

「ユワなんて死んでも──」

「……言い方を変えるよ」レンリはふっと視線を冷たくする。「つべこべ言わず頭を回せよ、愚図」

「──!!?」ユワは愕然として鼻血。


 ミチルはそれぞれに順に目を回していって、話が纏まるのを待っている。相変わらず余裕なんだよな、とシラベは思った。そして——その余裕を剥がせるかもしれないという事実に、少し興奮してきた。

 ミチルちゃんは焦るとどんな表情をするんだろう。


「逃げっ……るんじゃ、なくて!」必死に考えていた様子のユワは、すぐにハッと顔を上げる。「勝負を降りればいい! シラベさんにメルヘンしてもらうんだ! 新人戦は諦める形になるけど……でも、生き延びることはできる!」

「それはいけませんね」とミチル。「あなた方が五月以降になってからわたくしの秘密を暴露して陥れようとする可能性はあるでしょう。シラベちゃんのメルヘンに逃げ込まれてしまうと、わたくしはあなた方を殺すために、シラベちゃんをも殺さなければならなくなります」

「その必要はない」ユワはごくりと喉を鳴らす。「ユワたちもこの場でフレアクトする。そうしたら校則違反は共犯でしょ。秘密は相互のものになる」

「……妙策と認めましょう」ミチルは目を細める。「それが可能ならば」

「そ、そう、なんだ」ユワの右手の中に懐中時計が現れた。ユワはその時計に語りかける。「ミュゼ、ユワとの再契約までは、あとどれくらいかかる?」


 時計版の針が回る。ユワはその動きを見て、一つ深呼吸をし、改めて顔を上げた。


「──十五分」レンリに、そしてシラベに目を向ける。「ユワが再契約してフレアクトできるようになるまで、最短でも十五分はかかる」

「いいね、丸一日とかじゃなかっただけ上出来だ」レンリはミチルに右腕を緩く伸ばして尋ねた。「たったの十五分、待ってくれないかな?」

「まさか。どうせわたくしたちは殺し合う関係なのですから」ミチルはクスクスと笑う。「けれどその後ならば、そうですわね、見逃して差し上げたって構いません」

「じゃあこれでいこう、アタシたち二人は新人戦を諦める」


 レンリが拳銃を手放せば、ガランと重い音がステージを揺らした。


「謝罪させてほしい」レンリはシラベに目を向けると、気まずそうに笑った。「騙してごめん。その上で、厚かましいとは分かっているけど……お願いも、させてほしい」


 そうしてレンリは、手を前に揃え──頭を下げた。


「アタシたちを助けてください」


 新人戦選抜試験。開始から十四日。一年五組残存四名が一堂に介する舞台。

 これが最後の対決。

 その中心に立つ人間がいたならば、その者こそが主人公だろう。


「うん、分かった」


 ではシラベは満足したのか。

 否。

 内心ではかなり興奮している。けれど、まだ満ち足りてはいない。

 理由は明白だ。なにせシラベは最初からそのつもりなのである。


「でもねレンリちゃん、頭を下げなくていいよ。もっと胸を張って」


 ミチルは彼女の秘密さえ守られるならば、二人がシラベのメルヘンに逃がれることを許すと言う。

 しかしそれが叶うのは十五分後。

 それまで耐えればいいだけ。


「自信を持って。偉そうにしよう」


 耐えるだけ?

 そんなの全然、主人公じゃなくない?


「私たちは、世界で一番可愛いメルドルなんだから!」


 シラベは口を開けて笑い、剣を高く掲げた。


「自分こそが『最強』だって信じてるんだから!」


 力強く振り下ろせば、シラベの周囲に六体のふれどーるが現れる。


「自分の勝利を疑わない! 相手が誰であろうとも!」


 蒸気機関車、ウスバカゲロウ、綿毛、くるみ割り人形、軍服の猫、蜘蛛。

 カザン・トドロ、キレイ・ヒエン、セキララ・ホタル、タイチ・カジカ、ヒネモス・メイジ、そして、ハチカヅキ・フブ——一年五組の最終メンバー全員が契約を破棄し、シラベの勝利を託したふれどーるたち。

 願いには応じて援けるのがふれどーるだ。


「ぶっ飛ばしちゃってもいいわけでしょ!? 百万年は固いなあ!」シラベは半分の好奇心と半分の熱狂でもってミチルに笑いかけた。「ごめんねミチルちゃん! 私、ミチルちゃんを私の幻想メルヘンに堕としたくなっちゃったから! 私を助けたこと、後悔したって遅いからね!」

