某大学生
三月
前篇
p1
彼氏の阿久津がカナダへ合法マリファナツアーに行っている夏休みの生活はだいぶ平凡だ。
電気代についてうるさく言わない親のもとで育ったせいですぐにエアコンをバカバカ使ってしまう私は、真冬みたいにキンキンに冷えた部屋でキャミソールの上にカーディガンを羽織り「らんま1/2」を読んでいる。二十二巻。シャンプーってなんでこんなに可愛いわけ?
なかなか溶けないガリガリくんを呑気にちろちろ舐めながら、反転宝珠をつけたシャンプーが乱馬をぶん殴っているシーンを読んでついついにやーとしてしまったとき、呼び鈴が鳴った。まったくいいところなのに誰だ。
最近昼間の宗教勧誘訪問が絶えない。
この時間のピンポンでドアスコープを覗くと十中八九、双子レベルで顔の酷似したおばさんふたりが素敵なパンフレットを持って立っている。そこに書かれた夢物語を読むと、いつも私は容易く気分を害してしまう。普段は見て見ぬふりしている巷のブラックホールにみすみす足をつっこんで、自分のことも友達のことも阿久津のことも家族のことも両手放しで一斉に嫌いになる。たぶんこんなにかわいいシャンプーのことも。シャンプーはきっと誰からも常に愛されるべきなのに。なぜならシャンプーはあれだけの魅力を持ってして、愛すべき乱馬に愛されないという物語の絶対的宿命を担っているからだ。私はラブコメを恨む。もう一度鳴る。
可憐なシャンプーに暫時別れを告げて、漫画をテーブルに伏せた。
薄く憂鬱だ。半紙くらい薄く。墨汁くらい黒く。憂鬱の端っこを文鎮で押さえて「やむなし」としたためてから立ちあがる。
こうなったら灼熱のもと半袖で頑張るおばさんふたりをこのマイ冷凍ワンルームに招き入れてガタガタ言わせてみた挙句、魅惑のルーミックワールドへと逆にこっちがいざなうチャレンジでもしてみるか。彼女らもシャンプーの健気を見れば、こんな大学生の小娘相手に布教活動などする夏の無為を知るだろう。紙飛行機くらいにはなれた私の憂鬱の半紙は、持ち前の軽さで夏空をどこまでも飛んでいく……。
うーん、ウィンウィン。
うっかり心躍りながらドアスコープも覗かずサンダルをひっかけて、ドアを開ける。むわーと熱気が押してくるその向こうに、宗教勧誘から500マイルは距離のある男が立っていた。
上から眉を隠す伸び気味くるくるアホパーマ、オーバーサイズのボロTシャツ、ダボデニム腰穿き、ちょっとそこまでの便所サンダル。あいかわらず腑抜けた格好の三崎と、夏の叫喚。みーんみんみんみんみんみん。
「よ、乾」
三崎はさして筋肉のついていない骨ばった長い腕を軽く持ちあげ、顔の斜め下でピースサインをびし、として言った。私も左手のガリガリくんで同じようにびし、と返して聞く。
「どしたんいきなり」
「近くまできたから、遊びに」
「近くまでって、そもそもアパートすぐそこやろ」
「そもそも暑いから入れて」
「そもそもの使い方変やで」
「溶けちゃう。はよ入れて」
溶けちゃう?はよ入れて?お前は定期的にこの部屋に涼みにくる雪だるまか?一瞬の逡巡をつまらないジョークで逃がして、私は三崎を玄関に通した。
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