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ぐずぐずになったガリガリくんを棒ごとシンクに落とし、汚れた左手を流水に晒すとぬるかった。この部屋がどれだけ冷えていたって、外は灼熱の夏なのだ。
「いぬいー」
何事もなかったかのように呑気な三崎の声が、背中にぶつかって落ちる。
「なに?」
「右京っていつでてくんの?」
「八巻とかそこらへんちゃう」
背を向けたまま水も止めずに答える。何事もなかったかのように。ていうか別に、何事もなかった。
「全然出てこん」
「じゃあ九巻かな」
水を止めタオルで手を拭き、あー出てきた、と言って九巻を読む三崎の向かいに戻る。私も続きを読む。さっきまでの会話も、会話以上にもの言いたげだった視線の交合も容易く反故にする。ずいぶん遅く、でも確かにぬるまっていくビールを飲みながら。
「やっぱ右京が最高」
「はい?」
「ん?」
「シャンプーやろ?」
「はあ、乾には右京の奥ゆかしさがわからんのかね」
漫画を読みながら。どうでもいい会話をしながら。
「奥ゆかしいか右京?」
「てめえちょい出直してこい」
「ここ私の部屋やねん」
軽口を叩いてからからと笑う。いつだって私たちはこういうことだけは得意だ。
適当に楽しく。
そのなんていうか唯一のスタンスみたいなものを、私と三崎はたぶん同じように懐に隠し持っていて、それを守るためならどんな感情も見殺しにする。仲間との喧騒のなかで掠めてきたいくつもの視線は、その都度死んで生き返らない。
「まあでも、シャンプーはムースを無碍にしすぎっていうのはあるよな」
「ムースいい男やのにな」
「きゃん、わかってますね三崎くん」
「僕ムースになら掘られてもいいな」
「私もー!」
「乾のそういうとこ好きよ」
笑いながら言われて手が止まった。そういうとこってどういうとこ。男の趣味?阿久津はムースに似ても似つかない。ていうか反故はどうした。死守してきたスタンスは。私たちの不文律は。
やっぱり今日の三崎はおかしい、さては本当に雪だるまか。
「三崎」
「ん?」
「三崎ってどこ出身やっけ」
「ミクロネシア」
三崎だ。雪だるまじゃない。ミクロネシアに雪は降らない。
ミクロネシアはオセアニア海洋部に浮かぶ数百の島からなる共和制国家。熱帯雨林気候。国の標語はPeace Unity Liberty。民族の多くは褐色の肌を持つモンゴロイドとオーストラロイドの混血で、それぞれの地域により五十種前後のミクロネシア諸語を、使う。
そうだ、私は調べた。ジブチもコモロもミクロネシアも調べた。聞き慣れないその名前を頭の片隅で呪文のように唱えて覚えて、ひとつひとつ検索した。全部ちゃんと実在する地名だと知って、知ってあのとき私は笑い転げた。ひとりきりこの部屋で。安心したから。
「三崎、なんで今日そんなことばっか言うん」
声が低く掠れる。
「右京のこと?」
「ちゃう」
「なに?ムースのこと?」
こっちも見ずにとぼけ倒す三崎に返す。習ったジャブじゃない、打ったこともない右だ。
「三崎はアホのふりすんの、上手いな」
ようやく漫画から顔をあげた三崎は、意外そうに両眉を少しあげ、それから酷薄な笑みで私を見据えた。
「印象操作やで」
ミットはいつから構えられていたんだろう。
「僕が乾の前で沙耶のこと悪く言うのも阿久津のこと馬鹿にすんのも、こうこうこういう人間は嫌いって話すのも全部、乾に向けた印象操作。ハッパするする言う阿久津とか脚本書く書く言う沙耶と一緒。僕ってこういう男なんですって、乾に植えつけたいがために言ってんの」
「意味わからん」
「だからおまえアホのふり下手」
咄嗟に投げつけた漫画が、三崎の頬に当たって落ちた。物を使うなんて反則で、痛かったはずなのに怒りもしない三崎が言う。
「僕は不特定多数はいらんから、乾にしか言わんけどね」
三崎は薄い一重まぶたを伏せ、膝の上の漫画を拾いあげてテーブルに置いた。
私はそれからむきになって、一心不乱にらんまを読み続けた。三崎も黙ってそれに付き合った。テーブルにはらんまの山ともう飲まれないビールの缶だけがある。ときどきトイレに行く以外は粛々と読み続け、でも私は三崎に二十二巻ぶんのセーフティリードがあって、当然先に最終巻まで辿りついてしまう。
悪あがきに本棚から「リアル」をごっそり十五巻取りだして一巻から読みはじめる。それでも三崎は黙って漫画を読んでいる。
なんか言えよ。出ていけ。溶けろ。でも先に黙ったのは私だ。溶けるから入れてと言われて入れたのも私だ。
十三巻を読むころ、耐えきれずにぼろぼろ泣きだしてしまう。そんな私を見て三崎は、躊躇なく私たちのあいだのテーブルに乗った。らんまの山が崩れるのも厭わずテーブルの上、私の正面にしゃがんで顔をのぞきこみ、私の頬に伝う涙を舐める。
けろっとした顔で私の反応を待つ三崎と至近距離で目があって、
「舐めんな」
抗議すると、嗚咽が漏れた。
私の抗議も嗚咽も無視して、三崎がそっと額を重ねてくる。三崎のくるくるの前髪が私の額でぺしゃんとなる。そのままゆっくり唇も重ねられて、またぼろりと涙がでた。
「リアルは泣くよな」
触れるだけで唇を離した三崎が、慰めるように言う。慰めるくらいなら、と私は思う。慰めるくらいなら。でも続かない。
普段は絶対ひとりで来たりしない三崎を部屋に入れたのは私だ。
車でふたりきりカラオケでふたりきりラブホでふたりきり、自分で開けて自分で閉めたドアのなかの部屋でふたりきり、そんなつもりなかった、なんて今時中学生の処女でも言わない。わかっていたのに。
「十三巻まで読んで泣かへんやつなんて、死ねばいい」
震える声で言うと、三崎は見たこともない顔で微笑んだ。この微笑みのために神様は好判断を下して三崎のまぶたを薄く綺麗な一重にしたんだ。そう思った。都合のいい神だ。
なにが悲しいのかこぼれ続ける涙を、三崎は慈しむように何度も舐めた。まぶたも舐められて首をよじるとそのまま首を舐められ、ピアスごと耳朶を齧られたあとゆっくり視線があう。
掠めては見殺しにしたすべてが息を吹き返そうと騒ぎだすから、蓋をするように私たちは深くキスをした。
「べろ出して」
テーブルから降りて私に跨る三崎が言う。羽織るもん貸して、そう言った数時間前のもう戻ってこない三崎を思い出しながら舌を出す。親指と人差し指で乱暴に舌を掴んだ三崎は、子どものように顔をほころばせて言った。
「青い」
涙がでる。悔しい悲しい、全部戻したい。ひとりで呑気にガリガリくんを舐めていたところに時間を戻して、三崎を突き返したい。三崎は雪だるまなんかじゃない。人だ。男だ。
適当に楽しく。私たちが唯一同じであれた不文律。でもリアルを十三巻まで読んで泣かへんやつなんて死ねばいい。
私はこういう人間だと、三崎に知ってほしくて言ったことを三崎はわかっているだろうか。
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