「身の程知らずに現実を教えてあげましょう」ミチルもやはり楽しげに。「正しい頭の垂れ方を!」


 ミチルは初めて、口を開けて笑った。


「〝天威を示せ〟!」





 膝を降り、頭を垂れずには居られない。

 星の引く力ではない。

 肌が粟立つ。冷たい硝子を飲まされるような。

 押しつぶさんばかりの威圧に。

 地平線まで柱がそびえ並ぶ霊廟は、風をもってしても広大に過ぎ、寂しい音を溶かすことしか許さなかった。

 幾千幾万の柱の彼方、空の向こうでは光が湖のように揺蕩っている。

 視線を落として、雲の絡む足元に目を向ければ──。

 花が彫られている。

 花が彫られている。

 花が彫られている。

 どこまでも連なって。

 どこまでも。

 石版の床には、見渡すかぎりの花と蔓の文様が描かれていた。


「形無く、しかし光はそこに在り」


 シラベは直感で理解した。これこそが彼女のメルヘンだ。

 花と化した者たちは、みな、この重さに耐えきれず。

 押し。潰れ。

 礎となったのである。

 十万までの犠牲を一様に押し固めた遥かな地平。


「そこに在り、しかし掴めど掴めずに」


 光の湖から一雫垂れ落ちる。幾重の光臨を残し、稲妻のように、硬い石舞台を震わせて、雲を吹き飛ばす。

 そこに神獣が顕現した。


「ゆえに何者も」


 軽く柔らかく、空気だけを押し返す布地──透き通る羽衣。

 袖に金の鱗。腰に純白の結び。金の雲を纏う。

 燐光を帯びた尾、枝のように分かれた一対の角。


「ただ、空を握るのです」


 身体を飲み込まんばかりだったウェーブの白髪は一つに結ばれて、たてがみの如く、泳ぐように波打っていた。

 金の瞳が開かれる。


「跪いて、祈るのです」


 真の神々しさとは崇拝の及ぶものではない。焼けるような尊さだ。敬うよりも先に壊れる。晒されたが最後、自身の矮小さと限りの無い奥行きの差に圧し潰される。

 一秒たりともこんなところには居られない。今すぐ背を向けて逃げ出したい。頭を垂れて泣き伏せたい。そうでなければ死んだ方が楽になる。

 ならば、それでもなお、立っている彼女たちは。


「「〝アクション〟」」


 更に上を見ている。


「〝死を悼んで〟」

「〝祭り囃子に誘われて〟」


 目指すべき地点は、いずれ飛び越す光は、もっともっと上空にある。

 山の上の、雲の上の、空の上の、月の光を目指すならば。

 月をも撃ち落とすつもりならば。

 この程度は超えていかなければならない。


「風は常に、上から下へ。ならば我が汝の上に立つ」今回の鴉天狗は浴衣ではなく天狗らしい山伏衣装を纏っていた。「せいぜい見上げて憧れたまえ、我が翼の羽ばたきを」

「えっ」黒金のドレスに換装したところのシラベは驚いて隣を見る。「口上かっこいいね」

「ん? ああ、ありがとう」レンリは微笑みを返す。「シラベもやってみる?」

「やる!」


 ミチルを見据えて剣を振り、マントを翻した。


「審理の時間だ。犯した罪を数えるといい。見繕ってやろう、貴様に相応しい刑罰を」

「いいね」レンリはうんうんと頷いている。「唆る」

「ね、良いでしょ! 実は前からちょっと考えてきてて——」

「バカ言ってないでよ二人とも……」


 レンリと共に振り返れば後ろにはユワが居る。二人に右手の懐中時計を見せつつ。


「一週間溜めたからミュゼは合計七秒操れる。二人とも、ユワの指示には従ってよね」

「了解」

「よく分かんないけど了解!」

「じゃあ行こう。本物のメルドルに……十五分、耐えきるんだ」

「アタシたちだって本物だけどね」

「耐えるんじゃなくて勝つよ!」

「頑張ってくれるならなんでもいいけどさぁ……!」


 不意にゴロゴロと雷鳴。見上げれば黒雲。


