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「おおー、涼しい。つかちょ、寒ない?」

「雪だるまにはちょうどくらい」

「雪だるま?飼ってんの?」


三崎は足にひっかかっているだけのサンダルをぽろりと脱ぎ捨て、躊躇なく部屋に入ってくる。


「飼ってません」

「さよか」


一丁前にネイティブ発音の関西弁を使う三崎は下宿組で、大学入学当初はサラサラ黒髪に訛りの一切ない綺麗な標準語を使っていた。出身地は知らない。


誰かが聞くたび、真顔でコモロだとかジブチだとかはたまたミクロネシアだとかわけのわからない地名を適当に転がしているから、たぶん実際誰も知らない。まあ、言いたくないことは無理して言うこたない。


さっきまでガチガチだったガリガリくんが溶けはじめていた。


冷風に冷えたフローリングに再び腰を下ろしながら、ようやく水色の角に歯をたてる。しゃり、と涼しい音にぶは、と噴きだす三崎の声が重なった。


「らんまて、乾」


向かいに胡坐をかき、テーブルの上の漫画の山を見て笑う。


「きみはほんまに現役女子大生かね」


伏せておいた二十二巻に手を伸ばして私は答えた。


「どっからどう見ても花の」

「花の女子大生がらんま読むう?」

「三崎くん、きみは今私を貶めようとするあまりこの名作を侮辱しかけている」

「うぜえ」


うるせえ、笑って可憐なシャンプーに目を落としたところで、灰皿貸して、三崎が言った。顔をあげるとアメスピ片手に吸う気満々の三崎。こらこら。


「ここ禁煙」

「え、阿久津って煙草吸わへんの?」

「阿久津が吸うから、禁煙」

「徹底してんなぁ、彼女」

「殺されたくないんで」


誇張なく言うと三崎は持ち前の薄情ではは、と笑った。笑うとこちゃうで雪だるま。


潔く諦めてくしゃくしゃのアメスピをデニムのポケットにしまうと、山から探しだした一巻を手に取る。三崎に見つめられるらんまとパンダ。


「阿久津ってなに吸うん」

「赤マル」


へえ。聞いておいて興味もなさそうに目を伏せた三崎は、漫画を開いて勝手に読みはじめる。まったく無法な雪だるまだ。


ガリガリくんを小さく齧りながら私は、くるくるの黒髪に陰る白い肌を盗み見た。


帰省なし組で盆前後に白浜行こうって話、三崎は知ってたっけ。三崎に限ってすでに予定があるとかはないと思うけど、今のうちに言っとこうか。こいつはちょっとは焼けさせねば。


ほうっておくと年がら年中それこそ雪のように白いままの三崎の肌を恨めしく見つめていると、ふいに顔をあげた三崎とテーブル越しに目があった。


三崎のまぶたは一重だけどオブラートのように薄く、多くの腫れぼったいまぶたや無暗やたらな切りこみの二重まぶたとは一線を画している。この男に限っては無駄な装飾を与えないほうが吉、と珍しく神様が好判断を下した結果だとも思える。


コモロだかジブチだかミクロネシアだかには、聡い神がいるらしい。信じた物語を抱えて今日も誰かの家のドアの前に立つおばさんたちがお熱な神とは、きっと相容れないだろう。


目をあわせたままぼんやり考えていると、三崎の唇が動いた。映像に声が乗ってこなくて、え?聞き返すと三崎がもう一度唇を動かしてようやく届く。


「赤マルの阿久津は今日ここ来るんですかって」


私は首を振った。


「阿久津はカナダ」

「あ~、あの触れまわってたやつ?」


頷くと三崎は頬の空気を抜くように、つまらなそうに笑う。


「ハッパなんてどこでも買えんのに海外遠征て。気合入ってんな彼氏」

「アホやねん」

「彼女辛辣」


聡い神の好判断を伏せて薄く笑い、再び漫画に目を落とす三崎は、阿久津の友達でも知り合いでもなんでもない。


うちの大学の三回生以下が呼ぶ「阿久津」は、ほぼほぼ「阿久津とかいうやべえ四回生」の略の「阿久津」だ。私の友達が呼ぶ「阿久津」は、「阿久津とかいうやべえ四回生で乾の彼氏」の略の「阿久津」。三崎の呼ぶ「阿久津」は後者だ。


この上なく不名誉に名が知れわたっているだけなのに、阿久津は自分をちょっといかした有名人だと思っているアホだから救えない。


大学のあちこちで合法マリファナツアー行きを言いふらしていたアホ。合法の意味を知らないアホ。謎の女たちを帯同して謎の経営者たちとカナダに飛んだアホ。なんでもいいからさっさと捕まればいいアホ。私が呼ぶ阿久津は「阿久津とかいうアホ」の略の「阿久津」。


それから私と三崎は黙ってらんまを読んでいたけど、


「この部屋やっぱ寒いって」


まもなく三崎が腕を擦りながら言いだした。私の左手でまだ生きているガリガリくんを気味悪げに見る。


「おまえようそんなもん食うな」

「はは。雪だるまのくせに」

「さっきからその雪だるまてなに?」

「わはははは」

「笑ろてんと。羽織るもん貸して」

「香水つけてへんなら毛布使ってええよ」

「あそ?どーも」


片腕を伸ばして背後のベッドから毛布を引きずりだし、身体に纏って一巻を再開する「どーも」でさえどことなく西の響きの三崎。


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