「神を騙る不届き者に、諭す言葉はありません」


 ミチルは開いた扇を振り上げた。


「跪きなさい!」


 シラベが身構えるより先に——。


「思いっきり後退!」


 ——というユワの声が聞こえ、ほとんど同時にシラベの顔面に緑色のうちわが当てられた。


「むうっ──」


 次の瞬間にはもう凄まじいスピードで後退していた。水平に伸びる視界の中央で、幾重もの光線が天空から降り続けている。レーザー光線を上から下へ乱れ撃っているかのよう。

 ふわっ——と風が勢いを殺してシラベを優しく着地させた。シラベは一秒足らずのうちにざっと一キロは後退していた。まだまだ石舞台は果てしなくなく広がっている。


「我は風より早く」カカンッと下駄を鳴らすのはレンリ。黒と赤の翼を大きく羽ばたかせつつ。「風は我の後を追う……と」


 シラベは自分に何が起こったのかを遅れて理解した。ユワの後退の指示を受けてすぐに、レンリが三人とも「神隠し」したようだ。体感して分かったが、あくまで超高速の物理的移動である。


「あの雷に当たったら一発でメルヘンだ」ユワの懐中時計からカチッと針の回る音がする。「みんな蒸発しちゃってたよ」

「わーお、アタシ、可愛かった?」

「可愛かったけど……」ユワは涙ぐむ。「死んじゃった」

「焼死体でも可愛いだなんて、流石のアタシだね」レンリは前髪を指でなぞる。


「えっと」シラベは黒地に金糸のスカートを揺らしつつ、すぐ傍にいるユワに目を向けた。「ユワちゃんが何かしたんだよね?」

「あ、うん」ユワは頷いて、右手に握った懐中時計をシラベに見せた。「ミュゼは時間を止めるか、巻き戻すか、先読みできる。もうあと五秒だけだけどね。さっきのは当たったら即死だから未来を見てなきゃ危なかった」

「なるほど……」シラベはえっと目を上げる。「じゃあ私たち、今の一瞬で負けてたかもしれないんだ」

「驚き、だね」レンリは相変わらず軽い調子で微笑んでいる。


「だから勝てる相手じゃないんだってば!」ユワは突っ込みつつ、いててと顔を歪めて、三角巾の中の左腕を労った。

「そんな凄い相手に──勝てちゃうんだ、私たち」シラベは自分の手に握った金の剣を見た。剣が頷くのがシラベには分かる。「うん、これ、私とレンリちゃんだけで勝てるよ」

「何か策があるの?」とユワ。

「単純に」シラベの影が自ずからゆらりと蠢く。「私のフレアクトって、一撃必殺だから」


 三人の頭上にはもう次の雷雲が渦巻いていた。周辺一帯を焼き払う──もはや雷と呼んでいいのかも分からない──なだれる光の奔流が。ゴロゴロと鳴るたび際限なく装填されていく。


「ミチルちゃんに私の影を踏ませることができれば勝てるはず!」

「『そういうの』だとしても、この実力差で通用するのかなぁ」

「試す価値はあるね」


 三人の周囲につむじ風が踊り舞う。


「いいとも、運んであげようじゃないか」レンリは右手を天狗の面にかけて、薄く微笑んだ。「君の剣を──」


 三人の頭上から雷の束が落ちるのと、ほとんど同時に。

 無色透明の砲弾がミチルを貫通した。鋭利でも重厚でもない——なにせただの風だ。早すぎるだけの三つの塊が、ミチルのほんのすぐ傍を通過した。


「──ここまで」


 ミチルが驚いて振り返った先にシラベたち三人はいる。レンリはうちわを持つ左腕を伸ばし優雅に、対してシラベは右手の剣を横に広く構えて凛々しく。ユワはあわわと時計を手放しそうになりつつ——それぞれ、にわかに浮かんでいる。


 ──ミチルちゃんが驚いた!


 強風に浮かぶポニーテール。その向こうから覗いたミチルの横顔は、確かに驚いていた。

 だがまだ驚いただけ。

 もっと──もっと!


「私のメルヘンは、もう!」


 メルドル失格ってくらいに見苦しい顔を暴き出してやりたい!


「貴様の影に侵入した!」


 ミチルの足元、影の中から、輪郭の不明瞭な黒い尺取り虫がぞわぞわと湧き上がる。


「それでも」ミチルは羽衣を波打たせて扇を振る。「わたくしがあなたを殺す方が早い」


 落雷。空気を切り裂く亜光速。爆発的な熱量の一閃。

 光線はシラベたち三人をもろとも貫いたはず。


「なぜ──」


 だというのに、シラベの影は止まる気配なく、ずるずると体表を這いミチルを飲み込んでいった。


「──いえ、そのトンボ」


 ミチルはようやくシラベたちの実像を捉えた。

 先ほどミチルが話しかけたよりも、ずっと遠くにいる、三人の姿を。


「即興だけど」シラベは左手の三股の燭台をふわりと放り投げる。「上手くいったね、ウスバネ!」


 宙に浮く燭台は、ポンっとメルヘンな煙を放つとともに、トンボ改めカゲロウのふれどーるに変身した。彼こそがミチルに幻覚を見せていた真夏のメルヘン。


「シラベの影は効いたみたいだね」とレンリ。

「じゃあこれで勝ちだー!」

「まだ勝ってない!」ユワの声はまだまだ鬼気迫っている。「十万超えのメルドルのフレアクトが、一つなわけないんだから!」


 影に全身を飲まれつつ、ミチルは呟いた。


「〝アンコール〟」





 シラベは見た。そのイメージを。

 陰陽の白黒を背景に、中央に浮かぶ黄色い宝玉を。

 影に淀んで黒く染まる。

 しかし。

 輝く宝玉は、四方にそれぞれ一つずつ──まだ四つあった。

 選ばれたのは左側の白い玉。





「〝爪と牙でもって〟」


 ミチルは脱ぎ捨てた。その身に纏った幻想を。

 彼女の身体に根を張っていた石舞台ごと、もろとも引き剥がす。シラベの影は抜け殻だけを貪った。上のレイヤーだけをくしゃくしゃと食い尽くして——。

 次のステージへ。


「わっ……!?」


 耳元をなぞる風。浮遊感と爽快感。冷たく澄んだ空気が肺を清々しく満たす。身体が芯から解けていくような心地良さ。

 シラベが飛び込んだのは遥か、遥かな空である。


「わあー!?」楽しさと恐怖が八対二。


 もちーっと。伸縮性のある蜘蛛の糸がシラベを受け止めた。


「おっ……マリア、ありがとう」


 蜘蛛の巣の端はそれぞれ浮遊した岩塊に結ばれていた。上下左右を見れば、天井と底のない、空のようで空でない空間に、分厚い岩塊が無数に浮かんでいる。平らな上面の文様を見るに先ほどの舞台の一部らしい。その一つに、レンリが一本下駄で着地するのを見つけることもできた。


「きゃあ──!」


 ユワはと言えば手足をジタバタさせている。しかし自由落下への抵抗はもちろん叶わず、そのままシラベに被さる形でマリアの巣に降ってきた。抱き合う形。


「うっ、死……」


 シラベはフレアクトしているのでまだ平気だが、ユワは生身。口から唾だかなんだかが漏れ出てきた。


「十階分くらいは落ちてきてたね……」

「死んじゃうぅ……」


 ユワはひえーんとシラベの胸に泣きついた。シラベはよしよしと背を撫でる。まだ元気そうだ。

 折に、ユワに続けてもう一つ、ふらふらと落ちてくるのに気付いた。


「あれ──」


 昆虫のふれどーるが、力無く羽ばたきもせず、落ちてきている。


「──ウスバネ!?」


 シラベはユワを脇に放って、もう固くなった蜘蛛の巣の上で体を起こし、手を伸ばしてウスバネを受け止めた。透き通る青い羽の一枚に、大きな丸い穴が開いている。


「大丈夫!?」


 ウスバネは返事代わりに弱々しく羽を揺らした。それからすっと姿を消す。


「うん、休んで……」シラベは優しく語りかけてから、今度は不満を露わに見上げた。「ふれどーるを狙うなんて酷くない?」


 三人を見下ろす高さの岩塊に、重力を無視して横向きに立っている、このフレアクトの支配者を。


「いけませんね、余所見だなんて。預かった大事なふれどーるなのでしょう?」


 鹿のような角は引っ込めた。髪の毛は今は白めいて、細長い虎の尻尾を模している。羽衣もデザインが少し変わって、細く短く、身体のラインが見えるように。


「さあ、わたくしのフレアクトはあと五回」


 風に当てられて輝くのは虎の爪──否──爪のように見える、白光のオーラ。人を十人はまとめて抱き潰せそうな五本の爪が、背中の方から右手の先へ向けて伸びている。爪はひとつひとつが彗星のような軌跡を残しつつ、扇の揺らめきに合わせて、緩やかに前後していた。


「殺し切ってみせなさい、マホロバ・シラベ」


 ミチルは右手とその扇に纏った巨大な爪を引きつつ、半身で三人に振り返った。


「ここに立つ、あなたの敵を」


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